エリザベートとの結婚生活と共にフンメルの作曲家としての名声も活動も充実の一途をたどっていた。

この頃にフンメルは二人の息子を授かった。
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長男のエードゥアルトは後にピアニストに、次男カールは画家となった。カールは後にショパンのスケッチを書くことにもなる。しかし、この「職業作曲家」としてのピークを迎えようとしている時期に、若い妻は歴史に影響する助言をフンメルに与えることとなる。

 エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、

「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」

と助言したのだった。

 
 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。

 そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べている。
 

Spohr-autoportrait「彼の演奏は、規律正しく優雅できらびやかで、素晴らしいものであった。特に先ほど演奏されたばかりのワルツの主題をとって、即興的に変奏を繰り返し、最後は華やかなコーダで締めくくった演奏は、驚くべきものだった」

 ベートーヴェンの方は耳の病気のため演奏活動から遠ざかることとなり、より作曲活動へ集中していくこととなった。逆にフンメルはピアノの巨匠として音楽界に返り咲くことになったのである。この時期からフンメルの作曲活動は、自身の演奏会用のピアノ作品が中心になっていったのである。
 

 早速、フンメルと彼の妻はトリエステ、プレスブルク、プラハを含むコンサートツアーに出かけた。1816年1月にはウイーンに戻り、代表作の一つ「七重奏曲 ニ短調、Op.74」を初演し、大好評となった。
■「七重奏曲 ニ短調、Op.74」(第1楽章打込音源紹介)

 
  プラハでは、カール・マリア・フォン・ウエーバーと会い、ピアノリサイタルを聴いたウエーバーに大きな衝撃をもたらしている。ウエーバー自身もピアノのヴァルトーゾであったが、彼は劇音楽の分野で有名になる。フンメルもウエーバーの才能を高く評価し、彼の作品の編曲や、主題を利用した幻想曲やオーケストラ作品を作曲し、最後まで敬意を表していた。

 

 エリザベートの助言に従って行ったこのツアーでフンメルは確信した。演奏家の大家としての自分の立ち位置、と自分らしさを表現する活動の方法を。

 こうして、ベートーヴェンと同じ土俵での競争に終止符を打つこととなったのである。


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