●1820年代もまたフンメルは巡演する大家として多忙であった。遠くロシアまで行き、1822年に同地でジョン・フィールドに、1828年にポーランドでショパンに会い、またフランス、ネーデルランドも訪問した。1827年にフンメル夫妻は弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。この邂逅は最後の和解となり、フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの医師を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた。この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

01●1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。この演奏旅行は彼の成功の頂点であって、その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めた。1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務めたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。


 
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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です