elisabeth1●1814年頃に妻エリザベートは、ピアニストとして再び舞台に立つよう夫を説得した。彼女は機を見るに敏で、折からのウィーン会議のために開かれた多くの演奏会やパーティーでフンメルは貴族や高級官僚の前で演奏して一躍名を馳せ、それによって彼らの多くは国際的音楽マネージャーのような役割を果たすことになった。1816年春のドイツ演奏旅行は彼に新たな自信を与え、名声は不動のものとなった。しかし経済的安定は得られなかった。フンメルは家計を支えるために安定した専属の地位を探そうと決意した。同年末にシュトゥットガルトの楽長となって、希望がかなえられたかのように見えたが、素晴らしい礼拝堂と傑出したオーケストラがあるにもかかわらず、その地位は満足いくものではなかった。作曲の時間がとれず、また演奏旅行については常に許可を取る闘いを強いられた。彼はシュトゥットガルトの趣味が悲惨なほど低俗で、窒息しそうに感じていたし、オペラ劇場では貴族の経営陣が粗野なフンメルを嫌って画策し、不快な思いをさせられた。1818年11月にフンメルは辞職して、ワイマール大公の楽長となった。1819年1月5日付の新しい契約書は決定的に改善されていた。すなわち年3ヶ月の休暇が、ヨーロッパで演奏会がたけなわの春に取れるというものであった。さらにカトリック教徒の彼は、このプロテスタント宮廷で宗教音楽を監督するという義務が免除された。

dis0000●ワイマール時代は快適で実り豊かなものであった。フンメルは庭園付きの家という全く富裕な生活を営んだ。ゲーテを通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合って、まもなくワイマールを訪れる人々の人気の的となった。ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならなかった。彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであった。ここでも契約は有利なものであって、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。おそらくこうしたオペラ公演の成功によって、彼は1826年にヴェーバーの死去によって空席となったドレスデンのドイツ・オペラ監督候補に挙げられた。ワイマールでのその他の職務は極めて多忙であった。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、1829年のパガニーニがその例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなく、弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成であった。


DVC00535bis1●1820年代は個人教授と作曲に充分な時間を割くことができ、フンメルの最も実り多い時期の一つとなった。自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷やフリーメイソンの集会のためのカンタータ、出版業者たちのための序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などもある。しかし彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していたが、いずれにしてもその台本は興味を引かないものであったように思われる



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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です