フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

2012年11月

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−11.最後の10年と死

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 1828年に大公カール・アウグストが無くなってからは、実質上は新大公としてカール・フリードリッヒが統治していたが、フンメルの崇拝者でピアノも学んでいたフリードリヒの妻マリヤ・パヴロヴナ公妃が、フンメルへの多くの支援を強化されることとなった。フンメルとは何かと馬が合わなかった管理官のシュトロマイヤーが引退を余儀なくされ、先代の愛人的存在でワイマールで長期滞在していたソプラノキャロライン・ヤーゲマンも権力を失っていった。こうした状況かになってもまだフンメルは音楽家たちの生活改善、環境の整備についての提案と要求をし続けていた。

 また、1828年という年は歴史的な出会いもあった。この年の演奏旅行は比較的短期間であったが、ベルリンからワルシャワ方面へ向けてのみのであった。このワルシャワで若い才能豊かな青年・ショパンと出会っているのだ。
chopina ショパンは、自分を評価してくれている地元の人たちの意見と今の自分の音楽が本当に現代の多くの人たちに受け入れられるのかどうかと悩んでもいる時期であった。そしてフンメルの演奏を聴いて確信できた。自分は正しい、と。
 フンメルはこの青年の才能を高く評価し、「今のまま自分を信じて続けなさい」と言った。ショパンのその後のピアノ協奏曲にはフンメルの影響が大いに認められる。フンメルとショパンは後年ウイーンでも再会しているが、この時はフレンドリーなフンメルの態度を友人に綴っている。
「フンメルじいさんはとても人懐っこい良い人です」

 1829年は演奏旅行は行わず、家族でカールスバートのスパで休暇を取って、イギリスへの彼の訪問の翌年に向けた準備をはじめた。イギリスでは1822年を初めてとして何度もフンメルを招待していた。フィルハーモニック協会の会員の間で、フンメルは巨匠としての評価が高く、知名度は高かったのだ。またこの年も招待状が届いていた。1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となったため、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行ったのである。
 
 フンメルはロンドンに行く前にパリに寄って2回ほどコンサートを開催したが大変な成功を収めた。ロンドンでは、公演に先駆けて、同郷の友人たちでもあるモシェレスやカルクブレンナーが事前告知を大々的に行ったため、歓迎ムードに包まれた。様々なゲストが参加したフンメルのコンサートは評論家を唸らせた。また、当時の有名ソプラノ歌手:マリア・マリブランからの依頼を受けて作曲した、ソプラノとオーケストラの為のチロリアンのテーマによる大変奏曲(Op.118)を初演し、大喝采となった。
 フンメルはロンドンに3カ月滞在したが、その間女王のために演奏したり、モシェレスの収益のためにゲスト出演したりと駆け回った。
■「チロリアンのテーマによる変奏曲」Op.118
 

 今回の演奏旅行がフンメルのピークであった。以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。その時はパフォーマンス的にも人気絶頂にあったパガニーニと滞在が重なったこともあるが、既にリストや弟子のタールベルク等の若い世代のピアニストが「ショーマン」的にも成功を納めていたのである。またフンメルの技術が衰えたという指摘もあったり、楽曲が古典的であるため、古臭い古典派の音楽家(リスト談)、という印象が強くなっていったようである。
Hummel009 それでも1833年のロンドンへの訪問は、ドイツのオペラ楽団の指揮者としての訪英となった。ここでは懇意にしてくれていたイギリス国王夫妻の為の記念演奏会でモーツァルトやウエーバーのオペラを指揮した。お礼としてウインザー城にも招待された。
 自分の演奏会は計画していたよりも人が入らないため、多くがキャンセルされてしまった。それでも1回のコンサートとフィルハーモニック協会のために、クラーマーと共にゲスト出演し、新作のピアノ協奏曲(Op.posth.1)を披露したりもした。しかし、モーツァルトの幻想曲を連弾でひく際には、調子が悪くなり、途中で止めてしまうという悲しいハプニングもあった。

■最後の出版作品となった楽曲
ピアノとオーケストラの為のロンド「ロンドンからの帰還」,Op.127
 

 この1833年のツアーが演奏家としての最後のものとなった。しかし、フンメルがワイマールでの職位があり、収入が減るということはなかった。しかし健康はだんだんと蝕まれていって、1834年以降は殆ど療養生活にはいっている。調子のいい時は庭いじりしたり、ピアノを弾いたり、訪問者への記念帳にサインしたり、という生活だった。ただし必要なワイマールでの職務は続けていた。
Hummel3 1837年3月、ピアニストとなっていた長男のエドヴァルトが父のピアノ協奏曲を弾いたコンサートに参加した。これがフンメルの最後の演奏会となった。
 フンメルの健康は夏に入るとさらに悪化していき、寝たきりになってしまう。そして家族に看取られながら1837年10月17日に亡くなった。

 彼の死の三日後に葬儀が執り行われたが、そこではフンメルのカンタータが演奏され、追悼式典ではモーツァルトのレクイエムが演奏された。彼の死のニュースはヨーロッパ中を巡ったが、ベートーヴェンの死と比べると静かなものだった。これは古典派音楽の終わりを告げるものであった。

5f431 ワイマールはフンメルの功績をたたえ、遺族に多額の年金を保証した。またフンメルは家族に膨大な財産を残した。これは師匠のモーツァルトの生活を知る人の反面教師であったのだろうか? その性格とともに質素な生活を好んで無駄遣いせず、計画的な資産管理を行ったためである。おかげで未亡人となった妻:エリザベートは何不自由することなく、夫との楽しかった過去を思い出しながら、フンメルの死後45年も長生きした。

 フンメルの死後、彼の音楽は急速に忘れられていった。19世紀後半、ロマン主義と新しい音楽の波に追いやられ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという偉大過ぎる巨匠の陰に埋もれていったのである。  しかし、近年のフンメルの再評価は、様々な発見をもたらすようになった。彼の残した音楽の大半を聴くことができるようになった我々は、貴重な時代を生きているといえよう。
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−10.ベートーヴェンとの別れ

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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Portrait-of-Beethoven-by-Arthur-Paunzen
  フンメルは1826年にウィーンで楽友協会会員に選出された。また、長年の友人でもあり、若い時にはライバルでもあったベートーヴェンの体調が優れず、翌年早々には危ないのでないかという噂を聞いていたため、1827年にベートーヴェンとも旧知の仲である妻・エリザベートと一番弟子のヒラーを連れてウイーンに行き、ベートーヴェンを見舞った。
 
この時の様子は、ヒラーの自伝・回想録に描かれている。それによると、1827年3月8日から23日までの間に4回ベートーヴェンの家に訪れている。過去の25年に渡る間には、様々な諍いがあった。生き方の違い、作曲法の違い、弟子たちの争い、誤解による絶交... しかし、この最後の会談ですべてを忘れる厚い抱擁があったという。妻・エリザベートは、ベートーヴェンを着替えさせ、体を拭いてあげたりするなど献身的な看病をした。筆談ではあったが、ベートーヴェンはフンメルに伝えた。
 
「ヨハン、君は幸せ者だね。成功して立派な弟子もいる。
そして何よりこんな美しい素晴らしい奥さんがいるんだから」
 
ベートーヴェンはフンメルの楽友教会の主催する慈善演奏会の自分の席を確保するように頼み、自分が死んだら記念演奏会にフンメルが出演して欲しいとも述べた。さらにエリザベートには、自分の髪を切って持っていて欲しいと伝えた。そして、フンメルには是非とも著作権の活動を頑張ってほしい、言い残した。
余談【ベートーヴェンの遺髪】
「鉛中毒説」の根拠となったベートーヴェン毛髪の研究は、1994年、ベートーヴェン研究家アイラ・ブリリアント氏とアルフレッド・ゲバラ氏がロンドンのサザビーズで毛髪を落札したのが始まりです。その後DNA鑑定の末、彼の病気に関してさまざまなことが判明したのですが、この毛髪を巡る歴史的な展開は「ベートーヴェンの遺髪」(白水社)という本にまとめられています。2人が遺髪を落札して、鑑定を依頼する話とは別に、170年の間、遺髪がどういう経路を辿って競売に付されたのかを探っています。
かいつまんで紹介しますと、1827年、ベートーヴェンが他界した時、弔問に訪れた音楽家のフンメルと弟子のヒラーが、遺髪を切り取りロケットに収めたのが「運命」の始まりです。ヒラーが死の前に息子のパウルに譲り、1911年、パウルが形見のロケットを修理に出した後、遺髪は数奇な運命を辿っていきます。その後遺髪が確認されたのは、ナチのユダヤ人迫害が強まった時代、デンマークの港町ギレライエの町医師のところでした。ユダヤ人であったヒラー家とナチ時代の迫害、そしてデンマークへの移動と、ベートーヴェンの意思とは関係なく、遺髪は歴史の流れに翻弄されました。最後に、ベートーヴェンが生前弟子に託した中で、自分の病気の解明というのがありましたが、この遺髪のおかげで、少なくとも彼を終生悩ませた下痢や腹痛に関して大方の原因が解明されました。(「作曲家の病歴2. ベートーヴェン」より)

23日の最後の訪問後の3日後、ベートーヴェンは息を引き取った。

フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、またシンドラーとベートーヴェン友人たちが主催した追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行った。
フンメルは第七交響曲のアレグレットからの変奏曲とオペラ『フィデリオ』のなかの囚人の合唱に基づく幻想曲を演奏したが、これは非常に多くの人感動を与えた、とヒラーは書き残している。
■ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番より第二楽章 

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−9.幸福なワイマール時代(3)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは執筆活動も行い、「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」等を執筆したが、そうした活動と絶え間のない弟子へのレッスン等に非常に多くの時間を取られるようになり、徐々に自作の作品の創造は減っていくことになる。
 もう一つは先にも触れた音楽家の著作権の保護の運動である。ベートーヴェンも頭を悩ましていた問題であるが、海賊版は作家に一銭の収入ももたらさない。それを撲滅するための運動であった。こうした活動を行った重要な音楽家としては史上初となる。

 こうした公務、執筆、著作権の活動があり、1824年は演奏旅行には出かけず、ワイマールに留まった。この年翌年のツアーの為の計画を練っていたフンメルは、長年の経験と知恵を絞り、行く都市に先行して大々的な宣伝活動を行うように広報活動をすることとしました。この役目にフンメルの崇拝者であるパリ音楽院監督だったケルビーニが買って出た。



Moscheles 当時のパリは、モシェレスカルクブレンナーらのようにドイツやイギリスからの若いピアニスト、その他多くの国と地域から演奏会に訪れる人たちで溢れる音楽界の華やかな中心都市となっていた。フンメルはそのパリに妻エリザベートと長男、弟子
Kalkbrenner
のヒラーを伴って、1825年にやってきた。4月にはラサールエラールで4回の公演を成功させた。ここでフンメルは実際には1814年に作曲されたピアノ協奏曲(第4番)ホ長調『告別』,Op110を新作として発表した。ただし、オーケストラは手直しし、トロンボーンの追加など改定した。ピアノパートもより華やかに、テクニカルに改定された。また、現在の原曲の構成を拡大し、最終版では1/5程がこの時期に追加された部分である。

 この年のパリでの演奏会は大きな賞賛を生み、コンサートのチケットの争奪戦は記録的なものだった。こうした功績から、翌1826年には現在でもフランスの最も名誉ある賞とされる『レジオンドヌール勲章』の対象者として、若いリストと争われました。聴衆はフンメルに充分な資格があるという意見が多かったため、受賞となった。
 こうした演奏旅行で得た実績と名声は各国で賞賛され、彼の肩書には、ワイマール白隼勲章、フランス学士院、ソシエテ・デザンフォン・ダポロン、ジュネーヴ音楽協会、オランダ音楽振興協会、ウィーン楽友協会の会員、という文字が並ぶ。またロンドンのフィルハーモニー協会の最初期の名誉会員にもなっている。
■ピアノ協奏曲第4番ホ長調,Op110『告別』より
 


 ワイマールでも様々な交流を行っている。ゲーテとは定期的に会い、ゲーテの家に呼ばれることも多かった。彼の家で私的な演奏会もしばしば行われており、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈している。
 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては、下記があげられる。
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB) 
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声) 
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失 
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失 
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum 

 1825年、旅に出なかった年、ワイマールに友人でもあるモシェレスを呼び寄せて、演奏会を企画した。その後、フンメルはわざわざ訪問してくれたモシェレスのために壮大な晩餐会を主催し、大公妃の前で二人で連弾も披露した。
 
 こうして、フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなしたことは前回述べた)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に演奏に、と活躍して町中から愛される存在であった。

 ゲーテと共にワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となっていった。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−8.幸福なワイマール時代(2)

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 フンメルは、毎年の休暇を利用してヨーロッパ各地への演奏旅行を計画した。
 1820年は、プラハからウイーンへの演奏旅行で、ここではフンメルの以前の作品(未出版で知られていない)作品を演奏した。
 1821年に彼はベルリンへ行き、プロイセン王フリードリヒの前で御前演奏をしている。さらにこの都市では楽長を務めていたオペラ作曲家のスポンティーニと交流を持った。
479px-John_field 1822年、フンメルは彼はロシアへの演奏旅行に出かけ、サンクトペテルブルグとモスクワ等を訪問した。ここではアイルランド出身でクレメンティの弟子でもあったピアノのヴァルトーゾ:ジョン・フィールドと交友を深め、連弾して楽しんだりした。フンメルはフィールドのノクターンに感化され、フィールドはフンメルの華やかな二重トリルやパッセージなどに影響されることとなった。 1823年には、イギリスへ渡り、ロンドン公演ロイヤルコートでのパフォーマンスで大熱狂の嵐となる。

 
 ロンドンからの帰りはオランダ経由となったが、様々な主要都市で自分の作品の海賊版が出回っていることにショックを受け腹を立てた。これがきっかけでフンメルは著作権の確立を目指して活動していくことになった。



 ワイマールのような芸術や音楽に理解のあるところでも問題は起きていた。当時ワイマールの管理官だったカール・シュトロマイヤーには、多くの問題点を提出している。しかし一方で、フンメルは精力的に劇場監督として舞台作品を取り上げ、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられていた。フンメルによりレパートリーは変わり、モーツァルトをメインとして、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども取り上げられるようになっていった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。
 また、有名な音楽家の招聘にも尽力し、最新の音楽と演奏を聴くことができる環境をワイマールで整えていったのである。 

Niccolo_Paganini01 1829年の世界的ヴァイオリニスト:ニコロ・パガニーニの招待がその代表例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなくても(弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成)、大きな技量を蓄えていくことができたのである。



 ワイマールは、プロテスタントとカトリックの両方の教会・信者が存在したが、​​フンメルは新たに教会音楽を作曲することはなかった。ただ、エステルハージ時代の多くの教会音楽を出版している。
 作曲活動としては、自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷や自分が在籍したフリーメイソンロッヂの集会のためのカンタータ、出版業者からの依頼によって様々な作曲家の序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などを受注した。この辺りはベートーヴェンとは違い、フンメルはあくまでも職業作家であったと言えよう。
【打込音源紹介】
■フンメル「選び抜かれた序曲の四重奏編曲集,S.107〜130」より
グルック(フンメル編曲) 歌劇『:「トーリードのイフィジェニー」序曲


 1820年代後半からは、大きな仕事に取り組むことで、自作の新作は激減していった。彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していた。ただし、いずれにしてもその台本はフンメルの興味を引かないものであったようである。「ピアノ奏法の理論と実践詳論」は1828年に出版されるや否やヨーロッパ中でバイブルとして普及していった。

 もう一つは、悪徳出版社や海賊版の徹底排除に関する運動で、これは結果的に音楽の著作権に関する史上初めての運動、ということになるであろう。フンメルは海賊版によって、どれだけ作家たちに入るべき収入が失われていったかを身に染みて知っていたのである。この件はベートーヴェンらとも書簡を通して対話していった。
 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−7.幸福なワイマール時代(1)

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 フンメルは1817年の年末、1756年以来、ワイマールで楽長してきたバッハの名づけ子でもあるのミュラーが亡くなって以来、同職は空席のままとなっていた事を知った。当時のワイマール公国は、芸術的分野の保護・推進に手厚く、評判が高かった。かのヨハン・セバスチャン・バッハも18世紀の前半にはここで活躍していた。そして、エルンスト・アウグスト2世がこの宮廷を納めていた。

220px-Karl_august_von_sachsen-weimar 夫の死後、公爵夫人アンナ・アマーリア(エルンストの未亡人)が彼女の幼い息子カール・アウグストに代わって統治をするようになる。アンナは、作家で哲学者のクリストフ・マルティン・ヴィーラントの『黄金の鏡』を気に入り、1772年に2人の息子の教育係としてヴィーラントを招いた。教育係としての役職は1775年まで続いたが、それ以降も彼はヴァイマルの宮廷に仕えることになった。そうした教育のおかげで息子カールも教育・文化・芸術の発展に熱心に取り組んだのである。

250px-Christoph_Martin_Wieland_by_Jagemann_1805 カールの統治が始まって最初に行った事の一つに、二年前から面識があり、非常に尊敬していたヨハン・ヴォルフガング・ゲーテを、ワイマール公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も勤めた)に任命したことだ。1775年にゲーテがワイマールに来て以来、シラー(1787年にはワイマールに定住)やヘルダーといった、後の世にも名を残すことになるドイツ文学の巨人がワイマールを訪れるようになり、ドイツ古典主義文学の牙城になり一大黄金期を迎えたのである。 
 そしてカールの長男カール・フリードリヒはサンクトペテルブルクでロシア皇帝パーヴェル1世の娘マリヤ・パヴロヴナと結婚した。彼女は音楽を愛しており、音楽の分野でも著名な音楽家を集めたり劇場が充実していくなど、さらに文化芸術都市の発展に貢献したのである。


 フンメルが赴任してくるのは、この時代である。知名度、実績、作曲家・演奏家としての能力、そしてモーツァルトの直弟子で後継者....。1819年の初頭、フンメルにとっては成るべくしてなったワイマール宮廷の音楽監督である。ここでの契約はフンメルにとってもエステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。もちろんここで彼がしなければならない事は、演奏会、行事の運営、書類の整理、文化人、音楽家の招聘と接待、作曲、ゲーテとの交流等、盛りだくさんであったが、彼は大きな庭付きの家を与えられ、快適な家庭生活を満喫できる環境も与えられた。彼は生産的な音楽活動と、家族を守こと、という大きな希望を叶えることができたのであった。

 音楽愛好家の皇妃マリヤ・パヴロヴナは真っ先にフンメルに弟子入りしピアノを習った。その後、ゲーテと共にフンメルを訪れる音楽家が増えていくようになる。ツェルターやその弟子のメンデルスゾーン姉弟は、何度も訪れている。弟子入りしてきた本格的な音楽家は、ルイーズ・ファランク、フェルディナント・ヒラー、アドルフ・フォン・ヘンゼルトらがいた。シューマンなどもフンメルに師事するか悩んだらしい。

*余談*ウイーン時代にも多くの弟子を育てているが、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴァーは未亡人コンスタンツェ(幼少期の第二の母でもある)に押し込まれたみのであったが、面白いエピソードとしては、エステルハージ時代に同僚であったアダム・リストが才能ある息子を連れてきたが、あまりにフンメルのレッスン料が高くてあきらめたという。結局フランツ・リストはカール・ツェルニーの門をたたくことになった。しかし、リストは自分の演奏会などでフンメルのピアノ曲、協奏曲を何度も取り上げている。特にイ短調Op.85とロ短調Op.89は、リストのテクニックを存分に見せつけられる主要なレパートリーとなっていた。リストのウィーン、パリ、ロンドンでのデビューコンサートはすべてロ短調Op.89であったという。リストは後年になってもモーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、ツェルニー等の曲を弟子たちに学ばせていたという。

 彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであったが、ここでも契約は有利なものであって「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。1821年には自身の『ギース家のマティルデ』Op.100を改作して演奏している記録がある。

 ■フンメル 歌劇『ギース家のマティルダ』Op.100より二重唱

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−6.ヴュルテンベルクでの苦難

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 演奏活動に復帰したフンメルであったが、どうしても気がかりなことがあった。それは一家の大黒柱として、妻子を養っていかなければならない事、その為には不安定な演奏活動だけでは心もとない、何とか安定した生活を維持したい、と思うようになった。これは元来の彼の性質であったのであろう。ベートーヴェンとの違いは音楽性だけではなかったのだ。そうしているうちに以前短期間だが従事した事があるシュツットガルトのヴュルテンベルク宮廷楽団の楽長の職を得ることができた。条件は管弦楽団の総監督等の他に、年に2か月間は無休であるが、フンメルが演奏旅行に出かけても良いという条件が付けられていた。一方でフンメルが望んでいた収入よりはだいぶ少ない提示ではあり、迷うところではあった。それでも1816年の10月に新作オペラを上演し、ピアニストとしても新作の協奏曲(有名なイ短調Op.85であろうと思われる)を披露して、その資質をプレゼンテーションしたのである。これを見た王フリードリヒ1世は大いに喜び、直ぐに彼を楽長に任命したのであった。

◆ピアノ協奏曲 第2番 イ短調,Op85より
第三楽章ロンド・アレグロ


 しかし、不幸にもこのフンメルを高く評価してくれたフリードリヒ1世は、フンメルが就任して1週間ほどで急逝してしまったのだ。跡を継いだのは息子のヴィルヘルムであったが、彼は音楽に対する造詣もなく興味もなかった。父の死に対し、シュツットガルト劇場の閉鎖を要求して、2か月の喪の期間を強要したのだ。またフンメルに対しても何の興味を見せず、11月にはフンメルの役職に劇場支配人のバロン・フォン・ヴェヒターを任命してしまった。フンメルに言わせれば、このヴェヒターという人物は、「ベルグ州裁判所へのデンマーク大使の息子で、横柄な貴族だった。何よりも音楽関しては全くの素人だった」という。

 フンメルは、その才能と実績、その名声にもかかわらず、エステルハージ時代と同じ運命となってしまうのであった。
 

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 問題は、次々と現れた。フンメルはもともと自分の演奏旅行の際やオペラの上演でエリザベートを伴って、歌手として出演させる事を希望し、契約上も受け入れられていたはずだった。エリザベートは実際に何度かコンサートで歌ったのであるが、ヴェヒターは彼女に報酬を支払おうとしなかったのである。そこでもしもこのまま支払われないのであれば、彼女の出演は拒否させる事とした。これは明らかにフンメルを快く思っていなかったヴェヒターとその首謀者による政治的陰謀が絡んでいたと言われている。
 こうした扱いにはもう耐えられないとして、フンメルは1818年9月に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム王によって却下されてしまう。ここから大変な労力を得てひとつひとつ辞任できる理由を提出、簡易的な裁判にまで及んだのである。こうした苦労を得てやっと6週間後に辞表が受理されることとなった。
 一方、シュトゥットガルトの聴衆は、彼の音楽的功績や才能を失うことを悔やんだ。後の時代になってもその後のフンメルの活躍を見ては、悔やみ続けたという。こうした民意と政治の不一致は、昔から存在していたのである。


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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−5.ウイーンでの活躍と結婚

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 1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。フンメルは音楽家としての本来の演奏や作曲といった活動を柱とすべくウイーンに戻ってから4年もの間こうした多忙な生活を続けていくことになる。

 1806年にベートーヴェンのオペラ『レオノーレ』の上演の際、フローレスタン役を担った有名な歌手:ジョセフ・レッケェルの妹:エリザベート・レッケェルと出会ったのは1812年、エリザベートが19歳の時であった。美しい歌声と美貌を持つこの若き歌手にフンメルは求婚し、結局翌年の1813年、エリザベートが二十歳になって結婚した。

 この事は再びベートーヴェンとの間に軋轢を生む結果となってしまった。ベートーヴェンはもっと以前からこのエリザベスの才能を高く評価し、また恋心を抱いていたと言われている。ベートーヴェンの遺品にあった宛先不明の「不滅の恋人へ」の手紙は、このエリザベートへ宛てたものだという説もある。
 *この辺りについては、以前にも記事を書いたので参照ください。

 ベートーヴェンも彼女に求婚したとする伝記作者もいる。ともかく、彼も彼女に思いを寄せていたことだけは間違いないであろう。しかしベートーヴェンにはブレンターノ嬢の存在もあったし、結局エリザベートはベートーヴェンではなく、フンメルを選んだのだ。当時はどちらが偉大という感じでなく、むしろフンメルの方が高く評価され、ベートーヴェンは異質の天才、と評価されていた。そのため「幸福な人生」を送るための選択として正しかったかどうかを見ると、この選択は決して間違いではなく、むしろ正しい選択だったと思えてくる。もちろんエリザベートがベートーヴェンを嫌いであったはずもなく、その才能も含めて大変に敬愛していたことは間違いない。

 とはいえ、ベートーヴェンとの接触がなくなったわけではなく、例えば1813年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め(*)、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。
 (*)1813年にナポレオンの敗北に伴い、ベートーヴェンのウェリントンの勝利の祝典曲が演奏されることとなった。フンメルは1813年12月の初演のために結成されたオーケストラの一員として、友情参加していた。他にはサリエリ、シュポア、マイアベーアとモシェレスらも参加していた。

 しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きくなっていった。

Hummel3 エリザベートとの結婚生活と共にフンメルの作曲家としての名声も活動も充実の一途をたどっていた。この頃にフンメルは二人の息子を授かった。長男の後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。カールは後にショパンのスケッチを書くことにもなる。しかし、この「職業作曲家」としてのピークを迎えようとしている時期に、若い妻は歴史に影響する助言をフンメルに与えることとなる。
 
elisabeth1 エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、
「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」
と助言したのだった。
 
 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
 そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べている。

「彼の演奏は、規律正しく優雅できらびやかで、素晴らしいものであった。特に先ほど演奏されたばかりのワルツの主題をとって、即興的に変奏を繰り返し、最後は華やかなコーダで締めくくった演奏は、驚くべきものだった」

 ベートーヴェンの方は耳の病気のため演奏活動から遠ざかることとなり、より作曲活動へ集中していくこととなった。逆にフンメルはピアノの巨匠として音楽界に返り咲くことになったのである。この時期からフンメルの作曲活動は、自身の演奏会用のピアノ作品が中心になっていったのである。
 
 早速、フンメルと彼の妻はトリエステ、プレスブルク、プラハを含むコンサートツアーに出かけた。1816年1月にはウイーンに戻り、代表作の一つ「七重奏曲 ニ短調、Op.74」を初演し、大好評となった。

七重奏曲 ニ短調、Op.74」(第1楽章アレグロ・コン・スピリート打込音源紹介)


  プラハでは、カール・マリア・フォン・ウエーバーと会い、ピアノリサイタルを聴いたウエーバーに大きな衝撃をもたらしている。ウエーバー自身もピアノのヴァルトーゾであったが、彼は劇音楽の分野で有名になる。フンメルもウエーバーの才能を高く評価し、彼の作品の編曲や、主題を利用した幻想曲やオーケストラ作品を作曲し、最後まで敬意を表していた。

 
 エリザベートの助言に従って行ったこのツアーでフンメルは確信した。演奏家の大家としての自分の立ち位置、と自分らしさを表現する活動の方法を。
 
 こうして、ベートーヴェンと同じ土俵での競争に終止符を打つこととなったのである。


 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−4.ハイドンの後継者として

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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 フンメルの作曲の才能は、エステルハージ邸に在籍していた8年間の間に、宮廷で求められた新作の要求ら応える形で、合唱音楽や宗教楽曲の分野で革新的な発展を遂げた。 
 ここの楽団には優秀なミュージシャンが集められており、100人規模のオーケストラと歌手を抱えていたのである。ハイドンによる鍛え上げもあって、レベルの高い演奏する楽団としてウイーンでも名が通っていた。
 興味深いこととして、フンメルが楽長を務めていた当時、このオーケストラの第二チェロ奏者にアダム・リストが在籍していたことである。彼は1812年に生まれるフランツ・リストの父親である。

 フンメルの最初の仕事は、1803年にウィーンの宮殿で開かれたコンサートを取り仕切る事であった。当時こうした演奏会で披露された曲の一曲に、有名なトランペット協奏曲(ホ長調)がある。当時の巨匠アントン・ワイディンガーの技巧を活かすために書かれ、この曲はワインディンガーによって1804年の元旦にウイーンで初演されることとなった。
 フンメルの音楽は、モーツァルトの影響を前面に出した構成とメロディーで、軽快なアレグロでウイーン古典派最盛期の音を轟かせたのである。さらに、第三楽章では聴衆の受けを狙ってか、当時ヒットしていたケルビーニのオペラから人気のある現代的な行進曲のテーマを取り上げて、フィナーレを盛り上げた。
 この曲はエステルハージやウイーンの聴衆に賞賛をもって受け入れられた。

 フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。
 しかし順調という訳ではなかった。フンメルのエステルハージ邸での仕事は全てが分担制になっており、権限がない部分も多く、この楽団を上手く一つにまとめ上げることができないでいた。特に1766年からここで働き、先代から愛されていたハイドンは、謙虚で外交的で後身的で几帳面だったため、比較されるとフンメルの仕事はあまり評価されなかったようである。責任分担でいうと合唱団はフックスに権限が与えられていたり、ハイドンに比べると50歳も若く、機転の利かない点や新しい役割に対する不満も態度に表れていたという。
 
 一方では演奏家としては人気者だっただけに、ヨーロッパ各地から声がかかり、休暇を取って演奏旅行に出かけたいと思っていたが、なかなか許可が出ない事にも不満を漏らしていた。
 余談であるが、彼は若い割には太っていて、それなのに見た目とは違う見事な演奏をする者として、話題を呼び、彼のカフェでの演奏会などでは人が溢れんばかりの人気を博していたという。エステルハージ王子ニコラスは、自分が雇い主でもあるのにもかかわらず、フンメルのこうした活動に不満を持っていた。このフンメルの態度は明らかにハンドンの従順さとは違っていたのである。

 
 ニコラス王子は一方で、フンメルの一連の仕事には満足していた。それは彼の作曲したミサ曲であった。ミサの新曲の披露は王子の妻の命名日の記念行事としてハンドンによって始められた伝統の一つ。この伝統行事の為にフンメルは5曲のミサ曲を残したが、いずれもハイドンやモーツァルトの伝統を継承した対位法も含まれる厳格な大ミサ曲で、ニコラス王子はこの仕事に対して大いに満足だったという。
ミサ 変ロ長調,Op77 より第一章『キリエ』
 
a6ca5f337bf8f655c9eef68e74c97f17 ニコラス王子は、フンメルと同様に有名なベートーヴェンにもミサ曲の作曲依頼をして、1807年に初演された(ミサ曲ハ長調,Op.80)。それを聞いたニコラス王子はベートーヴェンの作品には好感が持てなかったらしく、「親愛なるベートーヴェン、貴方のこの作品は一体なんですか?」と言ったらしい。隣にいたフンメルはこの発言に「苦笑い」をしていたのだが、ベートーヴェンは猛烈に怒り狂い、フンメルの態度を罵倒した。これはベートーヴェンの勘違いで、フンメルが王子に同調して作品を嘲笑ったと思ったのだった。

「ヨハン、君には失望したよ。君の雇い主はたいそうな音楽趣味を持っているそうだが、僕には悪趣味としか言えない。それに君も同調するのか?」

 
 あるとき職務の一つであるハイドンの作品を整理する関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対する不満やねたみの一つの表れに過ぎなかったと思われる。

 そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。フンメルはウイーンの劇場の為にオペラや劇作品、バレエ音楽等を依頼されては提供していた。彼は人気作曲家であったのである。また父ヨハネスはこの頃ウイーンの有名なアポロ・ザールでの音楽監督を務めており、息子にせっせと舞曲の作曲依頼をしていたのである。アポロザールの為の舞曲集は6曲にも及び、その他のメヌエットなど多数の舞曲が作曲された時期でもある。こうした事実は、彼の本来のエステルハージ楽団での職務を怠っていると受け取られることとなった。当然であろう。
 
 そしてとうとう1808年のクリスマスのコンサートの後、ニコラス王子はフンメルを「準備不足」として更迭し解雇を言い渡した。しかし直ぐにハイドンの仲裁によって解雇は取り下げられ、再びこの職に就くこととなった。しかし、彼は自分の求める仕事や音楽を書くことを規制された状態で、自分を押し殺すように仕事をしていたが、長く続くはずもなく、やがては同じ道をたどることになる。1811年5月に再び解雇を言い渡され、フンメルは取り下げの懇願もしてみたが、今回は覆ることはなかった。
 
 この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。そのウイーンに戻り、作曲と演奏活動に戻ることとなったのである。

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−3.ウィーン帰還とベートーヴェン

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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 フンメル家は、 1793年の春にウィーンで生活に戻って定住し始めた。ヨハンはアントニオ・サリエリアルブレヒツベルガーに合唱、和声法、対位法など、作曲家として必要な知識、理論を学んだ。サリエリやアルブレヒツベルガーは、この時期一足早くウイーンに住んでいたベートーヴェンも教えており、フンメルと全く同じであり、この時期にお互いを知る機会を得たものと思われる。ハイドンはオルガンについての多くを教えたが、しかしハイドンはフンメルに「君はピアノ演奏家として素晴らしい才能に恵まれているんだ。それはオルガンの奏法とは全く別のもので、このままオルガン演奏に必要な訓練は、君のピアノ演奏に悪い影響を与えることがあるから控えなさい」と助言したのだった。
 
 フンメルにとって作曲はますます重要な活動となっていったが、モーツァルトの死後、ピアノ演奏の文化が盛んになり、ピアノの巨匠の演奏を聴くことは、この時期のウイーンの大きなブームとなっていた。

 

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 ベートーヴェンとフンメルは、ウィーンのピアノ演奏家の最高の地位を争い、お互いが定期的に演奏会を開催した。また、お互いが相手の演奏会に出かけ、意見の交換や批評をやり取りしたのである。フンメルはまだ10代であったが、ベートーヴェンンはフンメルより8歳年上である。既にモーツァルトの未亡人の為の慈善演奏会や多くのブルジョア階級と付き合い、多くのパトロンを得ていたのだ。しかも就職という事に固執せず、芸術家の地位を高めようとしていた。
■フンメル/ピアノソナタ第3番嬰へ短調,Op.20(1803年)

 一方フンメルは、ウイーンへ戻ってきてからの10年間は作曲家として成長し、成熟していった時期でもあるが、収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。時にはコンサート・リサイタルを開催し、時には個人の家に行って演奏し、評判もあってウィーンのピアニストの第一人者として、忙しくなっていった。そしてスポンサーとなる人物には好き嫌い関係なく積極的に演奏し、自分の才能を惜しげもなく提供したのだった。
 これがベートーヴェンの理想とする芸術家と全く異なる生き方だったため、ベートーヴェンはフンメルに対して苛立ちを覚えている。ベートーヴェンもフンメルの才能を認めており、お互いに切磋琢磨して「芸術家」を目指して欲しかったのだろうか?
 
196800_340431202711578_1217203016_n それでも、二人は共にウイーンの中では最も有名で、最も優れたピアノの巨匠として君臨していくことになる。  双方の弟子たちの間では、ベートーヴェン派とフンメル派に分かれて対抗的な批判合戦にまで発展していったようだが、当の本人たちは、良きライヴァルとしてお互いが切磋琢磨している充実した時代でもあった。ベートーヴェンが弦楽四重奏を出版するとすぐにフンメルも出版する等、常に意識する関係となって行った。当時のウイーンでは演奏だけではなく、出版作品においてもこの二人が頂点となっていて、ピアノ三重奏曲等はもっとも人気の高い作品であった。作曲家としての評価はむしろフンメルの方が上だったともいえる時代である。こうした刺激し合う良きライヴァル、良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩(殆どがベートーヴェン側からの一方的な絶交宣言)で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。
フンメル/弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 第4楽章(1804年)
(3つの弦楽四重奏曲集、Op.30より)
 


 フンメルは早い段階でベートーヴェンの才能が巨大であることに気付いていた。そしてその才能に尊敬の念を抱いていたが、やがて自信喪失になっていった。ベートーヴェンの生み出す新作作品には、新しさと才能に溢れる、他の作曲家には見られない独自性があった。特に彼の交響曲は他の追随を許すものではなく、巨大な芸術として君臨した。
 フンメルは後の弟子:フェルディナント・ヒラーに次のように語っていた。
「ベートーヴェンのような才能と同じ道を歩くべきなのかどうか自信が持てなかった。自分には何ができるか判らなかったのだ。時がたつにつれ、ある考えに至った。“ベートーヴェンを追う必要はない。私は私らしく、自分に忠実で素直にあり続ければ良いのだ”と。」(ヒラーの回想録より)。
 
 自分らしく...
 結局、フンメルは交響曲を一曲も書くことはなかった。

 

 フンメルは1803年、ハイドンの推薦によって、若干24歳にしてシュトゥットガルト管弦楽団の楽長となった。しかし、この職は双方にとって満足のいくものではなかったため、わずか1年で契約を終了してしまった。ハイドンは今度は直ちに彼自身の雇い主であるニコラスエステルハージ伯爵に彼をコンサートマスターとして推薦した。
 ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いもあったりしたが、結局1804年4月1日にエステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であってハイドンは、職位こそ以前のまま楽長であったが、体力的な問題もあり、名誉職として在籍しているに過ぎない状態であった。

 このウイーンから南に50kmほどの壮大な宮殿では、楽団の統制、整備、訓練、楽譜の整理、そして新作の発表と演奏会など、やるべきことは山積みであったが、ハイドンはこの宮廷での職務を全うできずにいたため、自分の代わりとなる優秀な音楽家を探していた。ハイドンのこれらの仕事に就いたのは、フンメルの他に、副学長のフックス、第二コンサートマスターのトマシーニらであった。
 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−2.実り多きヨーロッパ演奏旅行

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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 フンメルの演奏旅行のスタートは、12月の氷と雪の凶悪な条件の元でスタートした。こうした当時の旅行は過酷であり、現代のヨーロッパ旅行、ロマンチック街道、古城めぐり等と異なり、ロマンチックとは程遠いものであった。
 
 馬車をはじめ、時にはソリやコーチを利用しての旅は最悪であり、危険であり、大変不快なものであった。それは、モーツァルトの同様な旅行を思い出すと良い。怪我や盗賊、事故、腰の痛みや床ずれ、骨折....など不快の要素を並べつくしたような状態であった。各地での演奏会は、今でいうコンサート・リサイタル等とは程遠いもので、良い時は貴族の邸宅で、最高に洗練された聴衆は宮殿での演奏会であったらろう。しかし最低の場合は、地元の居酒屋での下品な酔ったお客を前に演奏しなければならない事もあった。一行の立ち寄ったおもな都市は、プラハ、ドレスデン、ベルリン(ここでのコンサートではモーツァルトと再会している)、ハノーバーとコペンハーゲンが含まれていた。大都市では数日、長ければ数カ月留まって、ヨハンの神童ぶりを披露していった。見返りは贈り物や金銭であり、これもモーツァルトの時代と変わっていない。

 1790年の春には、ハンブルクの港を経由して、スコットランドの首都エディンバラまで足を延ばした。海峡を渡る際は暴風に巻き込まれるという危機に見舞われたが、幸い全員無事に渡りきることができたのだった。
 
 若いフンメルはその驚くべき演奏技量で、エジンバラでは盛大な歓迎を受けた、引っ張りだことなったため、数カ月にわたって滞在している。その間は、御前演奏や特別計画されたコンサートに出演し、その他ピアノのレッスン依頼が殺到した。
 
 その後、父子はダーラムとケンブリッジ経由で南下し、ロンドンへ向かった。1990年の秋にはロンドンに到着し、そこから2年もの間滞在することとなる。

 
交響曲(プロローグ)
 時を同じくしてJ.ハイドンもロンドンに滞在していた。彼は興行主・ザロモンに招聘されて、あの有名なロンドン交響曲を披露し、熱狂的な歓迎の渦の中に合った。そんなハイドンはロンドンでかなり多くの演奏会を開催していたが、その中の何回かにヨハンに出演させ、ハンドンのピアノ三重奏をヨハンに演奏させたりして交流を深めた。ハイドンの三重奏曲は、王ジョージ三世と王妃シャーロットに献呈されたものもあり、御前でのヨハンの演奏に感動した王妃たちはヨハンを高く評価し、これがきっかけとなってフンメル父子のロンドン滞在が長く、成功したものとなったのだった。

 1791年には、ヨハンの最初の出版作品が世に出ることとなる。Op.1を与えられた「ピアノのための3つの変奏曲」は、ロンドンの民謡とドイツの民謡の旋律を取り上げて作曲された曲集である。この時期に実際にフンメルに会い、その演奏を聴いたロンドンの著名なビジネスマンで音楽愛好家ウィリアム・ガードナーは、次のように書き残している。

 「幼いモーツァルトを除いて、このロンドンを訪問した多くの中で、最も驚くべき演奏だった」

 【打込音源】ピアノのための3つの変奏曲集,Op.1 より
第2番 「ドイツ民謡」による変奏曲ト長調


Muzio_Clementi またこの時期、師匠のモーツァルトと競演した事で有名なクレメンティからピアノ演奏の総仕上げとも言うべき指導を受けている。モーツァルトからウィーン式演奏法を、ロンドン楽派の基礎なるクレメンティからは力強いイギリス式演奏法を習得した最初の演奏家となった。

 この時期のフンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の「3つの変奏曲」の出版予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。
 
 

 フンメル父子は、この後の演奏旅行の計画ではフランスを経由してスペインにまで及んでいたが、ロンドンからの帰路、オランダでフランス革命の渦に巻き込まれることとなり、父子が乗っていた船はフランス革命軍の戦艦に攻撃されてしまった。大砲の応酬の中、ヨハンの隣には、重傷を負った水夫がいたという。その他怪我をした人や重症を負った人がたくさん運び込まれてきた。そうした不安の中での船旅は最悪であったことだろうと想像がつく。

 幸い父子はハーグに入ることができ、約2か月間の避難生活を余儀なくされた。しかしフランス革命軍のアムステルダム侵攻によって、再び北方へと非難することとなる。その直前に避難場所の提供などしてくれた当時のオラニエ公の為に演奏会を開催して感謝の気持ちを伝えたのだった。

 そこから、彼らはケルン、ボン、フランクフルトを通って東に移動し、旅立ってから5年後、ウィーンの西100キロにある小都市リンツでフンメルの母親らと再会した。

 この旅行の間にヨハンは作曲家としてデビューし、またハンドとのより親密な関係を築き、多くの有力者たちの知遇を得ることができた。ピアノ演奏家としては、出発した当初とは比較にならない程の技量を身に着け、生涯得意としていた即興演奏は万人を惹きつけ、演奏家としての実績と名声を得ることができたのだった。

 フンメルがウイーンに戻ったのは1793年初頭。師匠のモーツァルトは1年と少し前に他界していた。

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オリジナル楽器によるフンメル ピアノ協奏曲集Vol.1

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【収録情報】
フンメル:
・ピアノ協奏曲イ短調Op.85
・ピアノ協奏曲ト長調Op.73
・序奏とロンド・ブリランテ ヘ短調 Op.127『ロンドンからの帰還』

 アレッサンドロ・コンメラート(フォルテピアノ)
 使用楽器:ヨゼフ・ベーム製(ウィーン、1825)&プレイエル(パリ、1937)
 

 ディディエル・タルパイン(指揮)

 録音時期:2009年11月、2010年9月
 録音場所:ブラティスラヴァ、スロヴァキア国営放送スタジオ
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション) 



この度低価格で人気のあるBRILLIANT CLASSICSから発売されたのは、フンメル ピアノ協奏曲集 Vol.1である。

収録されているのは、初期のマンドリン協奏曲をピアノ用に編曲して10年後に出版した小ピアノ協奏曲ト長調,Op.73と
中期のシュトゥットガルト就職プレゼンのために演奏された名曲、イ短調,Op85、最期の出版番号を付けられた晩年の『ロンドンからの帰還』Op.127の3曲。

Op73は、モーツアルトのまんま、のチャーミングとしか表現できない魅力的な曲で、オリジナルのマンドリン版でもピアノ版でも比較的多くの録音が出ている。

Op.85は、ロ短調,Op89と並ぶ代表曲の一つで、古典的協奏曲の中にロマン派に影響与えるべくメロディーやフンメルのテクニックが散りばめられたウイーン古典派の最後の巨匠にふさわしい協奏曲。

最期のOp.127も後の時代の作曲家のような序奏に始まり、民謡的なテーマに乗って軽快に奏でられる舞曲と行進曲が入り混じったロンドで、演奏者は相当な技巧を求められる曲である。




さて、演奏と録音ついて。

古楽器による演奏は、刺激過ぎを通り越して耳障りな音を響かせることがある。しかしこの楽団のCDはすでにフンメルのオペラとして世界初録音となった『ギース家のマティルデ』や、荘厳ミサ曲などが発売されており、すっきり、はつらつ、緻密なアンサンブルを聞かせてくれていたので、期待していた。

期待通り。ピアノもヨゼフ・ベーム製(ウィーン、1825)&プレイエル製(パリ、1937)と二種類使用しているが、どちらもピアノ一音のツブツブキラキラがよく聞こえて、アレッサンドロ・コンメラートの演奏も良かった。
特にOp.85は、多数の録音があるのに加え、ホグ、イギリス室内管(Chandos)の名盤があるためにどうしても比較してしまうのだが、この演奏は何回も聞けます。

是非是非、選曲集ではなく、全曲集としてほしい。

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−1.幼少期とモーツァルトとの生活

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 ヨハン・ネポムク・フンメル(以下ヨハン)はウイーンから東へ80kmほどの距離に位置するハンガリーの都市:プレスブルク(現在のスロバキア共和国の首都:ブラチスラヴァ)で、1778年11月14日に生まれた。

 彼の父親はヨハネス・フンメルという音楽家で、ヨハンが生まれる4か月前に三歳年上の妻:マルガレーテと結婚したばかりであった。

 父ヨハネスは、実業家の父(ヨハンの祖父):カスパルにウイーン留学へ送り出され、音楽の勉学を始めた。その後ヨハネスは優れたヴァイオリニストとなり、さらに24歳の時には新劇場の音楽監督を務めるほどになった。

 ヨハネスは当時ヴァルトブルク(プレスブルクの隣町)で音楽監督の職を得ていたが、より良い職場と環境を目指そうと思い、ヨハンの誕生の1年後には、家族でプラハへ移動した。

 彼らはすぐに彼らの幼い息子が、音楽のための特別な才能を持っていたと感じていた。4歳の時にはヨハンがバイオリンを習い、その後少しずつピアノのレッスンを開始し、歌のレッスンも直接父親から学んだ。ヨハンの才能は驚異的であり、7歳にして様々な曲を弾きこなすピアニストになっていた。



 1786年に、父ヨハネスは、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウイーンで、後のモーツァルトの『魔笛』でコンビを組むことになるシカネーダーが管理するアウフ・デア・ヴィーデン劇場の仕事に音楽監督として参加する機会があった。

andeawien102s ヨハンは神童と言えた。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。その能力は、自分の教育レベルを超えており、ヨハンの才能をどうにかしたいと思っていた父ヨハネスは、このウイーンでの仕事をチャンスと捉え、家族と共にウイーンに移動した。そこはモーツァルトの天才が花開き、異常な熱狂に包まれていた時期であった。


 おそらくシカネーダーの紹介であると思われるが、ウイーンに来てすぐにモーツァルトとの知遇を得られることとなった。そして父ヨハネスは自分の息子ヨハンのの音楽的才能の事をモーツァルトに伝えたものと思われる。モーツァルトは「そんな子がいるなら是非見てみたいから、今度連れてきなさい」とヨハネスに伝えた。

 彼はすぐにヨハンを連れて、モーツァルトの住むアパートへ赴いた。

 当時はピアノ演奏にオペラの作曲にと多忙を極めていたモーツァルトであったが、ヨハンの演奏をじっくりと聞いた。ヨハンは7曲を披露したらしい。

 モーツァルトは、ヨハンの才能に驚き、感銘した。そして、ヨハネスは思いもしなかった言葉を聞くことになった。
「ヨハネス、君の息子の才能は大したものだ。もう少しで誰にも負けない演奏家になれる。それまでは僕が面倒をみるから。ああ、レッスン料はいらないよ。ヨハンには僕たちと一緒に生活してもらい、常に僕のそばに置いてほしいんだ。いいね?」


 モーツァルトとのレッスンは、単なるピアノの教師と生徒の範囲を大きく超えたものであった。
 モーツァルトは自作を弾いて聞かせ、そしてヨハンにも弾かせた。時には個人の集まりで連弾したり、演奏会の助手的なこともヨハンに経験させている。ヨハンは直にモーツァルトの演奏法をまなび、楽曲の理解、構成、形式の事、作曲の基礎、そしてモーツァルトの精神を浸透させていった。

Wolfgang-amadeus-mozart_1-640x940 特にドン・ジョヴァンニの作曲準備の際には、多くの歌手のレッスンの伴奏に弾かせたりもしたらしい。こうなると弟子というよりは人手が足りないモーツァルトの都合の良い助手である。

 しかし、モーツァルトの家には多くの著名人が集い、多くの音楽家も集まったのはヨハンにとっては、変えることのできない体験であり、肥やしとなったことであろう。ディッタースドルフヴァンハル、そして後に大恩師となるハイドンの知遇を得たのも、彼らがモーツァルト家に出入りしていたからこそである。

 モーツァルトがボーリング(九柱戯)やビリヤードをしながら、音楽談義をしたり、音楽界の出来事、音楽批評をしていたらしく、ヨハンもそこに同席させていたらしい。そこから学ぶことも多い事をモーツァルトは教えたかったのである。

 そしてそんな間に次々と名作を生み出していくモーツァルトの全盛期を目の当たりにしていたのである。

 ヨハンにとっては無くてはならない、貴重な体験でした。ここまでモーツァルトの精神を浸透させた人は、他にはいないのである。


 こうして慌ただしいモーツァルト家での生活が2年が経った。モーツァルトを取り巻く状況は一変しており、政治的不安も重なって、彼の財政的状況は逼迫していった。またモーツァルトの父:レオポルトが無くなり、モーツァルトの息子の誕生など、混乱した状況に陥って行った時期、モーツァルトはヨハンの独り立ちを提案することとなる。

 1788年、モーツァルトはヨハネスとヨハンに成功を約束し、そして自分が経験した成功事例や失敗事例を教示しながら、ヨーロッパへの大演奏ツアーを提案したのだった。


 ヨハネスは、その指示・提案に従い、ヨハンを伴ってヨーロッパ旅行の計画を立てた。そして実行していくのである。この旅は4年に渡って続き、ウイーンに戻ってきたヨハンは著名人となっていたのである。

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11月14日は、フンメルの生誕234年です。

01今日はフンメルの誕生日。

234年前の本日、ブラチクラヴァで生まれました。
フンメル研究ノート も 5年目に入りました。
そこで次回よりしばらくの間、改めてフンメルの生涯をたどっていきたいと思います。

宜しくお願い致します。


写真は、ワイマールのフンメルの墓です。







今日のおすすめ。
24の練習曲,Op.125より 第8番


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ピクシスのピアノ協奏曲 The Romantic Piano Concerto, Vol. 58

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先日発売された The Romantic Piano Concerto, Vol. 58 – Pixis & Thalberg
から、非常に珍しいピクシスのピアノ協奏曲2曲を紹介します。批評ではなく、個人的印象・感想です。


 ピクシス? 知らない人も多いでしょう。私も「ディアベッリのワルツによる変奏曲/Variationen uber einen Walzer von A.Diabelli」に参加している部分と、「ヘクサメロン変奏曲/Hexameron variationen」の部分しか聞いたことありません。

私が愛読しているWebSiteピティナ・ピアノ曲事典には、以下のように紹介されていました。

Pixis, Johann Peter  [ ドイツ ]  1788 - 1874

ドイツの作曲家。作曲家でオルガン奏者の父親から音楽の手ほどきを受けた。次男のピクシスは、兄もまた作曲家となった。兄はヴァイオリンを弾き、ピクシスはピアノを弾いた。兄と演奏旅行をしてピアニストとして有名になったが、ピクシス自身もヴァイオリンやチェロを弾くことができた。

 19世紀に入ると一家でウィーンに移る。そして、ピクシスはベートーヴェンやマイアベーア、シューベルトと出会った。後にパリに移り、そこではハイネやケルビーニ、モシェレス、リスト、ベルリオーズ、ロッシーニと出会っている。パリではヴィルトゥオーソとしてその名を馳せ、ピアノ教育者としても活動した。晩年はバーデン・バーデンで過ごした。

 作品の大部分がピアノ曲となっており、コンサート・ピースとサロン向きの小品がある。

このページでは作品リストもありますが、ピアノ独奏曲や室内楽曲が圧倒的に多くを占めていますね。特に7曲あるピアノ三重奏曲は聞いてみたい気がします。



さて、ピアノ協奏曲 ハ長調,Op.1001829年に作曲され、「オーストリアの皇帝陛下」に捧げられました。

1楽章Allegro moderatoは、2管編成のオーケストラが、ヴァンハルやプレイエルの交響曲に似た雰囲気の古典的前奏を華々しく展開します。それほど長大ではない前奏部分は、モーツァルトやコジェレフ、トマーシェックや先のヴァンハルの作品と比べると中途半端な感じがしますが、リストなどと比べると大きな違いがありません。第二主題は一変し、優雅な雰囲気に包まれます。

 しかし、ピアノソロに入ると、「ああ、モーツァルトより後の世代の音楽だ」ということが理解できるでしょう。ピアノソロが始まった個所からは、この時期のコンチェルトによるあるようにオーケストラは「脇役」に徹底します。休む間もなくピアノの独奏は続きますが、所々で特徴的な和音、三度の重奏パッセージが聴かれます。古典的協奏曲の始まりだと思って聞き続けていくと、「ほぅっ」と驚かされる展開や、パッセージがあるのですが、これといった印象に残る曲ではなく、一聴しただけで口ずさめるような感じではありません。展開においては、急にゆったりしたテンポになったり、感傷的になったりと陰影を強調していますが、当時の聴衆はこの技巧的なピアノ演奏と共に驚かされたのでしょうか?

2楽章Adagio cantabileは短いながらも美しい幻想的なノクターンを聴かせてくれます。

 第3楽章Rondo: Allegretto scherzandoに入ると雰囲気は一変し、この時期多く作られたピアノ協奏曲のロンドの典型というべき、民謡的・舞曲的テーマが繰り返され、ピアノは元気よく跳ね回ります。それに応じ形でオーケストラはアクセントをつけていくのですが、うーん、これといった特徴はないですね、というのが素直な感想。最後のファンファーレに導かれて華々しいコーダを迎えます。

 全体を通して、「オーストリアの皇帝陛下」に捧げらるのに相応しい「華々しさ」に彩られている協奏曲です。

ピアノの技巧的な部分は、ドゥシェック、フンメル、クラーマーといった作曲家に影響されているかな、といった感じです。


 


小協奏曲変ホ長調,Op.681824年に作曲されたもので、先の曲より古典的です。「小」と名がついていますが、急・緩・急の各楽章で構成された典型的な協奏曲で、ただし全楽章切れ目なく演奏されるようになっています。特徴的なのは、あまり聞いたことのない調性が不安定なパッセージが技巧的なソロの部分として何度かあらわれ、それが第一楽章の特殊な雰囲気となっています。小規模の楽曲の割には、第一楽章のオーケスト導入部は長大で、1/3も占めています。

 第二楽章では弦楽のソロとピアノの掛け合いが美しく展開されます。続けて軽快なロンドで占められます。

Op.100の作品よりは、よりまとまっていて、チャーミングな楽曲です。



 こうしてピクシスやヒラー、タールベルク、ヘルツ、カルクブレンナー、クラーマー、モシェレス、ドゥシェック等などの楽曲を聞いてくると、自分の好みではあるのですが、如何に「モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン」が素晴らしいメロディーメーカーだったのか、再認識させられます。彼らは、自演を見せながら聞かせる、自分の演奏技巧を披露する楽曲がメインであり、スタンダードな「ヒット曲」を作り出すまでには至っていない、というのが自分の思うところ。



もっともこうした隠れた作品を多く聴ける時代になったことに感謝しつつ、今日はこれくらいで。




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11月4日 165年前の本日、F.メンデルスゾーンが亡くなった日

Mendelssohn(13)
フェリックス・メンデルスゾーン(ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日 ライプツィヒ)は、ドイツロマン派の作曲家、指揮者。


私の理解するメンデルスゾーンとは、
  •  ユダヤ人で、
  •  浪漫派の中にあって古典主義、
  •  皮肉屋、
  •  ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者、
  •  J.S.バッハとシューベルトの復興に尽力、
  •  『夏の夜の夢』序曲は17歳で作曲したという天才、
  •  ヴァイオリン協奏曲は超有名、
  •  結婚行進曲はワーグナーのものと並んで超有名、
  •  ライプツィヒ音楽院の創設者、
  •  本当の理解者は姉・ファニーだけで、彼女が亡くなったら後を追うように亡くなった、
というの人物。
 
 フンメルとのかかわりは12,3歳の時にワイマールのゲーテ訪問の時に紹介された、ということと、フンメルのピアノ演奏に感動し、その場での演奏を進められたが泣きながら断った、というエピソードのみ。

 ただ、未出版の習作品、特にピアノ協奏曲やピアノ曲にフンメルの影響は大きい。


例えば、
  • ピアノと弦楽のためのレチタティーヴォ(ラルゴとアレグロ)MWV.O 1(1820年)
  • ピアノと弦楽のための協奏曲 イ短調 MWV.O 2(1822年)
  • 2曲の2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ホ長調 MWV.O 5(1823年)、変イ長調 MWV.O 6
  • ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲 ニ短調 MWV.O 4(1823年) 
  • 3つのピアノ・ソナタ ヘ短調、イ短調、ホ短調(1820年)ほか、この時期の多くのピアノ小品
・・・あたりには、1810〜1819年代のフンメル協奏曲やピアノ曲に類似した主題やパッセージが多く見受けられます。

 
メンデルスゾーンの最期について、wikiではこんな説明されていますね。
「1847年(38歳) 5月訪英の途上、姉ファニーの死の報に接し、悲嘆の余り神経障害を起こす。一時回復したが11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて没した。彼は生前には特に病弱という事もなく、登山などもしていた事、フェリックスの父アブラハムも姉ファニーも似たように若くして突然亡くなっている事等から、何か遺伝的な要因があったのではないかとする説もある」


 さて、今日は一日かけてフェリックス坊やの音楽を堪能しましょう。
 
 では、私の大好きな初期の作品【2台のピアノと管弦楽のための協奏曲変イ長調 MWV.O 6】を紹介。
どことなく、同じ変イ長調のフンメルのピアノ協奏曲(Op.113)に雰囲気が似ています。

 

関連追記
荒井千裕*ピアノの音の綴り方 も是非。

メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代 というタイトルでの記事です。
貴重で面白い内容ですよ。是非。音楽史は「退屈なものではなく、人間ドラマ何ですよ」ということを理解できます・

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