モーツァルトにピアノを学んだフンメルは、すでに少年時代からピアノの神童という声価を得ていたが、とくにピアニストとしての名声の絶頂にあったのは、ヴァイマールの宮廷楽長時代の1820年代から30年代にかけてであった。 

フンメルは、当時もっとも名声を博したピアニストのひとりだった。同時代者で彼の弟子の一人であるフェルディナント・ヒラーによれば、

「タッチの軽いウィーンのピアノをよく歌わせ、大事な声部をくっきり浮き上がらせて、確実な指使いでむらのない明澄な響きを作り出した」

という。


 ヒラーはフンメルに連れられて死の直前のベートーヴェンを見舞っている。




そのフェルディナント・ヒラーについて
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フェルディナント・ヒラー(Ferdinand Hiller, 18111024 - 1885512日)はドイツのロマン派音楽の作曲家。フランクフルト・アム・マイン出身。

 

ユダヤ系の裕福な家庭に生まれる。アロイス・シュミットに師事し、10歳で最初の作曲を手懸ける。その後ヴァイマルに行ってヨハン・ネポムク・フンメルに師事し、ゲーテの知遇を得る。フンメルのもとでヒラーはピアニストとして大成長を遂げ、1827年にはウィーンでベートーヴェンに面会し、最初の弦楽四重奏曲を作曲。1829年にパリを訪れ、1836年まで滞在する。父親の訃報によってフランクフルトに引き返す。183918日にミラノで歌劇《 La Roinilda》が初演される。この頃オラトリオ《エルサレムの崩壊 Die Zerstorung Jerusalems》にも着手する。

 

その後ライプツィヒを訪れ、かねてからの親友フェリックス・メンデルスゾーンと旧交を温め、1843年から1844年までゲヴァントハウス管弦楽団を指揮、自作のオラトリオも初演した。宗教音楽の研究のためにイタリアを隈なく訪ねた後、1845年に歌劇《夢 Ein Traum》を、1847年には歌劇《コンラーディン Conradin》をそれぞれドレスデンで初演した。指揮者として1847年にデュッセルドルフを、1850年にケルンを訪れ、1851年と1852年にはパリのイタリア劇場でも指揮を執った。ケルンでは指揮者として采配を振り、ケルン音楽院の院長に就任。1884年に勇退し、翌年の暮れに他界した。

 

ヒラーは頻繁にイングランドを訪れている。ロイヤル・アルバート・ホール落成式のための作品を作曲したほか、《 Nala》と《 Damayanti》はバーミンガムで演奏された。1871年には、自作による一連のピアノ・リサイタルがハノーヴァー・スクエアルームで催された。

 

ヒラーは完成された演奏技巧を身につけたピアニストであり、作曲家としてはあらゆる楽種を網羅しているが、作品はだいたい無味乾燥である。優秀なピアニストにして音楽教師であり、時には音楽を主題として健筆をふるった。200曲にのぼる作品には、6つのオペラと2つのオラトリオ、いくつかのカンタータや数多くの室内楽、かつては人気を集めたピアノ協奏曲1つがある。ショパンと親交があり、作品を献呈されていることや、ショパンをメンデルスゾーンとともにライン音楽祭に招待したことでも有名。

(以上 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

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