3037793●フンメルは神童であった。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。4歳で楽譜を読むことができ、5歳でヴァイオリン、6歳でピアノを演奏した。8歳のとき、弦楽器演奏家でもあり、指揮者でもあった父ヨハネス・フンメルがアウフ・デア・ヴィーデン劇場(モーツァルトの歌劇『魔笛』やベートーヴェンの第9交響曲などの初演劇場)の音楽監督となり、一家がウィーンに移り住んだが、父の地位は、音楽現に触れるという貴重な経験を息子に与えることになった。

●フンメルはウィーン到着後すぐにモーツァルトに師事して、ピアニストとしての長足の進歩を示した。彼の父によると、モーツァルトはこの少年から強い感銘を受け、無償でレッスンするほどであったようで、当時よくあったように、彼を同居させた。2人はかなり意気投合したと思われ、しばしば一緒にウィーンの町を歩き回った。フンメルの最初の公開演奏は1787年にモーツァルトの主催する演奏会においてであったといわれているが、彼の生涯のこの時期の証拠資料には矛盾がある。1788年にモーツァルトはレッスンを続けられなくなり、音楽家としての独り立ちを勧めた。それによって、フンメル父子は4年に及ぶ演奏旅行を行うこととなった。プラハに立ち寄ったときにドゥシェックやトマシェックと知り合い、その後ドレスデンへ赴いた。同地で1789年3月10日にフンメルはピアノ協奏曲を1曲と、<リゾンは森で眠っていた>の主題に基づくモーツァルトの変奏曲、自作の変奏曲(これは最初期の作品であったに違いない)を演奏した。後にフンメルの父は誤って、モーツァルトがこのとき聴衆の中にいて、この少年は美術におけるラファエッロのようなピアニストになるだろうと叫んだ、と言っている。しかしモーツァルトがフンメルの演奏を聴いたのは、実際には約10週間後のベルリンでの演奏会においてであった。いずれにしても、幸先のよい幕開きで、それに力づけられて父子は長期にわたる演奏旅行を企て、ベルリン、マクデブルク、ゲッティンゲン、ブラウンシュヴァイク、カッセル、ヴァイセンシュタイン(同地でフンメルは天然痘に感染)、ハノーヴァー、ツェレ、ハンブルク、レンツブルク、フレンスブルク、リューベク、シュレスヴィヒ、コペンハーゲン、フューン島のオーデンセで聴衆の前に姿を現した。これらの演奏会は概して賭けに近い冒険であって、ヨハネス・フンメルの日記は何度か客の入りが悪いときもあったことを示しているが、全体的には満足いくものであったと思われる。

●1790年春に父子はエディンバラに到着した。同地では大きな反響を呼び、生計を支えるのに充分な人数の弟子を得て、2人で教え、フンメルが英語を勉強するという余裕も生まれた。3ヶ月後に彼らは南下し、ダーラムとケンブリッジで演奏会を開き、同年の秋にロンドンに到着した。確認できる同地での最初の演奏会は1792年5月5日にハノーヴァー・スクエア・ルームズにおいてであって、このとき彼はモーツァルトのピアノ協奏曲と自作の「新しいソナタ」を演奏した。なおイギリス生まれのF.L.ハメル(Hummel)という神童がいて、この時期に関する資料に混乱が見られる。製造業者で音楽に造詣の深いウィリアム・ガードナーは、ずっと後になってフンメルについて「若きモーツァルトを別にすれば、イギリスを訪れた最高の少年演奏家」と書いた。フンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。

●フンメル父子は、2年間のロンドン滞在後は、さらにフランスかスペインに演奏旅行を続けようと計画していたが、革命による混乱に妨げられ、1792年秋のある時点でオランダに向けて出発した。同地で2ヶ月間、毎日曜日にハーグのオラニエ公の宮殿で演奏するが、フランス軍の侵攻に遭遇し、やむなくアムステルダム、ケルン、ボン、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、さらにバイエルンを通ってリンツに行き、そこでフンメル夫人(母)と合流した。1793年初頭までに一家はウィーンに戻った。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です