エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」と助言したのだった。

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1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。フンメルは音楽家としての本来の演奏や作曲といった活動を柱とすべくウイーンに戻ってから4年もの間こうした多忙な生活を続けていくことになる。

 1806年にベートーヴェンのオペラ『レオノーレ』の上演の際、フローレスタン役を担った有名な歌手:ジョセフ・レッケェルの妹:エリザベート・レッケェルと出会ったのは1812年、エリザベートが19歳の時であった。美しい歌声と美貌を持つこの若き歌手にフンメルは求婚し、結局翌年の1813年、エリザベートが二十歳になって結婚した。

 この事は再びベートーヴェンとの間に軋轢を生む結果となってしまった。ベートーヴェンはもっと以前からこのエリザベスの才能を高く評価し、また恋心を抱いていたと言われている。ベートーヴェンの遺品にあった宛先不明の「不滅の恋人へ」の手紙は、このエリザベートへ宛てたものだという説もある。でも有力なのは「テレーゼのために」ですね。


 *この辺りについては、以前にも記事を書いたので参照ください。
「エリーゼのために」本当は「エリザベートのために」?


 ベートーヴェンも彼女に求婚したとする伝記作者もいる。ともかく、彼も彼女に思いを寄せていたことだけは間違いないであろう。しかしベートーヴェンにはブレンターノ嬢の存在もあったし、結局エリザベートはベートーヴェンではなく、フンメルを選んだのだ。当時はどちらが偉大という感じでなく、むしろフンメルの方が高く評価され、ベートーヴェンは異質の天才、と評価されていた。そのため「幸福な人生」を送るための選択として正しかったかどうかを見ると、この選択は決して間違いではなく、むしろ正しい選択だったと思えてくる。もちろんエリザベートがベートーヴェンを嫌いであったはずもなく、その才能も含めて大変に敬愛していたことは間違いない。

 とはいえ、ベートーヴェンとの接触がなくなったわけではなく、例えば1813年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め(*)、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。
(*)1813年にナポレオンの敗北に伴い、ベートーヴェンのウェリントンの勝利の祝典曲が演奏されることとなった。フンメルは1813年12月の初演のために結成されたオーケストラの一員として、友情参加していた。他にはサリエリ、シュポア、マイアベーアとモシェレスらも参加していた。

 しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きくなっていった。

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