フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

フンメル研究メモ

フンメルの生涯(旧掲載文) 4.後期の演奏旅行と晩年

●1820年代もまたフンメルは巡演する大家として多忙であった。遠くロシアまで行き、1822年に同地でジョン・フィールドに、1828年にポーランドでショパンに会い、またフランス、ネーデルランドも訪問した。1827年にフンメル夫妻は弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。この邂逅は最後の和解となり、フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの医師を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた。この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

01●1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。この演奏旅行は彼の成功の頂点であって、その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めた。1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務めたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。


 
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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

フンメルの生涯(旧掲載文) 3.ワイマール時代

elisabeth1●1814年頃に妻エリザベートは、ピアニストとして再び舞台に立つよう夫を説得した。彼女は機を見るに敏で、折からのウィーン会議のために開かれた多くの演奏会やパーティーでフンメルは貴族や高級官僚の前で演奏して一躍名を馳せ、それによって彼らの多くは国際的音楽マネージャーのような役割を果たすことになった。1816年春のドイツ演奏旅行は彼に新たな自信を与え、名声は不動のものとなった。しかし経済的安定は得られなかった。フンメルは家計を支えるために安定した専属の地位を探そうと決意した。同年末にシュトゥットガルトの楽長となって、希望がかなえられたかのように見えたが、素晴らしい礼拝堂と傑出したオーケストラがあるにもかかわらず、その地位は満足いくものではなかった。作曲の時間がとれず、また演奏旅行については常に許可を取る闘いを強いられた。彼はシュトゥットガルトの趣味が悲惨なほど低俗で、窒息しそうに感じていたし、オペラ劇場では貴族の経営陣が粗野なフンメルを嫌って画策し、不快な思いをさせられた。1818年11月にフンメルは辞職して、ワイマール大公の楽長となった。1819年1月5日付の新しい契約書は決定的に改善されていた。すなわち年3ヶ月の休暇が、ヨーロッパで演奏会がたけなわの春に取れるというものであった。さらにカトリック教徒の彼は、このプロテスタント宮廷で宗教音楽を監督するという義務が免除された。

dis0000●ワイマール時代は快適で実り豊かなものであった。フンメルは庭園付きの家という全く富裕な生活を営んだ。ゲーテを通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合って、まもなくワイマールを訪れる人々の人気の的となった。ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならなかった。彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであった。ここでも契約は有利なものであって、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。おそらくこうしたオペラ公演の成功によって、彼は1826年にヴェーバーの死去によって空席となったドレスデンのドイツ・オペラ監督候補に挙げられた。ワイマールでのその他の職務は極めて多忙であった。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、1829年のパガニーニがその例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなく、弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成であった。


DVC00535bis1●1820年代は個人教授と作曲に充分な時間を割くことができ、フンメルの最も実り多い時期の一つとなった。自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷やフリーメイソンの集会のためのカンタータ、出版業者たちのための序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などもある。しかし彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していたが、いずれにしてもその台本は興味を引かないものであったように思われる



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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

フンメルの生涯(旧掲載文) 2.ウィーン及びエステルハージ家時代

20070923_354692●フンメルの次の10年間は勉強、作曲、教授活動の期間で、公開演奏はごくまれにしか行われなかった。アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに声楽作曲法、美学、和声法、音楽哲学を学んだ。ロンドンで知遇を得たハイドンが1795年に第2回ロンドン旅行から帰国すると、彼にオルガンのレッスンを受けたが、ハイドンはオルガンを弾きすぎるとピアノ演奏の手に支障が出ると彼に忠告した。フンメルはこのころ収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。この時期のもっとも重要な出来事はベートーヴェンがウィーンに登場したことであり、それによってフンメルは自信喪失寸前にまで追い込まれた。とはいえ、ベートーヴェンとフンメルは、相互の弟子たちの間に党派的な争いがありながらも、長く波乱に満ちた友人関係を開始することになった。(先述のアルブレヒツベルガー、サリエリ、ハイドンの3人の師は、ベートーヴェンのそれと全く同じであり、その関係から出会いがあったものと思われる)


交響曲(プロローグ)●1803年にハイドンはフンメルをシュトゥットガルトの楽長に推薦したが、この地位にはワイマールの楽長であったヨハン・フリードリヒ・クランツが就いた。ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いを受けたが、結局1804年4月1日にアイゼンシュタットでニコラウス・エステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であって、ハイドンは名目上その肩書きを保持していたにすぎない。フンメルが採用されたのは候の宗教音楽への関心のためであったという説は、彼がこの分野で何の経験もなく、オーケストラ作曲家としてもほとんど実績がないことから、反論されてきた。彼が選任された一因としては、ウィーンの劇場と長くかかわっていたことが考えられるかもしれない。それにもかかかわらずフンメルはエステルハージ家の礼拝堂に仕え、この職務にあった期間に、知られているかぎりすべての宗教作品と劇作品の多くを書いた。



●フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。このハイドン関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対するねたみの一つの表れに過ぎなかった。そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。そこでの宗教曲および劇作品の上演のほかに、当時アポロザール・ホールの監督であった父を通して、毎年まとまった数のメヌエットやドイツ舞曲を発表した。つまり彼はエステルハージ宮廷との専属契約を全うしていないと思われた。1808年の降誕祭にいったん職を解かれたが、ハイドンの仲裁によると思われる再契約がなされ、1811年5月の契約の任期満了までこの職務に就いた。この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。

●1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。1813年には当時の有名なソプラノ歌手であったエリーザベト・レッケルと結婚し、2人の息子を得て、後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。このころベートーヴェンとの関係は不安定なものとなっていた。両者の不和は早くも1807年に起こり、ベートーヴェンのハ長調のミサ曲の上演の後、ニコラウス候の批判的見解にフンメルが暗黙のうちに同意したと思われた。また、エリーザベト・レッケルにベートーヴェンが関心を抱いていたかもしれないことが、結婚後に両者の亀裂を生じさせた可能性がある。とはいえ、接触がなくなったわけではなく、例えば1814年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きかった。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です  

フンメルの生涯(旧掲載文) 1.初期

3037793●フンメルは神童であった。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。4歳で楽譜を読むことができ、5歳でヴァイオリン、6歳でピアノを演奏した。8歳のとき、弦楽器演奏家でもあり、指揮者でもあった父ヨハネス・フンメルがアウフ・デア・ヴィーデン劇場(モーツァルトの歌劇『魔笛』やベートーヴェンの第9交響曲などの初演劇場)の音楽監督となり、一家がウィーンに移り住んだが、父の地位は、音楽現に触れるという貴重な経験を息子に与えることになった。

●フンメルはウィーン到着後すぐにモーツァルトに師事して、ピアニストとしての長足の進歩を示した。彼の父によると、モーツァルトはこの少年から強い感銘を受け、無償でレッスンするほどであったようで、当時よくあったように、彼を同居させた。2人はかなり意気投合したと思われ、しばしば一緒にウィーンの町を歩き回った。フンメルの最初の公開演奏は1787年にモーツァルトの主催する演奏会においてであったといわれているが、彼の生涯のこの時期の証拠資料には矛盾がある。1788年にモーツァルトはレッスンを続けられなくなり、音楽家としての独り立ちを勧めた。それによって、フンメル父子は4年に及ぶ演奏旅行を行うこととなった。プラハに立ち寄ったときにドゥシェックやトマシェックと知り合い、その後ドレスデンへ赴いた。同地で1789年3月10日にフンメルはピアノ協奏曲を1曲と、<リゾンは森で眠っていた>の主題に基づくモーツァルトの変奏曲、自作の変奏曲(これは最初期の作品であったに違いない)を演奏した。後にフンメルの父は誤って、モーツァルトがこのとき聴衆の中にいて、この少年は美術におけるラファエッロのようなピアニストになるだろうと叫んだ、と言っている。しかしモーツァルトがフンメルの演奏を聴いたのは、実際には約10週間後のベルリンでの演奏会においてであった。いずれにしても、幸先のよい幕開きで、それに力づけられて父子は長期にわたる演奏旅行を企て、ベルリン、マクデブルク、ゲッティンゲン、ブラウンシュヴァイク、カッセル、ヴァイセンシュタイン(同地でフンメルは天然痘に感染)、ハノーヴァー、ツェレ、ハンブルク、レンツブルク、フレンスブルク、リューベク、シュレスヴィヒ、コペンハーゲン、フューン島のオーデンセで聴衆の前に姿を現した。これらの演奏会は概して賭けに近い冒険であって、ヨハネス・フンメルの日記は何度か客の入りが悪いときもあったことを示しているが、全体的には満足いくものであったと思われる。

●1790年春に父子はエディンバラに到着した。同地では大きな反響を呼び、生計を支えるのに充分な人数の弟子を得て、2人で教え、フンメルが英語を勉強するという余裕も生まれた。3ヶ月後に彼らは南下し、ダーラムとケンブリッジで演奏会を開き、同年の秋にロンドンに到着した。確認できる同地での最初の演奏会は1792年5月5日にハノーヴァー・スクエア・ルームズにおいてであって、このとき彼はモーツァルトのピアノ協奏曲と自作の「新しいソナタ」を演奏した。なおイギリス生まれのF.L.ハメル(Hummel)という神童がいて、この時期に関する資料に混乱が見られる。製造業者で音楽に造詣の深いウィリアム・ガードナーは、ずっと後になってフンメルについて「若きモーツァルトを別にすれば、イギリスを訪れた最高の少年演奏家」と書いた。フンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。

●フンメル父子は、2年間のロンドン滞在後は、さらにフランスかスペインに演奏旅行を続けようと計画していたが、革命による混乱に妨げられ、1792年秋のある時点でオランダに向けて出発した。同地で2ヶ月間、毎日曜日にハーグのオラニエ公の宮殿で演奏するが、フランス軍の侵攻に遭遇し、やむなくアムステルダム、ケルン、ボン、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、さらにバイエルンを通ってリンツに行き、そこでフンメル夫人(母)と合流した。1793年初頭までに一家はウィーンに戻った。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

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10月17日はフンメル命日

最近新譜が少ないなぁ。。。
本日10月17日は、フンメルの命日。

ヨハン・ネポムク・フンメル

Johann Nepomuk Hummel

1778年11月14日 ブラチスラヴァ生
1837年10月17日 ワイマール没
ウィーン古典派最後の巨匠。ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、教師、指揮者。存命中はベートーヴェンと並ぶヨーロッパ最大の作曲家の一人と評されていた。

4月5日は、シュポーアの誕生日!

6763495473_8ea6f0e06e今日は、大好きな作曲家 ルイ・シュポア(Louis Spohr, 1784年4月5日 ブラウンシュヴァイク生 - 1859年10月22日 カッセルにて死亡)の誕生日です。

シュポア Wiki

シュポーアは、ほぼフンメルと同時代人であり、交流もありました。特にシュポーアが1813年から1815年までウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の指揮者を務めている間は、ベートーヴェンやフンメルらと交流したようで、特に「ワン・ドゥカーデン・コンサート」とでは、幾度となく共演しています。



シュポーアは、モーツァルトを敬愛し、後継者として自認していたようですが、比較的長い生涯において「モーツァルトっぽい」のは数が少ないですね。例えば、交響曲第1番や第2番などは、モーツァルトの三大交響曲や「魔笛」の序曲からの楽想がたくさん出てきますし、半音階メロディーを多用したのは、後期のモーツァルトから感化されたものに違いありません。



彼の曲は、「強い主張」もなく、「ここで盛り上がったら最高だぁ」というところで盛り上がらない感じで、短調の作品などは「陰々鬱々」とした主題が永遠と繰り返されるような雰囲気を持っています。


これがたまらなく好きなんですが...


好きな曲は、交響曲の3番と4番「音の浄化」、ヴァイオリン協奏曲第7番(一番有名なのは第8番「劇唱の形式で」でしょうけど)、複合弦楽四重奏曲、ヴァイオリンとハープのための協奏曲 ホ短調、ピアノ三重奏曲第1番...といったところです。


かなり改革・革新的な音楽を作り続けていますが、ヒットメーカーの同時代人(ベートーヴェン、ウェーバーやメンデルスゾーン)に比べると、大衆的なヒット曲がないのがマイナーな理由でしょうか。そこはフンメルと似ているとも言えますね。

 





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− クレメンティ −もう一人のピアノ教師

Muzio_Clementi少年フンメルは、1790年からロンドンに滞在している。


ハイドンは1791年から1年間滞在した。例のロンドン交響曲が披露された歴史的滞在である。
この同時期に滞在したモーツァルトの愛弟子であるフンメルとハイドンが交流を持った事は事実であろう。
事実、二人がウィーンに帰ってからは師弟関係になった。


一方、演奏実績と自作出版もあり、既に相当評価が高まっていたフンメルは、クレメンティにピアノを師事している。

クレメンティは、1781年(29歳)の12月24日ウィーンでヨーゼフ2世の前で、当時25歳のモーツァルトとピアノの競演をしているが、モーツァルトの演奏に大変感銘し、その後の作品や演奏法に影響を受けたと本人が語っている。
そのモーツァルトの太鼓判をもらったフンメルにピアノを教えたのだが、そのレッスン内容はどういうものだったであろうか?


おそらく、フンメルの巨匠的演奏は、クレメンティの教えが無くては実現しなかったのではないか?と考えられる。


べートーヴェンはモーツァルトの演奏より、クレメンティの演奏の方を評価したと言われているが、そのモーツァルトのウィーン楽派特有の軽くて華麗な演奏法と、クレメンティから始まるロンドン楽派特有のピアニスティックな力強い演奏法の両方をフンメルは学んだことになる。


フンメルは生涯に渡ってウィーン楽派的な装飾の多い華麗なピアノ楽曲を好んで多く作ったが、同じクレメンティに学んだクラーマー、カレクブレンナー、フィールドといった音楽家が持つファンタジーと演奏技巧は、フンメルにも当然あって、特にピアノ協奏曲では顕著にみられる。

ピアノを習うと出てくるクレメンティ...


ハイドンのブームに押されて日の目を浴びなかった、彼の交響曲なんかは迫力があって、個人的には大好きである。

彼の生涯は、邦訳された「クレメンティ―生涯と音楽」(音楽之友社)に詳しいし、Wikiでもある程度掌握できる。


彼が没してから、ちょうど180年が経った。

今日は師匠・モーツァルトの誕生日です。

3037793取りあえず、2年間も住み込みでピアノと即興演奏、作曲にかかる基礎を学んだ訳ですから、フンメルの作品にモーツァルトにそっくりな曲が多いのは納得できます。

というより、この時代の様々な作曲家の作品を聞いても、モーツァルトの作風に一番近い人で、その完成度も高かった人はフンメルと思っています。
特に初期のピアノ曲やピアノ三重奏曲、ヴァイオリン、ヴィオラ、フルート等のソナタはそっくりです。真似てもここまで美しい曲を書ける人がいるでしょうか? という程です。

フンメルの残したモーツァルトに関する「回想録」も残っているそうですし、下記の作品は直接モーツァルトの作品を取り上げたり編曲したものです。

Op.94◆ヴィオラとオーケストラの為の幻想曲とポプリ ト短調
 *ドンジョヴァンニとフィガロ、後宮からの誘拐の音楽が使われています。

Op.63◆グランド・セレナーデ第1番 ト長調,Op.63
Op.66◆グランド・セレナーデ第2番変ホ長調,Op.66
  *二曲とも様々な当時のヒットソング(主にオペラ)からのポプリです。ティトース序曲やフィガロのメロディーなどが取り上げられています。
これは、ワン・ドゥッカーテンコンサート(カフェでの庶民向けサロンコンサート)で、ギターのジュリアーニやヴァイオリンのシュポアらと共に演奏されたらしいです。夢のようなサロンコーンサートですね。

Op.34-3◇3つの変奏曲,Op.34の第3番「モーツァルト「後宮からの誘拐」による変奏曲 ハ長調」
S.27◇幻想曲 変イ長調,S.27(1799) 「ハイドンとモーツァルトの主題による」
Op.124◆幻想曲 ハ長調,Op.124 「モーツァルトの"フィガロの結婚"による」


S.112-113◇選び抜かれた24の序曲による四重奏曲編曲(1821) 「魔笛」序曲/「フィガロの結婚」序曲
S.138〜144 ◇モーツァルトの7つのピアノ協奏曲による四重奏曲編曲(K.466、K.503、K316a、K.491、K.537、K.482、K.456)
S.151〜156 ◆モーツァルトの6つの交響曲による四重奏曲編曲(K.504、K.550、K.543、K425、K.385、K.551)
◇モーツァルトのピアノ協奏曲7曲へのカデンツァ集 (1790s) Op.4a=K.414,Op.4b=K.415,Op.4c=K.413,Op.17a=K.595,Op.44a=K.451&K.459,Op.46a=K.537
  *その他にも交響曲のピアノソロ編曲など多数あります。

中期以降は独自のロマン性を伴った作風や、ハンガリーの民族性などが現れ、ピアノの演奏技巧も含めて独自の作曲家、演奏家としてその地位を確立しますが、ベートーヴェンほど革新派ではなく、あくまでも伝統的な古典的な作品に終始しましたし、死ぬまでモーツァルトの影響と尊敬は持ち続けていたようです。

今日1月27日はモーツァルトの誕生日。256歳です。

 
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命日

174年前に亡くなったフンメルの音楽を今でも聞くことができる奇跡と幸福。

フンメル:歌劇『ギーズ家のマティルド』


フンメルは、1786年から1988年までの2年間、モーツァルトの家に同居してレッスンを受けていました。その間フンメルは数多くのピアノ協奏曲の名作群や、「フィガロの結婚」の完成を目の当たりにしてきました。
それだけではなく、フンメルは師匠のピアノ協奏曲のカデンツァを勉強したり、交響曲を写譜や編曲をしていました。モーツァルトのこの時期の少年フンメルに与えた影響は多大で、フンメルの死まで続きます。

その後の大きなヨーロッパ演奏旅行とクレメンティへの師事を得て戻ったウイーンで、フンメルはベートーヴェンと同じ時期に同じ師匠の元で学びます。J.ハイドン、A.サリエリ、G.アルブレヒツベルガーの3人です。ハイドンとベートーヴェンの関係は微妙でしたが、フンメルに対してはかなり評価し、援助しております。ハイドンは、エステルハージ家の自分の後継者として推薦し、フンメルの最初の就職先が決まったのです。フンメルは途中幾度となく同家との諍いを経験しましたが、結局1804年から1811年までの7年間をここで働くことになります。

この時代のフンメルの作品は、同家の作品とウイーンからの依頼作品で膨大かつ幅広いジャンルに跨っており、特にピアノを伴わない作品の多くは、この時代のものです。トランペットやファゴットの協奏曲、膨大な宗教作品や舞台作品、歌劇のほとんどが作曲されています。

この『ギース家のマティルド』もOp.100という後期の作品番号を与えられていますが、これは、ワイマール宮廷楽長の時代にこの作品を改定し、1820年に出版したためです。しかし、この作品のオリジナルは1810年に完成し・初演されています。

今回リリースされたCDには、この初版の序曲も収録されているのが嬉しいところです。

94043
・フンメル:歌劇『ギーズ家のマティルド』全曲
 クリスティーネ・ガイリテ(ソプラノ)
 フィリップ・ドゥ(テノール)
 ピエール=イヴ・プリュヴォ(バリトン)
 ヒョルディス・テボー(ソプラノ)
 オンドレイ・シャリング(テノール)
 マリアン・オルシェフスキ(テノール)、他
 ソラメンテ・ナチュラリ/ディディア・タルパイン(指揮)


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フンメルとピアノ奏法について-8 フンメル自身の言葉(アクション別の演奏法)

 ここまで、ウイーン式アクションのピアノとイギリス式アクションのピアノの特徴概要を紹介してきましたが、今回はフンメル自身の言葉でそれぞれの演奏法を紹介してもらいます。

 フンメルが1828年に刊行した当時のピアノ奏法バイブル「ピアノ奏法の理論と実践詳論」から 第三巻第4章「様々なピアノの適切な弾き方−ドイツ式(ウイーン式)アクションとイギリス式アクションについて−」全文を翻訳し紹介します。

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section1
 いかに優れた演奏者でも、慣れないアクションの楽器を弾く時にはしばしば弾きにくい思いをするものである。そのためピアノのアクションについて、少し説明をすることは重要なことと考える。

section2
 一般的にピアノには2種類のアクションが存在する。ひとつはドイツ式(ウイーン式)アクションで弾きやすいもの、もうひとつはイギリス式アクションで弾きにくいものである。

section3
 言うまでもなく、この二つのアクションにはそれぞれ特有の長所がある。ウイーン式アクションはどんな可憐で繊細な手でも扱うことができるであろう。ウイーン式アクションであれば、演奏する者は様々なニュアンスでの演奏が可能で、また敏感に明確に音を出すことができる。そのフルートのような豊かな音色は、特に大きな会場でのオーケストラの伴奏から見事に浮かび上がってくる。さらに演奏に気を取られすぎて、流暢な音の流れを壊してしまう、というようなこともないであろう。しかも、この楽器は耐久性もあり、価格もイギリス式アクションの物より半分の値段で売られている。
 ウイーン式のピアノは、その特性に合わせて扱う必要があり、腕全体の重みで鍵盤を激しく突いたり叩いたりすることは許されず、鈍いタッチも許されない。むしろ音の力強さは指の弾力のみで生み出す必要があるのだ。例えば、厚い和音はすばやく分散して演奏するのが通常であり、それが全ての音を一度に強く打鍵したときよりもはるかに効果的である。男性の手には、浅めでも薄めでもないタッチの楽器を選ぶことを薦める。
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フンメルの愛用していたウイーン式ピアノ(ワイマールフンメル記念館)

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 イギリス式のアクションは、音の持続性と豊かさという点ではもちろんその利点を認めざるを得ない。しかしウイーンのピアノほどには完成の域には達していないというべきである。タッチははるかに重く、鍵盤は非常に深く沈むため、連打する時にはハンマーがすばやく動作しないからである。
 このようなピアノにまだ慣れていない人は、深く沈む鍵盤や重いタッチに決して惑わされてはならない。むしろ、無理なテンポで演奏せず、いかに速いフレーズやルラード(装飾的旋律)も、いつもの調子で軽快に弾かなければならない。力強く演奏すべきところやパッセージも、ウイーン式ピアノほど多彩な音のニュアンスが備わっていないため、仮に激しく打鍵したとしても、指にもともと備わっている力強い弾力性から得られる音に比べるとより強い音が出せるという訳ではないのである。
 慣れないうちはイギリス式ピアノに少々違和感を覚えるかもしれない。特にf(フォルテ)でルラードを弾く時には、鍵盤を底まで押さえるのでなく、見かけだけにとどめなければならないからである。そうしなければ、「弾く」という行為にばかり気を取られ、完璧に演奏するための負担は倍になってしまうであろう。しかし、このピアノで「歌わせること」ができれば、その豊かな音色が長所となり、特の魅力と美しい和声を奏でることができる。
 ただし、イギリス式アクションのピアノは、小さい部屋の中では非常に良く響くのにもかかわらず、大きな会場で演奏すると、音の性質が変化し、複雑なオーケストラ伴奏を伴うときにはウイーン式ピアノほどには音が通らなくなる。私の考えでは、太くて豊かな音色がその要因であるように思われる。

(フンメル著「ピアノ奏法の理論と実践詳論」 第三巻 第4章「様々なピアノの適切な弾き方−ドイツ式(ウイーン式)アクションとイギリス式アクションについて−」より)
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 こうしてみると、フンメルはウイーン式アクションのピアノを好んでいたことが判ります。現代のウイーン式ピアノというとベーゼンドルファーがありますが、これとて現在ではイギリス式と変わらないシステムであり、ウイーン式の主流というのはないと思われます。古楽器、オリジナル楽器としての演奏のCDも多いですが、その場合はウイーン式のヴァルター製や初期のベーゼンドルファーやそのレプリカが多いですね。
 当時はもっと事情が違っていたのでしょうか? 今、ホールでの演奏会でこの手のウイーン式ピアノで演奏すると、オーケストラに音が飲み込まれてしまって、聞こえなくなってしまいます。

 ちなみにショパンもウイーン式アクションのピアノを好んでいたようで、プレイエル製、エラール製などの名前が挙がってきますね。
 
 二人の作品の共通点は、装飾が多く、繊細なメロディーが多いことでしょうか...
 

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フンメルとピアノ奏法について-7 イギリス式ピアノ

前回はウイーン式ピアノの特性の一般的なものを紹介したが、今回はイギリス式ピアノについての説明を照会します。

 

イギリス式のピアノはウイーン式のピアノに比べて様々な点で異なる。音域は5オクターブ半(Ffc4)で、ウイーン式より幾分広く、ウナ・コルダとダンパーを操作する2つのペダルをもつ。楽器は一般的に大きくてかつ頑丈に作られ、今日のグランド・ピアノのように高音域の弦にはダンパーがついていない。ダンピングによる一般的効果はウイーン式のピアノに比べてかなり鈍く、音の透明感にも欠ける。イギリス式ピアノはアクションがずっと重かったため、ウイーン式ピアノになれた者からはかなり批判されていた。しかし、イギリス式ピアノはその長所や特殊性(異なるピッチによる音の多様性など)から、イギリスのピアノを知るようになったハイドンやドゥシェックによってその特性が活かされた。

(ジェフリー・ゴヴィエ)

フンメルとピアノ奏法について-6 ウイーン式ピアノ

  さて、フンメルとピアノ奏法について-5で紹介した本で、ピアノという楽器について学ぶと、ピアノが独奏楽器として独立したのは、18世紀も後半に入ってからであることがわかる。この時期から新しい楽器の音に魅せられた音楽家たちの創作活動が活発になり、同時に作曲家たちはまだ不完全である当時のピアノに対して、音量、音色、音域、演奏法などを柔軟に駆使し、可能性を求めていき、またピアノ製作者たちもその改良に努めていった。モーツァルトの文献、特にシュタイン製ピアノについて言及した手紙にはその辺りが良く理解できて面白い。


ウイーン式ピアノ

 フンメルの時代もピアノはま゛進化を続けていた。当時はイギリス式とウイーン式の2つの主流があったようで、フンメルはウイーン式のピアノを愛用していたが、彼の最初期のソナタ(Op.2a-3、1792年)のピアノの音域は5オクターブ(FF-f3)であり、モーツアルトのピアノ曲の音域とと一致している。
 フレームは木製で金属製に比べると強度の問題で弦は細く、ハンマーも小さく、柔らかい皮で覆われていた。一方ダンパーは最高音までつけられていたため、アーティキュレーションが非常に明瞭であった。そのため陰影、変化に富んだメロディー、細部の装飾の表現に優れていた。
 現代で言うペダルはなく、膝レバー(モーツァルトのヴァルター製ピアノも膝レバーがついていた)でダンパーを操作した。アクションも軽く、反応もすばやく、直接的だった。

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フンメルの命日

ヨハン・ネポムク・フンメル
Johann Nepomuk Hummel


師・モーツァルトと同じように演奏旅行で始まった彼の音楽キャリアは、ウイーン時代には売れっ子作曲家として、その後はピアニストの巨匠として多くの尊敬を集め、音楽は後の世代に多大な影響を与えた。

ワイマールの宮廷楽長の地位にあり、ゲーテらと交友を深めながら執筆活動、著作権の確立への運動、後輩の育成に力を注いだ。

晩年は、健康を崩し、闘病しながら自叙伝や自作品の整理、編曲出版などの仕事をしていたが、

1837年10月17日 

フンメルは、妻・エリザベートと2人の息子を残して亡くなった。
モーツァルトとは違い、莫大な遺産を残したといわれている。DVC00536bis













(写真:死の直前の時期のフンメル F.Prellerによる鉛筆画 1837年)
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人生を変えた妻の助言-2

elisabeth1 フンメルの妻・エリザベートについては、

「エリーゼのために」本当は「エリザベートのために」?

 でも触れたが、ウイーンでベートーヴェンとも交友ががあった当時著名なソプラノ歌手だった。
 フンメルと結婚したのは1813年。エステールハージ家から離れてウイーンで「作曲家」「ピアノ教師」として引く手あまただったころのことである。

 エリザベートは、ピアノ演奏家の大家である夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」と助言したのだった。

 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べられているが、その内容はまたいずれ...

 この時の妻エリザベートの助言が無かったら、音楽史が変わっていたかも知れないし、フンメルという名を聞くことも無かったかもしれない。また、有名なピアノ協奏曲の数々やソナタ、ピアノ奏法の著作も生まれなかったかもしれない。

 とても重要な助言であった。

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人生を変えた妻の助言-1

 ツェルニーの証言を紹介したが、彼はフンメルのことを「20歳をいくらか過ぎた年齢」としていたが、ちょうどその証言に出てくる1804年はフンメルの就職の年に当たり、歳は26歳である。
 
 大規模なツアーを終え、いくつかの作品も出版し、将来有望...というよりピアニストとしては既にかなり有名になっていたフンメルは、1804年にハンガリーの大貴族エステルハージ公爵家の楽長に就任し、ウイーンから同公爵家本拠地のアイゼンシュタットに移った。ここの楽団はかつてJ.ハイドンが長年手塩にかけて育ててきたのであるが、先代の当主が亡くなったときに一旦解散し、その後に縮小された形で再建されたのである。
 
 もちろん、ハイドンからオルガンや作曲を学んでいたフンメルがその才能を認められ、ハイドンの推薦を受けての就任だったという文献がある。また、この時に作曲されたフンメルの有名なトランペット協奏曲が公爵にいたく気に入られたのが採用の決め手だったといわれている。

 ここでフンメルは7年間にわたって活動し、室内楽、管や弦の協奏曲、大規模ミサ曲などの宗教曲を多数作曲したが、フンメルがハイドンの残した楽譜や財産を散逸させたとの疑いが掛けられ、当主と喧嘩別れの形で一旦辞めている。後にハイドン自らが「事実無根」だとして仲裁に入り、再びその職に就くが、父親の仕事やウイーンの貴族からの仕事に精を出しすぎているとかなんとか文句を言われ、結局は永くは続かなかった。

 フンメルはウイーンに戻ってフリーのピアノ教師、舞台作品や室内楽の作曲家として大いにもてはやされていたが、30歳代であるのにもかかわらずピアニストとしては舞台に立つことは控えめだった。これは、一説にはベートーヴェンの存在が関係するであろうと言われているが真偽の程が不明である。


(つづく)
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トランペット協奏曲のCDを紹介
Haydn, Hummel: Trumpet ConcertosHaydn, Hummel: Trumpet Concertos
販売元:EMI Classics
発売日:2008-08-06

多くの録音があるためどれを紹介するか迷いましたが
手に入りやすい盤を掲載します。
この曲はホ長調だが、現在の多くの録音は演奏しやすい変ホ長調に移調されたものが多く、古くはモーリス・アンドレの名盤も移調版です。 このCDも同じ。原典版は、Chadosのシェリー/ロンドン・モーツァルトプレイヤーズ盤で聞けます。

フンメルの息子が描いたショパンの肖像画

 ショパンは幼くしてフンメルの練習曲を習い、フンメルの音楽には共感していた。1828年のワルシャワで演奏会を開いたフンメルは、ショパンに紹介されてその演奏に接し、その才能を高く評価している。

 1829年8月11日、ショパンはウィーンでデビューしたが、翌日に家族に宛てた手紙に

「〜ヴェルトハイムが奥さんと一緒に昨日偶々カルルスバードから着きましたが〜略〜カルルスバードでフンメルが僕のことを訪ねていたそうです。彼は今日フンメルに僕のコンサートのことを書くそうです」

と書いている。それを受けて、フンメルは18日に開かれた2度目ののコンサートにモシェレスやヘルツ等と一緒に列席している。

 1830年、ショパンが再び訪れたウィーンで、フンメルは息子のカールを伴ってショパンを訪れている。カールは画才があったようで、ショパンの肖像を描いた。
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 ショパンの家族宛の手紙の中にも

 「〜正装をしてピアノの椅子に掛け、霊感を表した絵です。フンメルお爺さんと息子の親子は大変親切にしてくれます」

と書かれている。




上図が、1830年にウィーンでフンメル親子とショパンが交流を持った際、息子カールが描いたショパンの肖像(鉛筆画)である。

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フンメルとピアノ奏法について-4 ツェルニーの証言その2

 カール・ツェルニー(Carl Czerny)は、自叙伝(1842年執筆)の中でピアノ音楽史の中では有名なベートーヴェンとフンメルのピアノの演奏についての言及があり、これは以前、「フンメルとベートーヴェンという記事で紹介した。

 

 ここで述べておきたいのは、下記のツェルニーの証言である。

 

「〜私はといえば、私がいっそうの清澄さと明確さを目指すようになったという意味では、私もフンメルに影響されたことになる」

 

 事実、ツェルニーのピアノ曲、ピアノ室内楽、ピアノとオーケストラの協奏曲らを聞くと、ベートーヴェンというよりフンメルと聞き間違えるほどの書法、奏法を駆使した楽曲が多いのがわかる。この点については、同じくベートーヴェンの弟子であるフェルディナント・リース(Ferdinad Ries 1784-1838)の作品と聞き比べるとその違いが顕著で、リースは明らかにベートーヴェン的であるといえよう。


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リースの作品

Ferdinand Ries: Piano Concertos Op. 123 (1806) &amp; Op. 151 (1826)
Ferdinand Ries: Piano Concertos Op. 123 (1806) &amp; Op. 151 (1826)
販売元:Naxos
発売日:2005-11-15

Ferdinand Ries: Piano Concerto; Swedish National Airs with Variations; etc.Ferdinand Ries: Piano Concerto; Swedish National Airs with Variations; etc.
販売元:Naxos
発売日:2007-09-25

Ferdinand Ries: Piano Concertos, Vol. 3Ferdinand Ries: Piano Concertos, Vol. 3
販売元:Naxos
発売日:2009-03-31



ツェルニーの作品
Czerny - Piano works for four handsCzerny - Piano works for four hands
販売元:Sony Classical


Czerny: Chamber MusicCzerny: Chamber Music
販売元:Meridian
発売日:1998-06-23

Rondo Brillante: Early Romantic Works for Piano and OrchestraRondo Brillante: Early Romantic Works for Piano and Orchestra
販売元:MSR
発売日:2006-08-22

フンメルとピアノ奏法について-3 ツェルニーの証言その1

 フンメルの演奏については、ベートーヴェンの弟子でもありリストの師匠ともなったカール・ツェルニー(Carl Czerny)の自伝の中に次のように記載されている。

 

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 およそ1802年から04年までの数年間、私は父と一緒にモーツァルト未亡人(*コンスタンツェ・モーツァルト)の家を訪れていた。そこでは土曜日ごとに音楽の夕べが催されていたからである。そこでは、シュトライヒャーの弟子でもあるモーツァルトの息子(*フランツ・クサーヴァー・モーツァルト=1791年生まれのモーツァルトの末子)がきわめて巧みに演奏していた。

 

 そんな音楽の夕べのひとつのことである。いつもよりずっと多くの人々が集まっていた。ところが私はそうした多くの優雅な紳士淑女の中に、随分と奇異な感じのする風貌の青年がいるのに気がついた。

 

・いつもピクピク動かしている下品で不快な顔面

・きわめて趣味の悪い服装

・薄ねずみ色のフロックコート

・深紅色の長いベストと青色のズボン

 

以上の姿からは、どこかの田舎村の学校教師ではないかと思われたが、そんな感じとは裏腹に、彼の指という指には高価な指輪がはめこまれていて、それらが一緒になって光り輝いていた。

 

 音楽会はいつものようにすすめられたが、最後になって例の青年(20歳をいくらか超えたであろうと思われる)が弾くように勧められた。

 

 私はそこでなんとすばらしい巨匠の演奏を聞いたことか!

 

 当時の私はすでに、ゲネリック、リパフスキー、ヴェルフル、そしてベートーヴェンでさえも聞く機会をしばしば持っていたのに、この貧相な男の演奏は、私にはまるで新世界のように思われた。私はそれまで、
これほど新しくて輝かしい技法を、
これほど清澄で典雅で繊細な演奏表現を、
これほど豊かな趣味を持ってまとめあげられたファンタジーを
聞いた事は一度もなかった彼がその後、モーツァルトのソナタを数曲、クロンマーの弾くヴァイオリンと一緒に演奏したとき、以前から知っていたそれらの曲も、私には新世界に移ったのである。


 演奏が終わってすぐ、この青年がフンメルという名で、かつてはモーツァルトの弟子であり、今はロンドンから戻ってきている(ロンドンではクレメンティに師事していた)ということを知った。
 

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ツェルニーの自叙伝(1842年執筆)より
*注釈:フンメルノート

 

 

(つづく)

忘れられていた作曲家

フンメルの名は音楽史には必ず出てくる(といっても触れられている程度が多い)し、ベートーヴェンの書籍、ショパン、シューベルト関連の書籍には良く出てくる。一方、直弟子であったのにもかかわらず、モーツァルト関連の書籍には詳しく述べられているものが意外と少ない。また、その音楽はクラシックファンであったり、演奏者(プロアマ問わず)であっても意外と知られていないのが現状である。

 

 フンメルの生きた時代は、よく言われるように「古典派」と「ロマン派」の狭間に位置するが、だからといってフンメルの音楽が中間的で、あいまいな音楽であるということではない。管弦楽曲やオペラ、ミサ曲などはまさにウイーン古典派そのものであり、個人的にはどちらかというとフンメルは「古典派」であると思っている。一方、ピアノ楽曲の性格や書法を見るとショパン、メンデルスゾーン、シューマン等のロマン派の音楽に非常に近いといえる。

 

 フンメルはロマン派に多い短調作品よりも古典派に多い長調作品が多い。短調作品も旋律はショパンのように哀愁漂うものは少なく、シューマンのように何かを描写している標題音楽でもなく、形式をはみ出すことも少なく、職人であり、立場もフリーランスではなく宮廷楽長である。ベートーヴェンに比してのこの人の生き方(精神)のドラマ性の無さが、しばらく忘れられた作曲家にされてしまった原因のひとつだと考えている。

フンメルとピアノ奏法について-2

 Chandosというイギリスのクラシックレーベルが、1987年に発表したフンメルのイ短調とロ短調のロマンチックなピアノ協奏曲のCDがグラモフォンアワードに輝いて以来、トランペット協奏曲一辺倒だったフンメルの録音物が一気に増えた。特にピアノ協奏曲は今では全作品を聞く事ができるし、ピアノソナタや小品集、室内楽も数多く発売されている。

 しかし、メジャーなレーベルからの企画は相変わらずトランペット協奏曲のままだし、CD紹介や作曲家の研究本でもフンメルについて言及されているものは少なく、彼の音楽史における重要性は多くの人々の認めるところまでには至っていないのが現実である。

 フンメルは、18世紀末から19世紀前半にかけてヨーロッパ全域に名声を馳せたヴィルトゥオーソであった。その才能は、彼が8歳の時にモーツァルトが自宅に同居させてまで教育したことからも理解できるであろう。作品(作曲)においても有名で、300を超える作品は、ピアノ曲はもちろんだが、オペラ、カンタータ、ミサ曲、バレエ曲などの大規模作品が交響曲を除くあらゆるジャンルに並んでおり、ショパンのみならず、シューベルト、シューマン、メンデルスゾーン等の初期ロマン派の音楽に与えた影響は計り知れないものがある。

 「ピアノ奏法」は、フンメルの晩年にあたる1828年に出版されたものであるが、全三巻444ページにわたる膨大な量のこの教則本は、当時第一級の音楽界の中心にあった人物によって書かれたものとして、19世紀前半におけるピアノの演奏法を知る上でとても重要な文献である。モーツァルトの直弟子でもあったため、モーツァルトの演奏法(トリルの用法等)を理解するうえでも重要だと思われる。


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参考
Johann Nepomuk Hummel: Piano Concerto in A Minor and B MinorJohann Nepomuk Hummel: Piano Concerto in A Minor and B Minor
販売元:Chandos




フンメルとピアノ奏法について-1

 音楽の歴史を全体像として完成させるためには、ある様式の発展の頂点に立つ作曲家のみではなく、その様式の発展の過程において不可欠であった作曲家の存在を見逃すわけにはいかないであろう。
 例えば、ショパンの音楽が如何にして「ベートーヴェン時代」のすぐ後に続いたかを説明するのは難しいが、ある範囲においてフンメルがそのギャップを埋めている。

 ショパンがフンメルを非常に尊敬していたことは、1840年に知人のピアニストに宛てた手紙の中に

「モーツァルト、ベートーヴェン、フンメルなどの偉大な巨匠たち」

と記されていることからも知ることができるが、ショパンの音楽の特徴である繊細なパッセージ・ワークと音符の構成は、フンメルの音楽の中にも多く見られるものである。
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*注
フンメルの24の練習曲,Op.125
ショパンの二組の12の練習曲(Op.12、Op.25)

フンメルのOp.89をはじめとするピアノとオーケストラの作品群
ショパンのピアノ協奏曲やその他の作品群

これらの楽曲を聴くと、ショパンがフンメルの影響を受け、かつ触発されていたことは明らかである。
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 一方、フンメルはベートーヴェンを友人として、ライヴァルとしての関係を超えたところで偉大な作曲家として尊敬していたが、その影響=ベートーヴェンの音楽の影をフンメルの音楽の中に見出すことは容易ではない。フンメルは主題と装飾、陰影というモーツァルトの音楽の世界をショパンに伝え、ベートーヴェンは、モチーフを発展させていくハイドンの世界をブラームスにつなげたという考え方もできる。

ジェフリー・ゴヴィエ 注釈:フンメルノート

フンメルとベートーヴェンについて

 ベートーヴェンの演奏が、その驚くべき力、品位、前代未聞の妙技と達者さによって目立っているとすれば、フンメルの演奏はこれに反して極めて清麗で明確な演奏の模範であり、最も人を魅了する優雅さと繊細さとのモデルであって、フンメルがモーツァルトの奏法とクレメンティ派のそれとを楽器に適するように巧みに合わせて以来最も困難とするところは、いつも最高の、そして最も驚くべき効果を狙う点にあった・・・。

 フンメルの追随者たちは、ベートーヴェンのことを「彼はピアノを虐待し、ただ混乱した雑音を作るに過ぎない」と悪口を言い、また「彼の作品は不自然で、わざとらしく、非旋律的で、変則的だ」と貶した。
 一方ベートーヴェンの信望者は、「フンメルにはすべてにおいて真のファンタジーがかけている。その演奏はクラヴィコードのように単調で、彼の指は蜘蛛のようにしがみつく。そして彼の作品はモーツァルトとハイドンのモティーフの単なる焼き直しにすぎない」と主張した。

ツェルニー回想録より

ショパンの運指法

ショパンは独特な運指法を用いていたが、その中でも重要な考え方ひとつを紹介。

ピアノを弾くにあたり、各指の個性を尊重し、それを活かすということで、この考え方は彼の運指法全体のなかに貫かれている。この点についてショパンは次のように述べている。

−−−−−−−
 「指の力を均等にするために、今まで無理な練習が随分行われてきた。指の力はそれぞれ違うのだから、その指に固有なタッチの魅力を損なわないほうが良く(損なってはいけないのは当然である)、逆にそれを充分活かすよう心がけるべきだ。指にはそれぞれの造りに応じた力が備わっている。親指は一番大きくて太く力強い、そして一番短くて動きの自由な指である。5の指(小指)は手のちょうど反対側にあり、3の指(中指)は中央にあって全体の支点となる。2の指(判読不能)の次に、4の指(薬指)は一番可憐で、3の指と靭帯で結ばれているが、この指を無理矢理に3の指から離そうとしている人もいる。そんなことは不可能だし、ありがたいことに意味がないのだ。指の数だけ音色も違うものである。すべては運指法の熟達にかかっている。フンメルはこの点について最も精通していた。
 このような考え方に基づいた運指法は難しいものではない。指の造りを利用しなければならないのだから、手の他の部分、つまり手首、前腕、腕もやはり使わなければならない。カルクブレンナーが主張するように、手首だけで演奏しようと思ってはならないのである。」

参考文献:「ショパンのピアニズム」加藤一郎著

フンメルの楽曲をMP3で紹介

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 フンメル研究ノートのDOWNLOADページでは、私が個人的に作成したフンメルの楽曲のいくつかを紹介しています。
 今のところ下記の楽曲をアップしていますが、容量の関係でこれ以上増やせません。また、音質もかなり落としております。
 あくまでも個人的趣味のレベルですので、音質や高レベルな打込を期待されても困ります。曲の雰囲気だけでも楽しんでいただければ幸いです。

http://www17.plala.or.jp/hummel/download_01.htm


チェロ・ソナタ イ長調,Op.104-第1楽章 
ヴィオラ・ソナタ 変ホ長調,Op.5の3-第1楽章 
ケルビーニ「ロドイスカ」序曲の室内楽用編曲 
モーツァルト「魔笛」序曲の室内楽用編曲 
3つの変奏曲,Op.3より第3番「ドイツ民謡による変奏曲 ト長調 
「神よ、王を助けたまえ」による変奏曲ニ長調,Op.10 
ピアノソナタ 第5番 嬰ヘ短調,Op.81-第3楽章 
ピアノソナタ 第6番 ニ長調,Op.106-第3楽章 
6つのバガテル,Op.107(全曲) 
ロンド・ブリランテ ロ短調,Op.109 
ロンド・ファボリ 変ホ長調,Op.11 
3つの易しい小品,Op.111-第3番ロンド 
優雅なロンド 変ホ長調,Op.120 
素朴なロンド 変イ長調,Op.122 
フルートとピアノの為のグランドロンド・ブリランテ ロ短調,Op.126 
幻想曲変ホ長調,Op.18よりアレグロ・アッサイ 
ウェーバーのオペラによるポプリ ハ長調,Op.47 
ピアノとオーケストラのためのロンド・ブリランテ イ長調,Op.56 
24の前奏曲,Op.67(全曲) 
6つのポロネーズ,Op.70(全曲) 
七重奏曲 第1番 ニ短調,Op.74-第1楽章 
七重奏曲 第1番 ニ短調,Op.74-第2楽章 
ピアノ五重奏曲 変ホ短調,Op.87-第4楽章 
オルガンのための2つの前奏曲とフーガ,Op.posth.7より「フーガ ハ短調」 
ピアノのための6つの小品,Op.posth.9(全曲) 
4手用のための序奏とロンド 変ホ長調,Op.posth.5 
ピアノ奏法の理論と実践詳論,S.157より 第65番練習曲 
管楽八重奏曲 変ホ長調,S.48-第1楽章 
トランペット協奏曲 ホ長調,WoO.1(S.49)−第3楽章 
管弦楽のための変奏曲「おお、いとしのアウグスティン」,WoO.2 
荘厳ミサ ハ長調,WoO.12-サンクトゥス 
ファゴット協奏曲 ヘ長調,WoO.23-第3楽章 

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 フンメルの音楽に出会って20年以上経ち、その間に数少ない音源を買い集めていきました。インターネットの時代になってからは、飛躍的に情報取得が進み、いつかホームページをつくり、またフンメルの音源化されていない曲を打込(Midi)で、などと思い経ってからは10年ほどの月日が経ってしまいました。その間にもさまざまデータ等を作成しては修正を加えております。

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