以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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 フンメルの演奏旅行のスタートは、12月の氷と雪の凶悪な条件の元でスタートした。こうした当時の旅行は過酷であり、現代のヨーロッパ旅行、ロマンチック街道、古城めぐり等と異なり、ロマンチックとは程遠いものであった。
 
 馬車をはじめ、時にはソリやコーチを利用しての旅は最悪であり、危険であり、大変不快なものであった。それは、モーツァルトの同様な旅行を思い出すと良い。怪我や盗賊、事故、腰の痛みや床ずれ、骨折....など不快の要素を並べつくしたような状態であった。各地での演奏会は、今でいうコンサート・リサイタル等とは程遠いもので、良い時は貴族の邸宅で、最高に洗練された聴衆は宮殿での演奏会であったらろう。しかし最低の場合は、地元の居酒屋での下品な酔ったお客を前に演奏しなければならない事もあった。一行の立ち寄ったおもな都市は、プラハ、ドレスデン、ベルリン(ここでのコンサートではモーツァルトと再会している)、ハノーバーとコペンハーゲンが含まれていた。大都市では数日、長ければ数カ月留まって、ヨハンの神童ぶりを披露していった。見返りは贈り物や金銭であり、これもモーツァルトの時代と変わっていない。

 1790年の春には、ハンブルクの港を経由して、スコットランドの首都エディンバラまで足を延ばした。海峡を渡る際は暴風に巻き込まれるという危機に見舞われたが、幸い全員無事に渡りきることができたのだった。
 
 若いフンメルはその驚くべき演奏技量で、エジンバラでは盛大な歓迎を受けた、引っ張りだことなったため、数カ月にわたって滞在している。その間は、御前演奏や特別計画されたコンサートに出演し、その他ピアノのレッスン依頼が殺到した。
 
 その後、父子はダーラムとケンブリッジ経由で南下し、ロンドンへ向かった。1990年の秋にはロンドンに到着し、そこから2年もの間滞在することとなる。

 
交響曲(プロローグ)
 時を同じくしてJ.ハイドンもロンドンに滞在していた。彼は興行主・ザロモンに招聘されて、あの有名なロンドン交響曲を披露し、熱狂的な歓迎の渦の中に合った。そんなハイドンはロンドンでかなり多くの演奏会を開催していたが、その中の何回かにヨハンに出演させ、ハンドンのピアノ三重奏をヨハンに演奏させたりして交流を深めた。ハイドンの三重奏曲は、王ジョージ三世と王妃シャーロットに献呈されたものもあり、御前でのヨハンの演奏に感動した王妃たちはヨハンを高く評価し、これがきっかけとなってフンメル父子のロンドン滞在が長く、成功したものとなったのだった。

 1791年には、ヨハンの最初の出版作品が世に出ることとなる。Op.1を与えられた「ピアノのための3つの変奏曲」は、ロンドンの民謡とドイツの民謡の旋律を取り上げて作曲された曲集である。この時期に実際にフンメルに会い、その演奏を聴いたロンドンの著名なビジネスマンで音楽愛好家ウィリアム・ガードナーは、次のように書き残している。

 「幼いモーツァルトを除いて、このロンドンを訪問した多くの中で、最も驚くべき演奏だった」

 【打込音源】ピアノのための3つの変奏曲集,Op.1 より
第2番 「ドイツ民謡」による変奏曲ト長調


Muzio_Clementi またこの時期、師匠のモーツァルトと競演した事で有名なクレメンティからピアノ演奏の総仕上げとも言うべき指導を受けている。モーツァルトからウィーン式演奏法を、ロンドン楽派の基礎なるクレメンティからは力強いイギリス式演奏法を習得した最初の演奏家となった。

 この時期のフンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の「3つの変奏曲」の出版予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。
 
 

 フンメル父子は、この後の演奏旅行の計画ではフランスを経由してスペインにまで及んでいたが、ロンドンからの帰路、オランダでフランス革命の渦に巻き込まれることとなり、父子が乗っていた船はフランス革命軍の戦艦に攻撃されてしまった。大砲の応酬の中、ヨハンの隣には、重傷を負った水夫がいたという。その他怪我をした人や重症を負った人がたくさん運び込まれてきた。そうした不安の中での船旅は最悪であったことだろうと想像がつく。

 幸い父子はハーグに入ることができ、約2か月間の避難生活を余儀なくされた。しかしフランス革命軍のアムステルダム侵攻によって、再び北方へと非難することとなる。その直前に避難場所の提供などしてくれた当時のオラニエ公の為に演奏会を開催して感謝の気持ちを伝えたのだった。

 そこから、彼らはケルン、ボン、フランクフルトを通って東に移動し、旅立ってから5年後、ウィーンの西100キロにある小都市リンツでフンメルの母親らと再会した。

 この旅行の間にヨハンは作曲家としてデビューし、またハンドとのより親密な関係を築き、多くの有力者たちの知遇を得ることができた。ピアノ演奏家としては、出発した当初とは比較にならない程の技量を身に着け、生涯得意としていた即興演奏は万人を惹きつけ、演奏家としての実績と名声を得ることができたのだった。

 フンメルがウイーンに戻ったのは1793年初頭。師匠のモーツァルトは1年と少し前に他界していた。

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