フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

2014年01月

フンメルの生涯(旧掲載文) 4.後期の演奏旅行と晩年

●1820年代もまたフンメルは巡演する大家として多忙であった。遠くロシアまで行き、1822年に同地でジョン・フィールドに、1828年にポーランドでショパンに会い、またフランス、ネーデルランドも訪問した。1827年にフンメル夫妻は弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。この邂逅は最後の和解となり、フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの医師を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた。この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

01●1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。この演奏旅行は彼の成功の頂点であって、その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めた。1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務めたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。


 
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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

フンメルの生涯(旧掲載文) 3.ワイマール時代

elisabeth1●1814年頃に妻エリザベートは、ピアニストとして再び舞台に立つよう夫を説得した。彼女は機を見るに敏で、折からのウィーン会議のために開かれた多くの演奏会やパーティーでフンメルは貴族や高級官僚の前で演奏して一躍名を馳せ、それによって彼らの多くは国際的音楽マネージャーのような役割を果たすことになった。1816年春のドイツ演奏旅行は彼に新たな自信を与え、名声は不動のものとなった。しかし経済的安定は得られなかった。フンメルは家計を支えるために安定した専属の地位を探そうと決意した。同年末にシュトゥットガルトの楽長となって、希望がかなえられたかのように見えたが、素晴らしい礼拝堂と傑出したオーケストラがあるにもかかわらず、その地位は満足いくものではなかった。作曲の時間がとれず、また演奏旅行については常に許可を取る闘いを強いられた。彼はシュトゥットガルトの趣味が悲惨なほど低俗で、窒息しそうに感じていたし、オペラ劇場では貴族の経営陣が粗野なフンメルを嫌って画策し、不快な思いをさせられた。1818年11月にフンメルは辞職して、ワイマール大公の楽長となった。1819年1月5日付の新しい契約書は決定的に改善されていた。すなわち年3ヶ月の休暇が、ヨーロッパで演奏会がたけなわの春に取れるというものであった。さらにカトリック教徒の彼は、このプロテスタント宮廷で宗教音楽を監督するという義務が免除された。

dis0000●ワイマール時代は快適で実り豊かなものであった。フンメルは庭園付きの家という全く富裕な生活を営んだ。ゲーテを通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合って、まもなくワイマールを訪れる人々の人気の的となった。ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならなかった。彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであった。ここでも契約は有利なものであって、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。おそらくこうしたオペラ公演の成功によって、彼は1826年にヴェーバーの死去によって空席となったドレスデンのドイツ・オペラ監督候補に挙げられた。ワイマールでのその他の職務は極めて多忙であった。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、1829年のパガニーニがその例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなく、弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成であった。


DVC00535bis1●1820年代は個人教授と作曲に充分な時間を割くことができ、フンメルの最も実り多い時期の一つとなった。自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷やフリーメイソンの集会のためのカンタータ、出版業者たちのための序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などもある。しかし彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していたが、いずれにしてもその台本は興味を引かないものであったように思われる



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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

フンメルの生涯(旧掲載文) 2.ウィーン及びエステルハージ家時代

20070923_354692●フンメルの次の10年間は勉強、作曲、教授活動の期間で、公開演奏はごくまれにしか行われなかった。アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに声楽作曲法、美学、和声法、音楽哲学を学んだ。ロンドンで知遇を得たハイドンが1795年に第2回ロンドン旅行から帰国すると、彼にオルガンのレッスンを受けたが、ハイドンはオルガンを弾きすぎるとピアノ演奏の手に支障が出ると彼に忠告した。フンメルはこのころ収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。この時期のもっとも重要な出来事はベートーヴェンがウィーンに登場したことであり、それによってフンメルは自信喪失寸前にまで追い込まれた。とはいえ、ベートーヴェンとフンメルは、相互の弟子たちの間に党派的な争いがありながらも、長く波乱に満ちた友人関係を開始することになった。(先述のアルブレヒツベルガー、サリエリ、ハイドンの3人の師は、ベートーヴェンのそれと全く同じであり、その関係から出会いがあったものと思われる)


交響曲(プロローグ)●1803年にハイドンはフンメルをシュトゥットガルトの楽長に推薦したが、この地位にはワイマールの楽長であったヨハン・フリードリヒ・クランツが就いた。ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いを受けたが、結局1804年4月1日にアイゼンシュタットでニコラウス・エステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であって、ハイドンは名目上その肩書きを保持していたにすぎない。フンメルが採用されたのは候の宗教音楽への関心のためであったという説は、彼がこの分野で何の経験もなく、オーケストラ作曲家としてもほとんど実績がないことから、反論されてきた。彼が選任された一因としては、ウィーンの劇場と長くかかわっていたことが考えられるかもしれない。それにもかかかわらずフンメルはエステルハージ家の礼拝堂に仕え、この職務にあった期間に、知られているかぎりすべての宗教作品と劇作品の多くを書いた。



●フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。このハイドン関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対するねたみの一つの表れに過ぎなかった。そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。そこでの宗教曲および劇作品の上演のほかに、当時アポロザール・ホールの監督であった父を通して、毎年まとまった数のメヌエットやドイツ舞曲を発表した。つまり彼はエステルハージ宮廷との専属契約を全うしていないと思われた。1808年の降誕祭にいったん職を解かれたが、ハイドンの仲裁によると思われる再契約がなされ、1811年5月の契約の任期満了までこの職務に就いた。この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。

●1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。1813年には当時の有名なソプラノ歌手であったエリーザベト・レッケルと結婚し、2人の息子を得て、後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。このころベートーヴェンとの関係は不安定なものとなっていた。両者の不和は早くも1807年に起こり、ベートーヴェンのハ長調のミサ曲の上演の後、ニコラウス候の批判的見解にフンメルが暗黙のうちに同意したと思われた。また、エリーザベト・レッケルにベートーヴェンが関心を抱いていたかもしれないことが、結婚後に両者の亀裂を生じさせた可能性がある。とはいえ、接触がなくなったわけではなく、例えば1814年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きかった。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です  

フンメルの生涯(旧掲載文) 1.初期

3037793●フンメルは神童であった。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。4歳で楽譜を読むことができ、5歳でヴァイオリン、6歳でピアノを演奏した。8歳のとき、弦楽器演奏家でもあり、指揮者でもあった父ヨハネス・フンメルがアウフ・デア・ヴィーデン劇場(モーツァルトの歌劇『魔笛』やベートーヴェンの第9交響曲などの初演劇場)の音楽監督となり、一家がウィーンに移り住んだが、父の地位は、音楽現に触れるという貴重な経験を息子に与えることになった。

●フンメルはウィーン到着後すぐにモーツァルトに師事して、ピアニストとしての長足の進歩を示した。彼の父によると、モーツァルトはこの少年から強い感銘を受け、無償でレッスンするほどであったようで、当時よくあったように、彼を同居させた。2人はかなり意気投合したと思われ、しばしば一緒にウィーンの町を歩き回った。フンメルの最初の公開演奏は1787年にモーツァルトの主催する演奏会においてであったといわれているが、彼の生涯のこの時期の証拠資料には矛盾がある。1788年にモーツァルトはレッスンを続けられなくなり、音楽家としての独り立ちを勧めた。それによって、フンメル父子は4年に及ぶ演奏旅行を行うこととなった。プラハに立ち寄ったときにドゥシェックやトマシェックと知り合い、その後ドレスデンへ赴いた。同地で1789年3月10日にフンメルはピアノ協奏曲を1曲と、<リゾンは森で眠っていた>の主題に基づくモーツァルトの変奏曲、自作の変奏曲(これは最初期の作品であったに違いない)を演奏した。後にフンメルの父は誤って、モーツァルトがこのとき聴衆の中にいて、この少年は美術におけるラファエッロのようなピアニストになるだろうと叫んだ、と言っている。しかしモーツァルトがフンメルの演奏を聴いたのは、実際には約10週間後のベルリンでの演奏会においてであった。いずれにしても、幸先のよい幕開きで、それに力づけられて父子は長期にわたる演奏旅行を企て、ベルリン、マクデブルク、ゲッティンゲン、ブラウンシュヴァイク、カッセル、ヴァイセンシュタイン(同地でフンメルは天然痘に感染)、ハノーヴァー、ツェレ、ハンブルク、レンツブルク、フレンスブルク、リューベク、シュレスヴィヒ、コペンハーゲン、フューン島のオーデンセで聴衆の前に姿を現した。これらの演奏会は概して賭けに近い冒険であって、ヨハネス・フンメルの日記は何度か客の入りが悪いときもあったことを示しているが、全体的には満足いくものであったと思われる。

●1790年春に父子はエディンバラに到着した。同地では大きな反響を呼び、生計を支えるのに充分な人数の弟子を得て、2人で教え、フンメルが英語を勉強するという余裕も生まれた。3ヶ月後に彼らは南下し、ダーラムとケンブリッジで演奏会を開き、同年の秋にロンドンに到着した。確認できる同地での最初の演奏会は1792年5月5日にハノーヴァー・スクエア・ルームズにおいてであって、このとき彼はモーツァルトのピアノ協奏曲と自作の「新しいソナタ」を演奏した。なおイギリス生まれのF.L.ハメル(Hummel)という神童がいて、この時期に関する資料に混乱が見られる。製造業者で音楽に造詣の深いウィリアム・ガードナーは、ずっと後になってフンメルについて「若きモーツァルトを別にすれば、イギリスを訪れた最高の少年演奏家」と書いた。フンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。

●フンメル父子は、2年間のロンドン滞在後は、さらにフランスかスペインに演奏旅行を続けようと計画していたが、革命による混乱に妨げられ、1792年秋のある時点でオランダに向けて出発した。同地で2ヶ月間、毎日曜日にハーグのオラニエ公の宮殿で演奏するが、フランス軍の侵攻に遭遇し、やむなくアムステルダム、ケルン、ボン、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、さらにバイエルンを通ってリンツに行き、そこでフンメル夫人(母)と合流した。1793年初頭までに一家はウィーンに戻った。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

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