フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

音楽史

モーツァルトの命日

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本日12月5日はモーツァルトの亡くなった日です。1791年。ウイーン郊外の聖マルクス墓地に埋葬されましたが、集団埋葬だったこと、遺族が誰も立ち会わなかったことで、遺骨が不明になり、ここに埋められたであろうという場所に記念碑の墓石が設置されてます。

写真は1994年の旅行時のもの 

フンメルの命日

フンメルは1837年10月17日に亡くなっています。
その最後の数年に関しては、メインのページ「Hummel Note  生涯:11.最後の10年と死

にまとめております。ご興味ある方は是非。

下記の【打込音源】は後期のオーケストラ曲で、独立した管弦楽序曲です。




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Happy Birthday Dear Ludwig

本日周辺はベートーヴェンの誕生日かもしれません(笑)


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 かもしれないというのは、正確な誕生日が不明で、1770年12月16日頃とされているからです。
 本日この記事を出したのは、12月17日に受洗 という事実に即しただけです。産まれ出た日、では有りません。

 それにしても、同じ時期、同じ町でハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという古典派3大巨匠が活躍し、それぞれ交流があったこと(モーツァルトとベートーヴェンは<弟子入りを希望している>ベートーヴェンがウイーン滞在中におそらく数回しかあっていないと思われるが)は、音楽史ならず人類史上の軌跡だと思っています。




ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン( Ludwig van Beethoven)
1770年12月16日 - 1827年3月26日)は、ドイツ作曲家
 


★フンメルとの関わりを記載した当サイトの記事

フンメルの命日です

本日10月17日は私の研究対象でもあり愛すべき音楽家:ヨハン・ネポムク・フンメルの命日です。
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亡くなってから178年ですか〜
意外と大昔ではないんですよね〜古典派なのに。
178年なんて、「きんさん・ぎんさん」だったら、たった二世代です(笑)

趣味のDTMも4月以降は忙しくて進んでいませんが、生きてる限り続けていきます(笑)


【打込音源】
J.N.フンメル作曲
ピアノ五重奏曲 変ホ短調,Op.87(1816作)より

第1楽章アレグロ・エ・レゾリュート・アッサイ

Sequenced Music
Johann Nepomuk Hummel
Piano Quintet for in E-flat minor
1.Allegro e rosoluto assai

Sequencer:SSW9 Lite
Score creation:Music Pro Windows Plus
Sound:Soundfonto SGM-2.01 &
GARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 4/ARIA

http://hummelnote.wix.com/hummelnote
http://hummelnote.doorblog.jp/


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October 17, 2015 is Deathdate of Hummel. 
He died on October 17, 1837.


Johann Nepomuk Hummel was born in Pressburg (now Bratislava) in 1778 into a musical family. An infant prodigy, he was taught by Mozart. In his late teens he was a leading virtuoso in Vienna, a rival to his friend Beethoven and mentored by Haydn, whom he succeeded at Esterhaza.

He became as famous as his friend and rival Beethoven. His music – in every genre bar the symphony – was enormously popular in Europe, but by the time of his death the dramatic romantic virtuosos, Liszt and Paganini were the vogue.

His music became less and less performed until he was a mere name by 1958, when his trumpet concerto was re–discovered. Recordings of some of his works – many scores still languish in museums – now reveal a wonderful, highly accessible, composer from the greatest age of classical music. The purpose of this website is to share and further develop this great discovery of recent times.

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ピアノの大家・クレメンティの交響曲

Muzio_Clementi 「ピアノフォルテの父、演奏家、教師、出版社、ピアノ制作者」として知られるムツィオ・クレメンティ(1752-1832)。しかし彼は晩年に至るまで同時代に国際的な名声を博していたベートーヴェンに交響曲作曲家として肩を並べたいという野心を抱いていたのです。

 とは言え、モシェレスが「クレメンティのシンフォニーは1820年代以降はヨーロッパの演奏会のレパートリーから消えてしまった」と語るように、クレメンティの交響曲は初期の2曲、Op.18を除いては消滅したとまで言われていました(一説によると、クレメンティ自身が「絶望の発作」で全て破棄したとも)。今回のメインとなる4つの交響曲も彼の生前に発表されることはなく、クレメンティ自身も「交響曲のスコアは全て破棄した」と述べていました。

 これらが作曲された時期は1810年代から1820年代初頭まで。とくに1813年、ロンドンにおけるフィルハーモニー協会を創設するにあたって準備していた彼に、交響曲を作曲・演奏のチャンスを与えたものと思われます。そして自作交響曲を大陸の聴衆に紹介すべく、自らフランス、ドイツに出向きオーケストラ団体に働きかけ、1816〜17年はパリのコンセール・スピリチュエルで、22年にはベルリンのゲヴァントハウス管弦楽団で三度自作交響曲を指揮したと言われています。


 さて、紛失したと思われていたクレメンティの交響曲ですが、1921年にモーツァルトの研究でも名の知られたフランスのジョルジュ・ドゥ・サン・フォワが1917年に競売を経て図書館に買い取られた手稿譜の中に、交響曲の断片が含まれているのスコアを見つけ出し、これを復元。4曲の交響曲と序曲、メヌエット・パストラールをピエトロ・スパーダが補作完成して演奏可能な形にしたのです。


 感想は「意外と洗練されていてイケルじゃん」(笑)

 モーツァルトというよりはハイドンの作風に似ていますが、ハイドンのパリ交響曲と比べても結構タイマン張れるのでは?と思えてしまいます。

 補作完成版の管弦楽法が素晴らしいのか、オリジナルがこうであったのかは不明なのですが、2管編成にトロンボーンが2本つく古典派の中での大編成で、木管がしっかり活躍しているし、金管は鳴り響いています。

ピアノ練習曲でクレメンティに出会った方は是非交響曲聞いてみてください。この作曲家への印象が180度変わりますよ。


【音源紹介】
とりあえず触りを聞いてみたいというのであれば、録音も演奏も優れているChandosのモーツァルトと同時代人シリーズで第1番とOp.18の組み合わせでリリースされています。

交響曲4曲すべて聞けるのは現在3種あります。
 
825646276264<1>一番古いのはERATOというレーベルで発売されていたクラウディオ・シモーネが指揮するフィルハーモニア管弦楽団の2枚組で、1978年の録音。第1番から4番までの4曲が聞けます。私が初めて聞いたクレメンティの交響曲もこのLP盤でした。 

 
573071<2>最新の録音ではフランチェスコ・ラ・ヴェッキア指揮/ローマ交響楽団によるNAXOS盤があります。2011年からの録音で1番から4番と序曲、直近では原作が残っているOp.18の2曲が発売されるようです。
でも、録音がいまいち。第3番なんて「逆相じゃない?」と思えるほど変な定位になっています。


_SX355_<3>一番のおすすめが1990年代に英ASVというところから発売されていた
フランチェスカ・ダヴァロス指揮,フィルハーモニア管のクレメンティ:管弦楽作品集。現在は再販復刻でBRILLIANTから3枚組で発売されています。
推薦の理由は、管弦楽曲がほぼすべて収録されている(交響曲6曲、序曲2曲、メヌエット、ピアノ協奏曲)事と、とても勢いがあって溌剌とした演奏で、金管が厚みを帯びて鳴り響いていること。

イタリアの指揮者フランチェスカ・ダヴァロスは,1930年生まれで,イタリア国内,ハンブルク,フランクフルト,コペンハーゲンなどで指揮をしていましたが,1987年にフィルハーモニア管を指揮した演奏が評判になり、それがきっかけでフィルハーモニア管を指揮して英ASVレーベルに録音を行うようになり,当時,その演奏は大きな評判になったものでした。

  1993年以降、国内盤も発売されるようになり、特にブラームスの交響曲の録音は、遅れてきた名指揮者ダヴァロスの代表的名演として国内でもかなりの評判だったとのこと。
 私は個人的にはメンデルスゾーンの若々しい演奏が大好きで、交響曲全集と真夏の夜の夢は今でも愛聴盤のひとつです。
クレメンティ/交響曲第1番ハ長調


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【打込音源紹介】フンメル/幻想曲「パガニーニの思い出」ハ長調,WoO.8(S.190)

Sequenced Music

Johann Nepomuk Hummel
Fantasy in C,"Recollections of Paganini",WoO.8
 
Sequenced by Mikio Tao
Sequencer:SSW9 Lite
Score creation:Music Pro Windows Plus
Sound:GARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 4/ARIA
 
 フンメルが1819年にワイマールの宮廷楽長に就任して以来、演奏会、行事の運営、書類の整理、文化人、音楽家の招聘と接待、作曲、ゲーテとの交流等、盛りだくさんの公私にまたがる活動と業務があったが、その中でも有名な音楽家の招聘に尽力したことで、最新の音楽と演奏を聴くことができる環境をワイマールで整えていったのである。そうすることでオーケストラの技量は上がり、さらにゲーテなど存在とともにより多くの文化人や芸術家がこの町を訪れるようになっていった。
 
 音楽家でいえば1829年の世界的ヴァイオリニスト:ニコロ・パガニーニの招待がその代表例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たったが、その際にフンメルはよく、ゲストの曲をモチーフにした即興演奏を披露したといわれている。

 今回の幻想曲「パガニーニの思い出」ハ長調,WoO.8(S.190)は、1831年に作曲されたとなっているが、当時はこの原型となるような演奏が即興でなされていたと思われます。

パガニーニに感化され作曲家は多く、生み出された楽曲もショパンやリストをはじめ非常に多く存在しますが、フンメルのこの作品はパガニーニの作品のポプリといえるもので、次々とパガニーニのメロディーが現れていきます

ショパンのように感傷的ではなく、またリストのように技巧的な曲でもなく、サロンで楽しむような作品になっています。 
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October 17, 2014 is Deathdate of Hummel.

October 17, 2014 is Deathdate of Hummel. 
He died on October 17, 1837.
DVC00536bis

Johann Nepomuk Hummel was born in Pressburg (now Bratislava) in 1778 into a musical family. An infant prodigy, he was taught by Mozart. In his late teens he was a leading virtuoso in Vienna, a rival to his friend Beethoven and mentored by Haydn, whom he succeeded at Esterhaza.

He became as famous as his friend and rival Beethoven. His music – in every genre bar the symphony – was enormously popular in Europe, but by the time of his death the dramatic romantic virtuosos, Liszt and Paganini were the vogue.

His music became less and less performed until he was a mere name by 1958, when his trumpet concerto was re–discovered. Recordings of some of his works – many scores still languish in museums – now reveal a wonderful, highly accessible, composer from the greatest age of classical music. The purpose of this website is to share and further develop this great discovery of recent times.

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Hummel Piano Concerto Op.85 Mov 3, Ingrid Marsoner, Thomas Rosner, Orchestre Symphonique Bienne

フンメルの生涯(旧掲載文) 4.後期の演奏旅行と晩年

●1820年代もまたフンメルは巡演する大家として多忙であった。遠くロシアまで行き、1822年に同地でジョン・フィールドに、1828年にポーランドでショパンに会い、またフランス、ネーデルランドも訪問した。1827年にフンメル夫妻は弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。この邂逅は最後の和解となり、フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの医師を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた。この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

01●1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。この演奏旅行は彼の成功の頂点であって、その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めた。1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務めたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。


 
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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

フンメルの生涯(旧掲載文) 3.ワイマール時代

elisabeth1●1814年頃に妻エリザベートは、ピアニストとして再び舞台に立つよう夫を説得した。彼女は機を見るに敏で、折からのウィーン会議のために開かれた多くの演奏会やパーティーでフンメルは貴族や高級官僚の前で演奏して一躍名を馳せ、それによって彼らの多くは国際的音楽マネージャーのような役割を果たすことになった。1816年春のドイツ演奏旅行は彼に新たな自信を与え、名声は不動のものとなった。しかし経済的安定は得られなかった。フンメルは家計を支えるために安定した専属の地位を探そうと決意した。同年末にシュトゥットガルトの楽長となって、希望がかなえられたかのように見えたが、素晴らしい礼拝堂と傑出したオーケストラがあるにもかかわらず、その地位は満足いくものではなかった。作曲の時間がとれず、また演奏旅行については常に許可を取る闘いを強いられた。彼はシュトゥットガルトの趣味が悲惨なほど低俗で、窒息しそうに感じていたし、オペラ劇場では貴族の経営陣が粗野なフンメルを嫌って画策し、不快な思いをさせられた。1818年11月にフンメルは辞職して、ワイマール大公の楽長となった。1819年1月5日付の新しい契約書は決定的に改善されていた。すなわち年3ヶ月の休暇が、ヨーロッパで演奏会がたけなわの春に取れるというものであった。さらにカトリック教徒の彼は、このプロテスタント宮廷で宗教音楽を監督するという義務が免除された。

dis0000●ワイマール時代は快適で実り豊かなものであった。フンメルは庭園付きの家という全く富裕な生活を営んだ。ゲーテを通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合って、まもなくワイマールを訪れる人々の人気の的となった。ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならなかった。彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであった。ここでも契約は有利なものであって、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。おそらくこうしたオペラ公演の成功によって、彼は1826年にヴェーバーの死去によって空席となったドレスデンのドイツ・オペラ監督候補に挙げられた。ワイマールでのその他の職務は極めて多忙であった。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、1829年のパガニーニがその例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなく、弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成であった。


DVC00535bis1●1820年代は個人教授と作曲に充分な時間を割くことができ、フンメルの最も実り多い時期の一つとなった。自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷やフリーメイソンの集会のためのカンタータ、出版業者たちのための序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などもある。しかし彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していたが、いずれにしてもその台本は興味を引かないものであったように思われる



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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

フンメルの生涯(旧掲載文) 2.ウィーン及びエステルハージ家時代

20070923_354692●フンメルの次の10年間は勉強、作曲、教授活動の期間で、公開演奏はごくまれにしか行われなかった。アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに声楽作曲法、美学、和声法、音楽哲学を学んだ。ロンドンで知遇を得たハイドンが1795年に第2回ロンドン旅行から帰国すると、彼にオルガンのレッスンを受けたが、ハイドンはオルガンを弾きすぎるとピアノ演奏の手に支障が出ると彼に忠告した。フンメルはこのころ収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。この時期のもっとも重要な出来事はベートーヴェンがウィーンに登場したことであり、それによってフンメルは自信喪失寸前にまで追い込まれた。とはいえ、ベートーヴェンとフンメルは、相互の弟子たちの間に党派的な争いがありながらも、長く波乱に満ちた友人関係を開始することになった。(先述のアルブレヒツベルガー、サリエリ、ハイドンの3人の師は、ベートーヴェンのそれと全く同じであり、その関係から出会いがあったものと思われる)


交響曲(プロローグ)●1803年にハイドンはフンメルをシュトゥットガルトの楽長に推薦したが、この地位にはワイマールの楽長であったヨハン・フリードリヒ・クランツが就いた。ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いを受けたが、結局1804年4月1日にアイゼンシュタットでニコラウス・エステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であって、ハイドンは名目上その肩書きを保持していたにすぎない。フンメルが採用されたのは候の宗教音楽への関心のためであったという説は、彼がこの分野で何の経験もなく、オーケストラ作曲家としてもほとんど実績がないことから、反論されてきた。彼が選任された一因としては、ウィーンの劇場と長くかかわっていたことが考えられるかもしれない。それにもかかかわらずフンメルはエステルハージ家の礼拝堂に仕え、この職務にあった期間に、知られているかぎりすべての宗教作品と劇作品の多くを書いた。



●フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。このハイドン関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対するねたみの一つの表れに過ぎなかった。そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。そこでの宗教曲および劇作品の上演のほかに、当時アポロザール・ホールの監督であった父を通して、毎年まとまった数のメヌエットやドイツ舞曲を発表した。つまり彼はエステルハージ宮廷との専属契約を全うしていないと思われた。1808年の降誕祭にいったん職を解かれたが、ハイドンの仲裁によると思われる再契約がなされ、1811年5月の契約の任期満了までこの職務に就いた。この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。

●1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。1813年には当時の有名なソプラノ歌手であったエリーザベト・レッケルと結婚し、2人の息子を得て、後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。このころベートーヴェンとの関係は不安定なものとなっていた。両者の不和は早くも1807年に起こり、ベートーヴェンのハ長調のミサ曲の上演の後、ニコラウス候の批判的見解にフンメルが暗黙のうちに同意したと思われた。また、エリーザベト・レッケルにベートーヴェンが関心を抱いていたかもしれないことが、結婚後に両者の亀裂を生じさせた可能性がある。とはいえ、接触がなくなったわけではなく、例えば1814年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きかった。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です  

フンメルの生涯(旧掲載文) 1.初期

3037793●フンメルは神童であった。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。4歳で楽譜を読むことができ、5歳でヴァイオリン、6歳でピアノを演奏した。8歳のとき、弦楽器演奏家でもあり、指揮者でもあった父ヨハネス・フンメルがアウフ・デア・ヴィーデン劇場(モーツァルトの歌劇『魔笛』やベートーヴェンの第9交響曲などの初演劇場)の音楽監督となり、一家がウィーンに移り住んだが、父の地位は、音楽現に触れるという貴重な経験を息子に与えることになった。

●フンメルはウィーン到着後すぐにモーツァルトに師事して、ピアニストとしての長足の進歩を示した。彼の父によると、モーツァルトはこの少年から強い感銘を受け、無償でレッスンするほどであったようで、当時よくあったように、彼を同居させた。2人はかなり意気投合したと思われ、しばしば一緒にウィーンの町を歩き回った。フンメルの最初の公開演奏は1787年にモーツァルトの主催する演奏会においてであったといわれているが、彼の生涯のこの時期の証拠資料には矛盾がある。1788年にモーツァルトはレッスンを続けられなくなり、音楽家としての独り立ちを勧めた。それによって、フンメル父子は4年に及ぶ演奏旅行を行うこととなった。プラハに立ち寄ったときにドゥシェックやトマシェックと知り合い、その後ドレスデンへ赴いた。同地で1789年3月10日にフンメルはピアノ協奏曲を1曲と、<リゾンは森で眠っていた>の主題に基づくモーツァルトの変奏曲、自作の変奏曲(これは最初期の作品であったに違いない)を演奏した。後にフンメルの父は誤って、モーツァルトがこのとき聴衆の中にいて、この少年は美術におけるラファエッロのようなピアニストになるだろうと叫んだ、と言っている。しかしモーツァルトがフンメルの演奏を聴いたのは、実際には約10週間後のベルリンでの演奏会においてであった。いずれにしても、幸先のよい幕開きで、それに力づけられて父子は長期にわたる演奏旅行を企て、ベルリン、マクデブルク、ゲッティンゲン、ブラウンシュヴァイク、カッセル、ヴァイセンシュタイン(同地でフンメルは天然痘に感染)、ハノーヴァー、ツェレ、ハンブルク、レンツブルク、フレンスブルク、リューベク、シュレスヴィヒ、コペンハーゲン、フューン島のオーデンセで聴衆の前に姿を現した。これらの演奏会は概して賭けに近い冒険であって、ヨハネス・フンメルの日記は何度か客の入りが悪いときもあったことを示しているが、全体的には満足いくものであったと思われる。

●1790年春に父子はエディンバラに到着した。同地では大きな反響を呼び、生計を支えるのに充分な人数の弟子を得て、2人で教え、フンメルが英語を勉強するという余裕も生まれた。3ヶ月後に彼らは南下し、ダーラムとケンブリッジで演奏会を開き、同年の秋にロンドンに到着した。確認できる同地での最初の演奏会は1792年5月5日にハノーヴァー・スクエア・ルームズにおいてであって、このとき彼はモーツァルトのピアノ協奏曲と自作の「新しいソナタ」を演奏した。なおイギリス生まれのF.L.ハメル(Hummel)という神童がいて、この時期に関する資料に混乱が見られる。製造業者で音楽に造詣の深いウィリアム・ガードナーは、ずっと後になってフンメルについて「若きモーツァルトを別にすれば、イギリスを訪れた最高の少年演奏家」と書いた。フンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。

●フンメル父子は、2年間のロンドン滞在後は、さらにフランスかスペインに演奏旅行を続けようと計画していたが、革命による混乱に妨げられ、1792年秋のある時点でオランダに向けて出発した。同地で2ヶ月間、毎日曜日にハーグのオラニエ公の宮殿で演奏するが、フランス軍の侵攻に遭遇し、やむなくアムステルダム、ケルン、ボン、マインツ、フランクフルト・アム・マイン、さらにバイエルンを通ってリンツに行き、そこでフンメル夫人(母)と合流した。1793年初頭までに一家はウィーンに戻った。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です 

10月17日はフンメル命日

最近新譜が少ないなぁ。。。
本日10月17日は、フンメルの命日。

ヨハン・ネポムク・フンメル

Johann Nepomuk Hummel

1778年11月14日 ブラチスラヴァ生
1837年10月17日 ワイマール没
ウィーン古典派最後の巨匠。ヴィルトゥオーゾ・ピアニスト、教師、指揮者。存命中はベートーヴェンと並ぶヨーロッパ最大の作曲家の一人と評されていた。

1月23日(1752年)は、クレメンティの誕生日

今日はフンメルのピアノ演奏の師であるクレメンティの誕生日。同じ師匠のモーツァルトのライバルと言われた音楽家です。

今回はピアニストで、多数の著作もある久元 祐子(ひさもと ゆうこ)さんのWebページの記事が判り易いので紹介・転用させていただきます。
ちなみにモーツァルトとの関係として書かれています。フンメルとの関わりは過去の記事をご参照ください。

以下、久元 祐子 公式サイトより
「モーツァルト」の項、「同時代の作曲家」〜クレメンティ〜 の記事紹介。

ロンドン楽壇の大御所
ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752 - 1832)は、ローマの銀細工師の息子として生まれました。9歳の時には早くもオルガニストとなりましたが、14歳のときイギリスに渡り、ロンドンでチェンバロなどの鍵盤楽器奏者、作曲家としてデビューしました。クレメンティは、ピアノのためのソナタ、交響曲、協奏曲、室内楽を書きましたが、作曲のみならず、楽譜の出版、ピアノの製造など幅広い音楽ビジネスの世界で成功を収めました。
自分が作曲した作品を楽譜として出版し、できるだけ沢山の人に弾いて貰おうと考えたのでしょう。やがてピアノの製作にも乗り出します。ピアノを大いに普及させて、彼自身の作品を彼自身の出版社で出版し、彼自身の会社の楽器で弾いて貰うという、相互に密接に関連した仕事のやり方を作り上げたわけです。できるだけ沢山の人に弾いて貰うためには、初心者にも簡単に弾ける作品も必要でした。
また、ピアノを学ぶ人のためのエチュードの作曲にも熱心でしたが、とりわけ全部で100曲から成る《グラドゥス・アド・パルナッスム》は、近代的なピアノ演奏技術を確立した、いわば彼のピアノ演奏思想を集大成したとも言える作品です。コンサートを定期的に開催する協会も設立し、文字通りロンドン楽壇の大御所として、長い音楽人生を送りました。
 
クレメンティの作品
クレメンティのたくさんのピアノ曲の中でとりわけ有名な作品が、「ソナチネ」です。ソナチネ・アルバムには、1798年に出版された作品36の6曲のソナチネが収められています。とりわけその第1番は、ピアノを学習される人なら誰でも一度は練習すされる曲でしょう。
しかし、クレメンティは、ソナチネだけの作曲家ではありませんでした。クレメンティはチェンバロやピアノのために作品を書いた時期は、半世紀以上にもわたっています。
また、その価値も決して二流ではありません。1784年に作曲されたと思われる、ヘ短調作品13の6のピアノ・ソナタは、ホロヴィッツの名演で知られまするが、ベートーヴェンの世界を先取りしているように思えます。全部の楽章が短調で書かれたこのソナタは、全体を厳しい緊張感が包み、同時に豊かな響きとしみじとした情感に溢れています。ホロヴィッツはクレメンティのピアノ・ソナタが好きだったようで、このほか、作品33の3、作品34の2などの作品を録音しています。
モーツァルトとの出会い
ウィーンの王宮
クレメンティモーツァルトとの出会いはただ1回だけで、それは不幸なものでした。
1781年の12月24日、皇帝ヨーゼフ2世は、王宮(右の絵)宮殿の一室でモーツァルトクレメンティを引き合わせました。モーツァルトがまだウィーンに出てきたばかりの頃でした。モーツァルト自身の手紙によると、クレメンティはソナタを1曲弾き、モーツァルトは何か変奏曲を弾き、その後、かわるがわるそのとき与えられた曲を弾いたりしたようです。
競演が終わった後の二人のお互いの印象は対照的でした。モーツァルトはお父さん宛の手紙の中で、「クレメンティは、素晴らしいチェンバロ弾きだが、単なるいかさま師で、趣味や感情のひとかけらも持っていません。要するに彼は単なる機械的演奏家なのです。」と手厳しく批判しましたが、クレメンティの方は、モーツァルトのこのときの演奏について後に「私は、あのときまであれほど魂のこもった優美な演奏を聴いたことがなかった」と回想しています。
クレメンティがこのときひいたソナタは、 作品47の2 でしたが、モーツァルトはこの曲の第1楽章のテーマを拝借し、オペラ魔笛の序曲を作曲したのでした。この引用について、クレメンティを嘲り、皮肉ったのだという見方もあります。
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以上 wikiの原稿より面白いですよね。
では、最後に彼の「大交響曲」を聴いてみてください。ピアノ教師だけではない彼の意外な力量をご理解頂けるでしょう。
この交響曲は、ハイドンの来訪時に対抗するかのように別の連続コンサートで演奏されたようです。

Muzio Clementi - Symphony No.3 in G-major "The Great National"

 
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【新譜紹介】F.リース/ピアノ協奏曲集第5集'第2番、第9番他)-ヒンターフーバー(ピアノ)他

クリストファー・ヒンターフーバー(ピアノ)/ウーヴェ・グロッド(指揮)のコンビが足かけ7年に渡って発表してきた唯一のリース(1784-1838)のピアノと管弦楽のための作品集もこの第5集で完結となります。

572742 第5集の収録曲は、

ピアノ協奏曲第2番変ホ長調 Op.42
序奏と華麗なるロンドOp.144
ピアノ協奏曲第9番ト短調 Op.177
 リース:ピアノ協奏曲集

 1806年に書かれた第2番はわずか22歳の頃に書かれた作品で、ベートーヴェンから独り立ちして5年後の作品。
 古典派ソナタ形式のしっかりした構成で書かれ、オーケストレーションはベートーヴェンの影響が大きいものの、その作風はフンメルなどと同様にヴァルトーゾピアノが活躍するブリリアント協奏曲です。第三楽章はどこかの民族舞踊のメロディーといろんなメロディーが交差する楽しい作品です。
 1832年に書かれた第9番の協奏曲は、よりピアノ独奏者の技量が問われる内容で、既にこの後のヒラー、タールベルク、リストといった世代の雰囲気があります。古典派というよりもロマン派の作曲家の協奏曲と言えます。もうベートーヴェンの影はなく、長く巨匠として活躍し、作品も多く出版してきた実績からくる自信に充ち溢れたリースの世界が広がっていきます。その分、初期の作品にみられた集中力というか構成力のメリハリというものが薄れ、より自由な流れと展開を繰り広げていきます。口ずさむつもりでの覚えやすさは初期の作品の方があります。また非常にワクワクする部分も沢山あるのですが、全編聞き終えた感想は「フンメルやウェーバーよりも地味かな」です。*あくまでも個人的感想です。ただし同じような感想をもっている方もいらっしゃいました。
 

 さて、これで全8曲のピアノ協奏曲とピアノと管弦楽の作品がすべて聴けることとなりました。今回の作品が第9番なのに8曲?と気付いた方、素晴らしい。

 実はtwitterで情報頂いている方からの指摘で初めて知り調べたのですが、フェルディナント・リースについてのwikiの記載には誤りというか、誤記があります。(kiriさんありがとうございます)
フェルディナント・リースFerdinand Ries1784年11月28日 - 1838年1月13日)はドイツボン出身の作曲家ベートーヴェンの弟子であり、師の回想録を出版した。主な作品には8つの交響曲ヴァイオリン協奏曲、9つのピアノ協奏曲、室内楽曲などがある。一部は録音されており、古典派と初期ロマン派の間の様式を示している。
 この9つのピアノ協奏曲というのが間違い。で実際このNAXOSのシリーズでも今回のピアノ協奏曲第9番と表記されていますが、過去のシリーズを拾うと第1番がないことに気付くはずです。

 実はリースの協奏曲の番号付けは下記のようになっています。
Concerto for 2 Horns in E flat major WoO 19 (1811)
Concerto No. 1 for Violin and Orchestra in E minor op. 24 (1810)
Concerto No. 2 for Piano and Orchestra in E flat major op. 42 (1808)
Concerto No. 3 for Piano and Orchestra in C sharp minor, op. 55 (1812, pub. 1826)
Concerto No. 4 for Piano and Orchestra in C minor, op. 115 (1809, pub. 1823)
Concerto No. 5 for Piano and Orchestra in D major, op. 120 'Concerto Pastoral' (c.1816, pub. 1823)
Concerto No. 6 for Piano and Orchestra in C major, op. 123 (1806, pub. 1824)
Concerto No. 7 for Piano and Orchestra in A minor, op. 132 'Abschieds-Concert von England' (1823)
Concerto No. 8 for Piano and Orchestra in A flat major, op. 151 'Gruss an den Rhein' (1826)
Concerto No. 9 for Piano and Orchestra in G minor , op. 177 (1832/33)
  そう、協奏曲第1番はヴァイオリン協奏曲なんです。珍しい番号付けですね。
 
 今、NAXOSでは「運命と呼ばないで」というリースのベートーヴェンに弟子入りしていた頃の回想録を元にした漫画を連載しています。ついでなのでリースについても説明を加えておきます。

220px-FerdinandRies
1784年11月28日(受洗日)、ボン生まれ。1838年1月13日、フランクフルトにて没。音楽一家の出身で、父親はヴァイオリン奏者のフランツ・アントン・リース。幼時からピアノ、弦楽器などを巧みに演奏し、音楽の才能を発揮するが、良い教師に恵まれず、 1801年、ウィーンに渡ることを決意。同地で、父親のかつての弟子であった同郷の音楽家、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンに師事。1804年には同地でデビューを果たす。
師のもとを離れてからは、ロシア、スウェーデンなどで研鑽を積んだのち、イギリスに渡り、この地でブレイク。ロンドンに居を構え、ピアニスト・作曲家・指揮者として活躍しつつ、ベートーヴェンの作品のロンドン普及にも貢献する。1824年に引退し、故郷ボンに戻ったのち、フランクフルトへ移る。音楽祭やオーケストラの運営などに携わりつつ、家族とともに平和な余生を過ごす。作品は交響曲8曲を初め、室内楽、器楽曲、協奏曲、声楽曲、オペラなどあらゆるジャンルに200曲程の作品を残した。

 
これを機会に、是非、フェルディナント・リース、聴いてみてください。
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【打込音源紹介】“ヒンメル”の作品を“フンメル”が編曲。

【打込音源紹介】
 今回は、「選びぬかれた序曲の四重奏曲編曲集」から、ヒンメルの序曲による四重奏,S.112。

 フリードリッヒ・ハインリヒ・ヒンメル( 1765年11月20日 - 1814年6月8日) は、今ではほとんど知られていないドイツの作曲家。
フンメルが編曲集に取り上げているということは、出版社からの意向もあるので、当時はそれなりに知られていたオペラの序曲で立ったと思われますね。

ヒンメルは、ブランデンブルク、プロイセンでトロイエンブリーツェンで生まれ、もともと音楽を始める前にハレで神学を学んでいた。
彼の音楽への勉強によりのめり込むきっかけとなったのは、ポツダムの王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世に雇われてピアニストとして活躍した時期でした。
 
彼はイタリア語学校のドイツの作曲家ヨハン・ゴットリープ・ナウマに学び、本格的にオペラ作曲家への道を進むことになりました。歌曲も多く作曲されています。


この曲はまず録音される可能性が少ないと思いますが、フンメル編曲のおかげで、どんな曲かが分かります。なかなかしっかりした構成の楽しい楽曲です。

Hummel,Johann Nepomuk/Arrangement from Himmel's Overture,S.112
Select Overture arranged for Piano, Flute, Violin and Cello
Sequenced by Mikio Tao
Sequencer:SONAR4
Score creation:Music Pro Windows Plus
Sound:Roland HQ Synthesizer Orchestral

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12月5日 モーツァルト命日〜フンメルは正当な後継者

フンメルの生涯の話を書き直しましたが、まだ訳が間違えて理解しているところもあるかもしれません。
また機会をみて改定しようと思います。

今日はフンメルの師匠、モーツァルトの命日ですね。世界各国でレクイエムが演奏される日です。

個人的にレクイエムの今現在での一番は、リリング指揮の1991年録音のレヴィン版の方。
キリエ ニ短調 K.341がついているけど、両曲ともオーソドックスな中庸なテンポ、演奏。
ただし、レヴィン版のラクリモーザとアーメンフーガの作り方が、モーンダー版よりジュスマイヤーの作った部分を利用している点で安心感がある。

リリングには、1979年のジュスマイヤー版もあるけど、これも中庸な演奏だった。
ジュスマイヤー版では、デイヴィスのロンドン交響楽団は激しさが好きだったが、1991年の重厚なバイエルン響との演奏がすきかな?

さて、フンメルの師匠はたくさんいます。一番最初は父親。二人目がモーツァルト。ただし2年間住み込みで生活をともにし、モーツァルトの代わりにオペラのリハーサルの伴奏を務めたり助手的な役割もしていました。
その後には、クレメンティ、サリエリ、ハイドン、アルブレヒツベルガー... 当時の一流どころに学んでます。

作風は、ハイドンに近い教会音楽を別にすると、一番の影響力はやはりモーツァルトとなります。

ロマン派に影響与えるメランコリックでドラマチックが楽曲も作っていますが、根本は死ぬまで職業作曲家で古典派に属していると言えます。よくロマン派の作曲家として紹介している書物や記事を見かけますが、断じて言えます、彼は古典派です。まぁロマン派自体が古典派の形式の上に成り立っているので、厳密に区別する必要はないんですが....

さて、古典派のモーツァルトと同時代の音楽も沢山聴ける時代になりました。一聴するとモーツァルトと言われても解らないか曲もありますが、いろいろ聞いた中ではやはりフンメルが一番近い雰囲気を継承しています。

今日はそんな彼の初期の作品を

ヴァイオリンとピアノの為の協奏曲ト長調,Op.17を聴いてみてください。モーツァルトの新発見曲と言われても信じてしまいそうになりますね。 


この曲の録音は結構あります。お勧めはこれかな?
華やかなOp.110の協奏曲とカップリンクで、演奏も録音も最高です。ハワード・シェリー(ピアノと指揮)/ロンドン・モーツァルトプレイヤーズ


もう一曲、小ピアノ協奏曲ト長調,Op.73(原曲はマンドリン協奏曲)も、モーツァルトの10番代の協奏曲の雰囲気があります。最近のお勧めは、オリジナル楽器での演奏。キラキラした真珠のフンメルです。 アレッサンドロ・コンメラート(フォルテピアノ)/ディディエル・タルパイン(指揮)


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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−11.最後の10年と死

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 1828年に大公カール・アウグストが無くなってからは、実質上は新大公としてカール・フリードリッヒが統治していたが、フンメルの崇拝者でピアノも学んでいたフリードリヒの妻マリヤ・パヴロヴナ公妃が、フンメルへの多くの支援を強化されることとなった。フンメルとは何かと馬が合わなかった管理官のシュトロマイヤーが引退を余儀なくされ、先代の愛人的存在でワイマールで長期滞在していたソプラノキャロライン・ヤーゲマンも権力を失っていった。こうした状況かになってもまだフンメルは音楽家たちの生活改善、環境の整備についての提案と要求をし続けていた。

 また、1828年という年は歴史的な出会いもあった。この年の演奏旅行は比較的短期間であったが、ベルリンからワルシャワ方面へ向けてのみのであった。このワルシャワで若い才能豊かな青年・ショパンと出会っているのだ。
chopina ショパンは、自分を評価してくれている地元の人たちの意見と今の自分の音楽が本当に現代の多くの人たちに受け入れられるのかどうかと悩んでもいる時期であった。そしてフンメルの演奏を聴いて確信できた。自分は正しい、と。
 フンメルはこの青年の才能を高く評価し、「今のまま自分を信じて続けなさい」と言った。ショパンのその後のピアノ協奏曲にはフンメルの影響が大いに認められる。フンメルとショパンは後年ウイーンでも再会しているが、この時はフレンドリーなフンメルの態度を友人に綴っている。
「フンメルじいさんはとても人懐っこい良い人です」

 1829年は演奏旅行は行わず、家族でカールスバートのスパで休暇を取って、イギリスへの彼の訪問の翌年に向けた準備をはじめた。イギリスでは1822年を初めてとして何度もフンメルを招待していた。フィルハーモニック協会の会員の間で、フンメルは巨匠としての評価が高く、知名度は高かったのだ。またこの年も招待状が届いていた。1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となったため、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行ったのである。
 
 フンメルはロンドンに行く前にパリに寄って2回ほどコンサートを開催したが大変な成功を収めた。ロンドンでは、公演に先駆けて、同郷の友人たちでもあるモシェレスやカルクブレンナーが事前告知を大々的に行ったため、歓迎ムードに包まれた。様々なゲストが参加したフンメルのコンサートは評論家を唸らせた。また、当時の有名ソプラノ歌手:マリア・マリブランからの依頼を受けて作曲した、ソプラノとオーケストラの為のチロリアンのテーマによる大変奏曲(Op.118)を初演し、大喝采となった。
 フンメルはロンドンに3カ月滞在したが、その間女王のために演奏したり、モシェレスの収益のためにゲスト出演したりと駆け回った。
■「チロリアンのテーマによる変奏曲」Op.118
 

 今回の演奏旅行がフンメルのピークであった。以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。その時はパフォーマンス的にも人気絶頂にあったパガニーニと滞在が重なったこともあるが、既にリストや弟子のタールベルク等の若い世代のピアニストが「ショーマン」的にも成功を納めていたのである。またフンメルの技術が衰えたという指摘もあったり、楽曲が古典的であるため、古臭い古典派の音楽家(リスト談)、という印象が強くなっていったようである。
Hummel009 それでも1833年のロンドンへの訪問は、ドイツのオペラ楽団の指揮者としての訪英となった。ここでは懇意にしてくれていたイギリス国王夫妻の為の記念演奏会でモーツァルトやウエーバーのオペラを指揮した。お礼としてウインザー城にも招待された。
 自分の演奏会は計画していたよりも人が入らないため、多くがキャンセルされてしまった。それでも1回のコンサートとフィルハーモニック協会のために、クラーマーと共にゲスト出演し、新作のピアノ協奏曲(Op.posth.1)を披露したりもした。しかし、モーツァルトの幻想曲を連弾でひく際には、調子が悪くなり、途中で止めてしまうという悲しいハプニングもあった。

■最後の出版作品となった楽曲
ピアノとオーケストラの為のロンド「ロンドンからの帰還」,Op.127
 

 この1833年のツアーが演奏家としての最後のものとなった。しかし、フンメルがワイマールでの職位があり、収入が減るということはなかった。しかし健康はだんだんと蝕まれていって、1834年以降は殆ど療養生活にはいっている。調子のいい時は庭いじりしたり、ピアノを弾いたり、訪問者への記念帳にサインしたり、という生活だった。ただし必要なワイマールでの職務は続けていた。
Hummel3 1837年3月、ピアニストとなっていた長男のエドヴァルトが父のピアノ協奏曲を弾いたコンサートに参加した。これがフンメルの最後の演奏会となった。
 フンメルの健康は夏に入るとさらに悪化していき、寝たきりになってしまう。そして家族に看取られながら1837年10月17日に亡くなった。

 彼の死の三日後に葬儀が執り行われたが、そこではフンメルのカンタータが演奏され、追悼式典ではモーツァルトのレクイエムが演奏された。彼の死のニュースはヨーロッパ中を巡ったが、ベートーヴェンの死と比べると静かなものだった。これは古典派音楽の終わりを告げるものであった。

5f431 ワイマールはフンメルの功績をたたえ、遺族に多額の年金を保証した。またフンメルは家族に膨大な財産を残した。これは師匠のモーツァルトの生活を知る人の反面教師であったのだろうか? その性格とともに質素な生活を好んで無駄遣いせず、計画的な資産管理を行ったためである。おかげで未亡人となった妻:エリザベートは何不自由することなく、夫との楽しかった過去を思い出しながら、フンメルの死後45年も長生きした。

 フンメルの死後、彼の音楽は急速に忘れられていった。19世紀後半、ロマン主義と新しい音楽の波に追いやられ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという偉大過ぎる巨匠の陰に埋もれていったのである。  しかし、近年のフンメルの再評価は、様々な発見をもたらすようになった。彼の残した音楽の大半を聴くことができるようになった我々は、貴重な時代を生きているといえよう。
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−10.ベートーヴェンとの別れ

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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Portrait-of-Beethoven-by-Arthur-Paunzen
  フンメルは1826年にウィーンで楽友協会会員に選出された。また、長年の友人でもあり、若い時にはライバルでもあったベートーヴェンの体調が優れず、翌年早々には危ないのでないかという噂を聞いていたため、1827年にベートーヴェンとも旧知の仲である妻・エリザベートと一番弟子のヒラーを連れてウイーンに行き、ベートーヴェンを見舞った。
 
この時の様子は、ヒラーの自伝・回想録に描かれている。それによると、1827年3月8日から23日までの間に4回ベートーヴェンの家に訪れている。過去の25年に渡る間には、様々な諍いがあった。生き方の違い、作曲法の違い、弟子たちの争い、誤解による絶交... しかし、この最後の会談ですべてを忘れる厚い抱擁があったという。妻・エリザベートは、ベートーヴェンを着替えさせ、体を拭いてあげたりするなど献身的な看病をした。筆談ではあったが、ベートーヴェンはフンメルに伝えた。
 
「ヨハン、君は幸せ者だね。成功して立派な弟子もいる。
そして何よりこんな美しい素晴らしい奥さんがいるんだから」
 
ベートーヴェンはフンメルの楽友教会の主催する慈善演奏会の自分の席を確保するように頼み、自分が死んだら記念演奏会にフンメルが出演して欲しいとも述べた。さらにエリザベートには、自分の髪を切って持っていて欲しいと伝えた。そして、フンメルには是非とも著作権の活動を頑張ってほしい、言い残した。
余談【ベートーヴェンの遺髪】
「鉛中毒説」の根拠となったベートーヴェン毛髪の研究は、1994年、ベートーヴェン研究家アイラ・ブリリアント氏とアルフレッド・ゲバラ氏がロンドンのサザビーズで毛髪を落札したのが始まりです。その後DNA鑑定の末、彼の病気に関してさまざまなことが判明したのですが、この毛髪を巡る歴史的な展開は「ベートーヴェンの遺髪」(白水社)という本にまとめられています。2人が遺髪を落札して、鑑定を依頼する話とは別に、170年の間、遺髪がどういう経路を辿って競売に付されたのかを探っています。
かいつまんで紹介しますと、1827年、ベートーヴェンが他界した時、弔問に訪れた音楽家のフンメルと弟子のヒラーが、遺髪を切り取りロケットに収めたのが「運命」の始まりです。ヒラーが死の前に息子のパウルに譲り、1911年、パウルが形見のロケットを修理に出した後、遺髪は数奇な運命を辿っていきます。その後遺髪が確認されたのは、ナチのユダヤ人迫害が強まった時代、デンマークの港町ギレライエの町医師のところでした。ユダヤ人であったヒラー家とナチ時代の迫害、そしてデンマークへの移動と、ベートーヴェンの意思とは関係なく、遺髪は歴史の流れに翻弄されました。最後に、ベートーヴェンが生前弟子に託した中で、自分の病気の解明というのがありましたが、この遺髪のおかげで、少なくとも彼を終生悩ませた下痢や腹痛に関して大方の原因が解明されました。(「作曲家の病歴2. ベートーヴェン」より)

23日の最後の訪問後の3日後、ベートーヴェンは息を引き取った。

フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、またシンドラーとベートーヴェン友人たちが主催した追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行った。
フンメルは第七交響曲のアレグレットからの変奏曲とオペラ『フィデリオ』のなかの囚人の合唱に基づく幻想曲を演奏したが、これは非常に多くの人感動を与えた、とヒラーは書き残している。
■ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番より第二楽章 

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−9.幸福なワイマール時代(3)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは執筆活動も行い、「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」等を執筆したが、そうした活動と絶え間のない弟子へのレッスン等に非常に多くの時間を取られるようになり、徐々に自作の作品の創造は減っていくことになる。
 もう一つは先にも触れた音楽家の著作権の保護の運動である。ベートーヴェンも頭を悩ましていた問題であるが、海賊版は作家に一銭の収入ももたらさない。それを撲滅するための運動であった。こうした活動を行った重要な音楽家としては史上初となる。

 こうした公務、執筆、著作権の活動があり、1824年は演奏旅行には出かけず、ワイマールに留まった。この年翌年のツアーの為の計画を練っていたフンメルは、長年の経験と知恵を絞り、行く都市に先行して大々的な宣伝活動を行うように広報活動をすることとしました。この役目にフンメルの崇拝者であるパリ音楽院監督だったケルビーニが買って出た。



Moscheles 当時のパリは、モシェレスカルクブレンナーらのようにドイツやイギリスからの若いピアニスト、その他多くの国と地域から演奏会に訪れる人たちで溢れる音楽界の華やかな中心都市となっていた。フンメルはそのパリに妻エリザベートと長男、弟子
Kalkbrenner
のヒラーを伴って、1825年にやってきた。4月にはラサールエラールで4回の公演を成功させた。ここでフンメルは実際には1814年に作曲されたピアノ協奏曲(第4番)ホ長調『告別』,Op110を新作として発表した。ただし、オーケストラは手直しし、トロンボーンの追加など改定した。ピアノパートもより華やかに、テクニカルに改定された。また、現在の原曲の構成を拡大し、最終版では1/5程がこの時期に追加された部分である。

 この年のパリでの演奏会は大きな賞賛を生み、コンサートのチケットの争奪戦は記録的なものだった。こうした功績から、翌1826年には現在でもフランスの最も名誉ある賞とされる『レジオンドヌール勲章』の対象者として、若いリストと争われました。聴衆はフンメルに充分な資格があるという意見が多かったため、受賞となった。
 こうした演奏旅行で得た実績と名声は各国で賞賛され、彼の肩書には、ワイマール白隼勲章、フランス学士院、ソシエテ・デザンフォン・ダポロン、ジュネーヴ音楽協会、オランダ音楽振興協会、ウィーン楽友協会の会員、という文字が並ぶ。またロンドンのフィルハーモニー協会の最初期の名誉会員にもなっている。
■ピアノ協奏曲第4番ホ長調,Op110『告別』より
 


 ワイマールでも様々な交流を行っている。ゲーテとは定期的に会い、ゲーテの家に呼ばれることも多かった。彼の家で私的な演奏会もしばしば行われており、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈している。
 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては、下記があげられる。
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB) 
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声) 
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失 
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失 
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum 

 1825年、旅に出なかった年、ワイマールに友人でもあるモシェレスを呼び寄せて、演奏会を企画した。その後、フンメルはわざわざ訪問してくれたモシェレスのために壮大な晩餐会を主催し、大公妃の前で二人で連弾も披露した。
 
 こうして、フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなしたことは前回述べた)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に演奏に、と活躍して町中から愛される存在であった。

 ゲーテと共にワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となっていった。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−8.幸福なワイマール時代(2)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは、毎年の休暇を利用してヨーロッパ各地への演奏旅行を計画した。
 1820年は、プラハからウイーンへの演奏旅行で、ここではフンメルの以前の作品(未出版で知られていない)作品を演奏した。
 1821年に彼はベルリンへ行き、プロイセン王フリードリヒの前で御前演奏をしている。さらにこの都市では楽長を務めていたオペラ作曲家のスポンティーニと交流を持った。
479px-John_field 1822年、フンメルは彼はロシアへの演奏旅行に出かけ、サンクトペテルブルグとモスクワ等を訪問した。ここではアイルランド出身でクレメンティの弟子でもあったピアノのヴァルトーゾ:ジョン・フィールドと交友を深め、連弾して楽しんだりした。フンメルはフィールドのノクターンに感化され、フィールドはフンメルの華やかな二重トリルやパッセージなどに影響されることとなった。 1823年には、イギリスへ渡り、ロンドン公演ロイヤルコートでのパフォーマンスで大熱狂の嵐となる。

 
 ロンドンからの帰りはオランダ経由となったが、様々な主要都市で自分の作品の海賊版が出回っていることにショックを受け腹を立てた。これがきっかけでフンメルは著作権の確立を目指して活動していくことになった。



 ワイマールのような芸術や音楽に理解のあるところでも問題は起きていた。当時ワイマールの管理官だったカール・シュトロマイヤーには、多くの問題点を提出している。しかし一方で、フンメルは精力的に劇場監督として舞台作品を取り上げ、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられていた。フンメルによりレパートリーは変わり、モーツァルトをメインとして、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども取り上げられるようになっていった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。
 また、有名な音楽家の招聘にも尽力し、最新の音楽と演奏を聴くことができる環境をワイマールで整えていったのである。 

Niccolo_Paganini01 1829年の世界的ヴァイオリニスト:ニコロ・パガニーニの招待がその代表例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなくても(弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成)、大きな技量を蓄えていくことができたのである。



 ワイマールは、プロテスタントとカトリックの両方の教会・信者が存在したが、​​フンメルは新たに教会音楽を作曲することはなかった。ただ、エステルハージ時代の多くの教会音楽を出版している。
 作曲活動としては、自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷や自分が在籍したフリーメイソンロッヂの集会のためのカンタータ、出版業者からの依頼によって様々な作曲家の序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などを受注した。この辺りはベートーヴェンとは違い、フンメルはあくまでも職業作家であったと言えよう。
【打込音源紹介】
■フンメル「選び抜かれた序曲の四重奏編曲集,S.107〜130」より
グルック(フンメル編曲) 歌劇『:「トーリードのイフィジェニー」序曲


 1820年代後半からは、大きな仕事に取り組むことで、自作の新作は激減していった。彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していた。ただし、いずれにしてもその台本はフンメルの興味を引かないものであったようである。「ピアノ奏法の理論と実践詳論」は1828年に出版されるや否やヨーロッパ中でバイブルとして普及していった。

 もう一つは、悪徳出版社や海賊版の徹底排除に関する運動で、これは結果的に音楽の著作権に関する史上初めての運動、ということになるであろう。フンメルは海賊版によって、どれだけ作家たちに入るべき収入が失われていったかを身に染みて知っていたのである。この件はベートーヴェンらとも書簡を通して対話していった。
 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−7.幸福なワイマール時代(1)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは1817年の年末、1756年以来、ワイマールで楽長してきたバッハの名づけ子でもあるのミュラーが亡くなって以来、同職は空席のままとなっていた事を知った。当時のワイマール公国は、芸術的分野の保護・推進に手厚く、評判が高かった。かのヨハン・セバスチャン・バッハも18世紀の前半にはここで活躍していた。そして、エルンスト・アウグスト2世がこの宮廷を納めていた。

220px-Karl_august_von_sachsen-weimar 夫の死後、公爵夫人アンナ・アマーリア(エルンストの未亡人)が彼女の幼い息子カール・アウグストに代わって統治をするようになる。アンナは、作家で哲学者のクリストフ・マルティン・ヴィーラントの『黄金の鏡』を気に入り、1772年に2人の息子の教育係としてヴィーラントを招いた。教育係としての役職は1775年まで続いたが、それ以降も彼はヴァイマルの宮廷に仕えることになった。そうした教育のおかげで息子カールも教育・文化・芸術の発展に熱心に取り組んだのである。

250px-Christoph_Martin_Wieland_by_Jagemann_1805 カールの統治が始まって最初に行った事の一つに、二年前から面識があり、非常に尊敬していたヨハン・ヴォルフガング・ゲーテを、ワイマール公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も勤めた)に任命したことだ。1775年にゲーテがワイマールに来て以来、シラー(1787年にはワイマールに定住)やヘルダーといった、後の世にも名を残すことになるドイツ文学の巨人がワイマールを訪れるようになり、ドイツ古典主義文学の牙城になり一大黄金期を迎えたのである。 
 そしてカールの長男カール・フリードリヒはサンクトペテルブルクでロシア皇帝パーヴェル1世の娘マリヤ・パヴロヴナと結婚した。彼女は音楽を愛しており、音楽の分野でも著名な音楽家を集めたり劇場が充実していくなど、さらに文化芸術都市の発展に貢献したのである。


 フンメルが赴任してくるのは、この時代である。知名度、実績、作曲家・演奏家としての能力、そしてモーツァルトの直弟子で後継者....。1819年の初頭、フンメルにとっては成るべくしてなったワイマール宮廷の音楽監督である。ここでの契約はフンメルにとってもエステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。もちろんここで彼がしなければならない事は、演奏会、行事の運営、書類の整理、文化人、音楽家の招聘と接待、作曲、ゲーテとの交流等、盛りだくさんであったが、彼は大きな庭付きの家を与えられ、快適な家庭生活を満喫できる環境も与えられた。彼は生産的な音楽活動と、家族を守こと、という大きな希望を叶えることができたのであった。

 音楽愛好家の皇妃マリヤ・パヴロヴナは真っ先にフンメルに弟子入りしピアノを習った。その後、ゲーテと共にフンメルを訪れる音楽家が増えていくようになる。ツェルターやその弟子のメンデルスゾーン姉弟は、何度も訪れている。弟子入りしてきた本格的な音楽家は、ルイーズ・ファランク、フェルディナント・ヒラー、アドルフ・フォン・ヘンゼルトらがいた。シューマンなどもフンメルに師事するか悩んだらしい。

*余談*ウイーン時代にも多くの弟子を育てているが、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴァーは未亡人コンスタンツェ(幼少期の第二の母でもある)に押し込まれたみのであったが、面白いエピソードとしては、エステルハージ時代に同僚であったアダム・リストが才能ある息子を連れてきたが、あまりにフンメルのレッスン料が高くてあきらめたという。結局フランツ・リストはカール・ツェルニーの門をたたくことになった。しかし、リストは自分の演奏会などでフンメルのピアノ曲、協奏曲を何度も取り上げている。特にイ短調Op.85とロ短調Op.89は、リストのテクニックを存分に見せつけられる主要なレパートリーとなっていた。リストのウィーン、パリ、ロンドンでのデビューコンサートはすべてロ短調Op.89であったという。リストは後年になってもモーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、ツェルニー等の曲を弟子たちに学ばせていたという。

 彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであったが、ここでも契約は有利なものであって「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。1821年には自身の『ギース家のマティルデ』Op.100を改作して演奏している記録がある。

 ■フンメル 歌劇『ギース家のマティルダ』Op.100より二重唱

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−6.ヴュルテンベルクでの苦難

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 演奏活動に復帰したフンメルであったが、どうしても気がかりなことがあった。それは一家の大黒柱として、妻子を養っていかなければならない事、その為には不安定な演奏活動だけでは心もとない、何とか安定した生活を維持したい、と思うようになった。これは元来の彼の性質であったのであろう。ベートーヴェンとの違いは音楽性だけではなかったのだ。そうしているうちに以前短期間だが従事した事があるシュツットガルトのヴュルテンベルク宮廷楽団の楽長の職を得ることができた。条件は管弦楽団の総監督等の他に、年に2か月間は無休であるが、フンメルが演奏旅行に出かけても良いという条件が付けられていた。一方でフンメルが望んでいた収入よりはだいぶ少ない提示ではあり、迷うところではあった。それでも1816年の10月に新作オペラを上演し、ピアニストとしても新作の協奏曲(有名なイ短調Op.85であろうと思われる)を披露して、その資質をプレゼンテーションしたのである。これを見た王フリードリヒ1世は大いに喜び、直ぐに彼を楽長に任命したのであった。

◆ピアノ協奏曲 第2番 イ短調,Op85より
第三楽章ロンド・アレグロ


 しかし、不幸にもこのフンメルを高く評価してくれたフリードリヒ1世は、フンメルが就任して1週間ほどで急逝してしまったのだ。跡を継いだのは息子のヴィルヘルムであったが、彼は音楽に対する造詣もなく興味もなかった。父の死に対し、シュツットガルト劇場の閉鎖を要求して、2か月の喪の期間を強要したのだ。またフンメルに対しても何の興味を見せず、11月にはフンメルの役職に劇場支配人のバロン・フォン・ヴェヒターを任命してしまった。フンメルに言わせれば、このヴェヒターという人物は、「ベルグ州裁判所へのデンマーク大使の息子で、横柄な貴族だった。何よりも音楽関しては全くの素人だった」という。

 フンメルは、その才能と実績、その名声にもかかわらず、エステルハージ時代と同じ運命となってしまうのであった。
 

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 問題は、次々と現れた。フンメルはもともと自分の演奏旅行の際やオペラの上演でエリザベートを伴って、歌手として出演させる事を希望し、契約上も受け入れられていたはずだった。エリザベートは実際に何度かコンサートで歌ったのであるが、ヴェヒターは彼女に報酬を支払おうとしなかったのである。そこでもしもこのまま支払われないのであれば、彼女の出演は拒否させる事とした。これは明らかにフンメルを快く思っていなかったヴェヒターとその首謀者による政治的陰謀が絡んでいたと言われている。
 こうした扱いにはもう耐えられないとして、フンメルは1818年9月に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム王によって却下されてしまう。ここから大変な労力を得てひとつひとつ辞任できる理由を提出、簡易的な裁判にまで及んだのである。こうした苦労を得てやっと6週間後に辞表が受理されることとなった。
 一方、シュトゥットガルトの聴衆は、彼の音楽的功績や才能を失うことを悔やんだ。後の時代になってもその後のフンメルの活躍を見ては、悔やみ続けたという。こうした民意と政治の不一致は、昔から存在していたのである。


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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−5.ウイーンでの活躍と結婚

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 1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。フンメルは音楽家としての本来の演奏や作曲といった活動を柱とすべくウイーンに戻ってから4年もの間こうした多忙な生活を続けていくことになる。

 1806年にベートーヴェンのオペラ『レオノーレ』の上演の際、フローレスタン役を担った有名な歌手:ジョセフ・レッケェルの妹:エリザベート・レッケェルと出会ったのは1812年、エリザベートが19歳の時であった。美しい歌声と美貌を持つこの若き歌手にフンメルは求婚し、結局翌年の1813年、エリザベートが二十歳になって結婚した。

 この事は再びベートーヴェンとの間に軋轢を生む結果となってしまった。ベートーヴェンはもっと以前からこのエリザベスの才能を高く評価し、また恋心を抱いていたと言われている。ベートーヴェンの遺品にあった宛先不明の「不滅の恋人へ」の手紙は、このエリザベートへ宛てたものだという説もある。
 *この辺りについては、以前にも記事を書いたので参照ください。

 ベートーヴェンも彼女に求婚したとする伝記作者もいる。ともかく、彼も彼女に思いを寄せていたことだけは間違いないであろう。しかしベートーヴェンにはブレンターノ嬢の存在もあったし、結局エリザベートはベートーヴェンではなく、フンメルを選んだのだ。当時はどちらが偉大という感じでなく、むしろフンメルの方が高く評価され、ベートーヴェンは異質の天才、と評価されていた。そのため「幸福な人生」を送るための選択として正しかったかどうかを見ると、この選択は決して間違いではなく、むしろ正しい選択だったと思えてくる。もちろんエリザベートがベートーヴェンを嫌いであったはずもなく、その才能も含めて大変に敬愛していたことは間違いない。

 とはいえ、ベートーヴェンとの接触がなくなったわけではなく、例えば1813年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め(*)、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。
 (*)1813年にナポレオンの敗北に伴い、ベートーヴェンのウェリントンの勝利の祝典曲が演奏されることとなった。フンメルは1813年12月の初演のために結成されたオーケストラの一員として、友情参加していた。他にはサリエリ、シュポア、マイアベーアとモシェレスらも参加していた。

 しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きくなっていった。

Hummel3 エリザベートとの結婚生活と共にフンメルの作曲家としての名声も活動も充実の一途をたどっていた。この頃にフンメルは二人の息子を授かった。長男の後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。カールは後にショパンのスケッチを書くことにもなる。しかし、この「職業作曲家」としてのピークを迎えようとしている時期に、若い妻は歴史に影響する助言をフンメルに与えることとなる。
 
elisabeth1 エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、
「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」
と助言したのだった。
 
 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
 そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べている。

「彼の演奏は、規律正しく優雅できらびやかで、素晴らしいものであった。特に先ほど演奏されたばかりのワルツの主題をとって、即興的に変奏を繰り返し、最後は華やかなコーダで締めくくった演奏は、驚くべきものだった」

 ベートーヴェンの方は耳の病気のため演奏活動から遠ざかることとなり、より作曲活動へ集中していくこととなった。逆にフンメルはピアノの巨匠として音楽界に返り咲くことになったのである。この時期からフンメルの作曲活動は、自身の演奏会用のピアノ作品が中心になっていったのである。
 
 早速、フンメルと彼の妻はトリエステ、プレスブルク、プラハを含むコンサートツアーに出かけた。1816年1月にはウイーンに戻り、代表作の一つ「七重奏曲 ニ短調、Op.74」を初演し、大好評となった。

七重奏曲 ニ短調、Op.74」(第1楽章アレグロ・コン・スピリート打込音源紹介)


  プラハでは、カール・マリア・フォン・ウエーバーと会い、ピアノリサイタルを聴いたウエーバーに大きな衝撃をもたらしている。ウエーバー自身もピアノのヴァルトーゾであったが、彼は劇音楽の分野で有名になる。フンメルもウエーバーの才能を高く評価し、彼の作品の編曲や、主題を利用した幻想曲やオーケストラ作品を作曲し、最後まで敬意を表していた。

 
 エリザベートの助言に従って行ったこのツアーでフンメルは確信した。演奏家の大家としての自分の立ち位置、と自分らしさを表現する活動の方法を。
 
 こうして、ベートーヴェンと同じ土俵での競争に終止符を打つこととなったのである。


 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−4.ハイドンの後継者として

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 フンメルの作曲の才能は、エステルハージ邸に在籍していた8年間の間に、宮廷で求められた新作の要求ら応える形で、合唱音楽や宗教楽曲の分野で革新的な発展を遂げた。 
 ここの楽団には優秀なミュージシャンが集められており、100人規模のオーケストラと歌手を抱えていたのである。ハイドンによる鍛え上げもあって、レベルの高い演奏する楽団としてウイーンでも名が通っていた。
 興味深いこととして、フンメルが楽長を務めていた当時、このオーケストラの第二チェロ奏者にアダム・リストが在籍していたことである。彼は1812年に生まれるフランツ・リストの父親である。

 フンメルの最初の仕事は、1803年にウィーンの宮殿で開かれたコンサートを取り仕切る事であった。当時こうした演奏会で披露された曲の一曲に、有名なトランペット協奏曲(ホ長調)がある。当時の巨匠アントン・ワイディンガーの技巧を活かすために書かれ、この曲はワインディンガーによって1804年の元旦にウイーンで初演されることとなった。
 フンメルの音楽は、モーツァルトの影響を前面に出した構成とメロディーで、軽快なアレグロでウイーン古典派最盛期の音を轟かせたのである。さらに、第三楽章では聴衆の受けを狙ってか、当時ヒットしていたケルビーニのオペラから人気のある現代的な行進曲のテーマを取り上げて、フィナーレを盛り上げた。
 この曲はエステルハージやウイーンの聴衆に賞賛をもって受け入れられた。

 フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。
 しかし順調という訳ではなかった。フンメルのエステルハージ邸での仕事は全てが分担制になっており、権限がない部分も多く、この楽団を上手く一つにまとめ上げることができないでいた。特に1766年からここで働き、先代から愛されていたハイドンは、謙虚で外交的で後身的で几帳面だったため、比較されるとフンメルの仕事はあまり評価されなかったようである。責任分担でいうと合唱団はフックスに権限が与えられていたり、ハイドンに比べると50歳も若く、機転の利かない点や新しい役割に対する不満も態度に表れていたという。
 
 一方では演奏家としては人気者だっただけに、ヨーロッパ各地から声がかかり、休暇を取って演奏旅行に出かけたいと思っていたが、なかなか許可が出ない事にも不満を漏らしていた。
 余談であるが、彼は若い割には太っていて、それなのに見た目とは違う見事な演奏をする者として、話題を呼び、彼のカフェでの演奏会などでは人が溢れんばかりの人気を博していたという。エステルハージ王子ニコラスは、自分が雇い主でもあるのにもかかわらず、フンメルのこうした活動に不満を持っていた。このフンメルの態度は明らかにハンドンの従順さとは違っていたのである。

 
 ニコラス王子は一方で、フンメルの一連の仕事には満足していた。それは彼の作曲したミサ曲であった。ミサの新曲の披露は王子の妻の命名日の記念行事としてハンドンによって始められた伝統の一つ。この伝統行事の為にフンメルは5曲のミサ曲を残したが、いずれもハイドンやモーツァルトの伝統を継承した対位法も含まれる厳格な大ミサ曲で、ニコラス王子はこの仕事に対して大いに満足だったという。
ミサ 変ロ長調,Op77 より第一章『キリエ』
 
a6ca5f337bf8f655c9eef68e74c97f17 ニコラス王子は、フンメルと同様に有名なベートーヴェンにもミサ曲の作曲依頼をして、1807年に初演された(ミサ曲ハ長調,Op.80)。それを聞いたニコラス王子はベートーヴェンの作品には好感が持てなかったらしく、「親愛なるベートーヴェン、貴方のこの作品は一体なんですか?」と言ったらしい。隣にいたフンメルはこの発言に「苦笑い」をしていたのだが、ベートーヴェンは猛烈に怒り狂い、フンメルの態度を罵倒した。これはベートーヴェンの勘違いで、フンメルが王子に同調して作品を嘲笑ったと思ったのだった。

「ヨハン、君には失望したよ。君の雇い主はたいそうな音楽趣味を持っているそうだが、僕には悪趣味としか言えない。それに君も同調するのか?」

 
 あるとき職務の一つであるハイドンの作品を整理する関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対する不満やねたみの一つの表れに過ぎなかったと思われる。

 そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。フンメルはウイーンの劇場の為にオペラや劇作品、バレエ音楽等を依頼されては提供していた。彼は人気作曲家であったのである。また父ヨハネスはこの頃ウイーンの有名なアポロ・ザールでの音楽監督を務めており、息子にせっせと舞曲の作曲依頼をしていたのである。アポロザールの為の舞曲集は6曲にも及び、その他のメヌエットなど多数の舞曲が作曲された時期でもある。こうした事実は、彼の本来のエステルハージ楽団での職務を怠っていると受け取られることとなった。当然であろう。
 
 そしてとうとう1808年のクリスマスのコンサートの後、ニコラス王子はフンメルを「準備不足」として更迭し解雇を言い渡した。しかし直ぐにハイドンの仲裁によって解雇は取り下げられ、再びこの職に就くこととなった。しかし、彼は自分の求める仕事や音楽を書くことを規制された状態で、自分を押し殺すように仕事をしていたが、長く続くはずもなく、やがては同じ道をたどることになる。1811年5月に再び解雇を言い渡され、フンメルは取り下げの懇願もしてみたが、今回は覆ることはなかった。
 
 この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。そのウイーンに戻り、作曲と演奏活動に戻ることとなったのである。

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−3.ウィーン帰還とベートーヴェン

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 フンメル家は、 1793年の春にウィーンで生活に戻って定住し始めた。ヨハンはアントニオ・サリエリアルブレヒツベルガーに合唱、和声法、対位法など、作曲家として必要な知識、理論を学んだ。サリエリやアルブレヒツベルガーは、この時期一足早くウイーンに住んでいたベートーヴェンも教えており、フンメルと全く同じであり、この時期にお互いを知る機会を得たものと思われる。ハイドンはオルガンについての多くを教えたが、しかしハイドンはフンメルに「君はピアノ演奏家として素晴らしい才能に恵まれているんだ。それはオルガンの奏法とは全く別のもので、このままオルガン演奏に必要な訓練は、君のピアノ演奏に悪い影響を与えることがあるから控えなさい」と助言したのだった。
 
 フンメルにとって作曲はますます重要な活動となっていったが、モーツァルトの死後、ピアノ演奏の文化が盛んになり、ピアノの巨匠の演奏を聴くことは、この時期のウイーンの大きなブームとなっていた。

 

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 ベートーヴェンとフンメルは、ウィーンのピアノ演奏家の最高の地位を争い、お互いが定期的に演奏会を開催した。また、お互いが相手の演奏会に出かけ、意見の交換や批評をやり取りしたのである。フンメルはまだ10代であったが、ベートーヴェンンはフンメルより8歳年上である。既にモーツァルトの未亡人の為の慈善演奏会や多くのブルジョア階級と付き合い、多くのパトロンを得ていたのだ。しかも就職という事に固執せず、芸術家の地位を高めようとしていた。
■フンメル/ピアノソナタ第3番嬰へ短調,Op.20(1803年)

 一方フンメルは、ウイーンへ戻ってきてからの10年間は作曲家として成長し、成熟していった時期でもあるが、収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。時にはコンサート・リサイタルを開催し、時には個人の家に行って演奏し、評判もあってウィーンのピアニストの第一人者として、忙しくなっていった。そしてスポンサーとなる人物には好き嫌い関係なく積極的に演奏し、自分の才能を惜しげもなく提供したのだった。
 これがベートーヴェンの理想とする芸術家と全く異なる生き方だったため、ベートーヴェンはフンメルに対して苛立ちを覚えている。ベートーヴェンもフンメルの才能を認めており、お互いに切磋琢磨して「芸術家」を目指して欲しかったのだろうか?
 
196800_340431202711578_1217203016_n それでも、二人は共にウイーンの中では最も有名で、最も優れたピアノの巨匠として君臨していくことになる。  双方の弟子たちの間では、ベートーヴェン派とフンメル派に分かれて対抗的な批判合戦にまで発展していったようだが、当の本人たちは、良きライヴァルとしてお互いが切磋琢磨している充実した時代でもあった。ベートーヴェンが弦楽四重奏を出版するとすぐにフンメルも出版する等、常に意識する関係となって行った。当時のウイーンでは演奏だけではなく、出版作品においてもこの二人が頂点となっていて、ピアノ三重奏曲等はもっとも人気の高い作品であった。作曲家としての評価はむしろフンメルの方が上だったともいえる時代である。こうした刺激し合う良きライヴァル、良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩(殆どがベートーヴェン側からの一方的な絶交宣言)で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。
フンメル/弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 第4楽章(1804年)
(3つの弦楽四重奏曲集、Op.30より)
 


 フンメルは早い段階でベートーヴェンの才能が巨大であることに気付いていた。そしてその才能に尊敬の念を抱いていたが、やがて自信喪失になっていった。ベートーヴェンの生み出す新作作品には、新しさと才能に溢れる、他の作曲家には見られない独自性があった。特に彼の交響曲は他の追随を許すものではなく、巨大な芸術として君臨した。
 フンメルは後の弟子:フェルディナント・ヒラーに次のように語っていた。
「ベートーヴェンのような才能と同じ道を歩くべきなのかどうか自信が持てなかった。自分には何ができるか判らなかったのだ。時がたつにつれ、ある考えに至った。“ベートーヴェンを追う必要はない。私は私らしく、自分に忠実で素直にあり続ければ良いのだ”と。」(ヒラーの回想録より)。
 
 自分らしく...
 結局、フンメルは交響曲を一曲も書くことはなかった。

 

 フンメルは1803年、ハイドンの推薦によって、若干24歳にしてシュトゥットガルト管弦楽団の楽長となった。しかし、この職は双方にとって満足のいくものではなかったため、わずか1年で契約を終了してしまった。ハイドンは今度は直ちに彼自身の雇い主であるニコラスエステルハージ伯爵に彼をコンサートマスターとして推薦した。
 ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いもあったりしたが、結局1804年4月1日にエステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であってハイドンは、職位こそ以前のまま楽長であったが、体力的な問題もあり、名誉職として在籍しているに過ぎない状態であった。

 このウイーンから南に50kmほどの壮大な宮殿では、楽団の統制、整備、訓練、楽譜の整理、そして新作の発表と演奏会など、やるべきことは山積みであったが、ハイドンはこの宮廷での職務を全うできずにいたため、自分の代わりとなる優秀な音楽家を探していた。ハイドンのこれらの仕事に就いたのは、フンメルの他に、副学長のフックス、第二コンサートマスターのトマシーニらであった。
 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−2.実り多きヨーロッパ演奏旅行

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 フンメルの演奏旅行のスタートは、12月の氷と雪の凶悪な条件の元でスタートした。こうした当時の旅行は過酷であり、現代のヨーロッパ旅行、ロマンチック街道、古城めぐり等と異なり、ロマンチックとは程遠いものであった。
 
 馬車をはじめ、時にはソリやコーチを利用しての旅は最悪であり、危険であり、大変不快なものであった。それは、モーツァルトの同様な旅行を思い出すと良い。怪我や盗賊、事故、腰の痛みや床ずれ、骨折....など不快の要素を並べつくしたような状態であった。各地での演奏会は、今でいうコンサート・リサイタル等とは程遠いもので、良い時は貴族の邸宅で、最高に洗練された聴衆は宮殿での演奏会であったらろう。しかし最低の場合は、地元の居酒屋での下品な酔ったお客を前に演奏しなければならない事もあった。一行の立ち寄ったおもな都市は、プラハ、ドレスデン、ベルリン(ここでのコンサートではモーツァルトと再会している)、ハノーバーとコペンハーゲンが含まれていた。大都市では数日、長ければ数カ月留まって、ヨハンの神童ぶりを披露していった。見返りは贈り物や金銭であり、これもモーツァルトの時代と変わっていない。

 1790年の春には、ハンブルクの港を経由して、スコットランドの首都エディンバラまで足を延ばした。海峡を渡る際は暴風に巻き込まれるという危機に見舞われたが、幸い全員無事に渡りきることができたのだった。
 
 若いフンメルはその驚くべき演奏技量で、エジンバラでは盛大な歓迎を受けた、引っ張りだことなったため、数カ月にわたって滞在している。その間は、御前演奏や特別計画されたコンサートに出演し、その他ピアノのレッスン依頼が殺到した。
 
 その後、父子はダーラムとケンブリッジ経由で南下し、ロンドンへ向かった。1990年の秋にはロンドンに到着し、そこから2年もの間滞在することとなる。

 
交響曲(プロローグ)
 時を同じくしてJ.ハイドンもロンドンに滞在していた。彼は興行主・ザロモンに招聘されて、あの有名なロンドン交響曲を披露し、熱狂的な歓迎の渦の中に合った。そんなハイドンはロンドンでかなり多くの演奏会を開催していたが、その中の何回かにヨハンに出演させ、ハンドンのピアノ三重奏をヨハンに演奏させたりして交流を深めた。ハイドンの三重奏曲は、王ジョージ三世と王妃シャーロットに献呈されたものもあり、御前でのヨハンの演奏に感動した王妃たちはヨハンを高く評価し、これがきっかけとなってフンメル父子のロンドン滞在が長く、成功したものとなったのだった。

 1791年には、ヨハンの最初の出版作品が世に出ることとなる。Op.1を与えられた「ピアノのための3つの変奏曲」は、ロンドンの民謡とドイツの民謡の旋律を取り上げて作曲された曲集である。この時期に実際にフンメルに会い、その演奏を聴いたロンドンの著名なビジネスマンで音楽愛好家ウィリアム・ガードナーは、次のように書き残している。

 「幼いモーツァルトを除いて、このロンドンを訪問した多くの中で、最も驚くべき演奏だった」

 【打込音源】ピアノのための3つの変奏曲集,Op.1 より
第2番 「ドイツ民謡」による変奏曲ト長調


Muzio_Clementi またこの時期、師匠のモーツァルトと競演した事で有名なクレメンティからピアノ演奏の総仕上げとも言うべき指導を受けている。モーツァルトからウィーン式演奏法を、ロンドン楽派の基礎なるクレメンティからは力強いイギリス式演奏法を習得した最初の演奏家となった。

 この時期のフンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の「3つの変奏曲」の出版予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。
 
 

 フンメル父子は、この後の演奏旅行の計画ではフランスを経由してスペインにまで及んでいたが、ロンドンからの帰路、オランダでフランス革命の渦に巻き込まれることとなり、父子が乗っていた船はフランス革命軍の戦艦に攻撃されてしまった。大砲の応酬の中、ヨハンの隣には、重傷を負った水夫がいたという。その他怪我をした人や重症を負った人がたくさん運び込まれてきた。そうした不安の中での船旅は最悪であったことだろうと想像がつく。

 幸い父子はハーグに入ることができ、約2か月間の避難生活を余儀なくされた。しかしフランス革命軍のアムステルダム侵攻によって、再び北方へと非難することとなる。その直前に避難場所の提供などしてくれた当時のオラニエ公の為に演奏会を開催して感謝の気持ちを伝えたのだった。

 そこから、彼らはケルン、ボン、フランクフルトを通って東に移動し、旅立ってから5年後、ウィーンの西100キロにある小都市リンツでフンメルの母親らと再会した。

 この旅行の間にヨハンは作曲家としてデビューし、またハンドとのより親密な関係を築き、多くの有力者たちの知遇を得ることができた。ピアノ演奏家としては、出発した当初とは比較にならない程の技量を身に着け、生涯得意としていた即興演奏は万人を惹きつけ、演奏家としての実績と名声を得ることができたのだった。

 フンメルがウイーンに戻ったのは1793年初頭。師匠のモーツァルトは1年と少し前に他界していた。

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−1.幼少期とモーツァルトとの生活

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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 ヨハン・ネポムク・フンメル(以下ヨハン)はウイーンから東へ80kmほどの距離に位置するハンガリーの都市:プレスブルク(現在のスロバキア共和国の首都:ブラチスラヴァ)で、1778年11月14日に生まれた。

 彼の父親はヨハネス・フンメルという音楽家で、ヨハンが生まれる4か月前に三歳年上の妻:マルガレーテと結婚したばかりであった。

 父ヨハネスは、実業家の父(ヨハンの祖父):カスパルにウイーン留学へ送り出され、音楽の勉学を始めた。その後ヨハネスは優れたヴァイオリニストとなり、さらに24歳の時には新劇場の音楽監督を務めるほどになった。

 ヨハネスは当時ヴァルトブルク(プレスブルクの隣町)で音楽監督の職を得ていたが、より良い職場と環境を目指そうと思い、ヨハンの誕生の1年後には、家族でプラハへ移動した。

 彼らはすぐに彼らの幼い息子が、音楽のための特別な才能を持っていたと感じていた。4歳の時にはヨハンがバイオリンを習い、その後少しずつピアノのレッスンを開始し、歌のレッスンも直接父親から学んだ。ヨハンの才能は驚異的であり、7歳にして様々な曲を弾きこなすピアニストになっていた。



 1786年に、父ヨハネスは、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウイーンで、後のモーツァルトの『魔笛』でコンビを組むことになるシカネーダーが管理するアウフ・デア・ヴィーデン劇場の仕事に音楽監督として参加する機会があった。

andeawien102s ヨハンは神童と言えた。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。その能力は、自分の教育レベルを超えており、ヨハンの才能をどうにかしたいと思っていた父ヨハネスは、このウイーンでの仕事をチャンスと捉え、家族と共にウイーンに移動した。そこはモーツァルトの天才が花開き、異常な熱狂に包まれていた時期であった。


 おそらくシカネーダーの紹介であると思われるが、ウイーンに来てすぐにモーツァルトとの知遇を得られることとなった。そして父ヨハネスは自分の息子ヨハンのの音楽的才能の事をモーツァルトに伝えたものと思われる。モーツァルトは「そんな子がいるなら是非見てみたいから、今度連れてきなさい」とヨハネスに伝えた。

 彼はすぐにヨハンを連れて、モーツァルトの住むアパートへ赴いた。

 当時はピアノ演奏にオペラの作曲にと多忙を極めていたモーツァルトであったが、ヨハンの演奏をじっくりと聞いた。ヨハンは7曲を披露したらしい。

 モーツァルトは、ヨハンの才能に驚き、感銘した。そして、ヨハネスは思いもしなかった言葉を聞くことになった。
「ヨハネス、君の息子の才能は大したものだ。もう少しで誰にも負けない演奏家になれる。それまでは僕が面倒をみるから。ああ、レッスン料はいらないよ。ヨハンには僕たちと一緒に生活してもらい、常に僕のそばに置いてほしいんだ。いいね?」


 モーツァルトとのレッスンは、単なるピアノの教師と生徒の範囲を大きく超えたものであった。
 モーツァルトは自作を弾いて聞かせ、そしてヨハンにも弾かせた。時には個人の集まりで連弾したり、演奏会の助手的なこともヨハンに経験させている。ヨハンは直にモーツァルトの演奏法をまなび、楽曲の理解、構成、形式の事、作曲の基礎、そしてモーツァルトの精神を浸透させていった。

Wolfgang-amadeus-mozart_1-640x940 特にドン・ジョヴァンニの作曲準備の際には、多くの歌手のレッスンの伴奏に弾かせたりもしたらしい。こうなると弟子というよりは人手が足りないモーツァルトの都合の良い助手である。

 しかし、モーツァルトの家には多くの著名人が集い、多くの音楽家も集まったのはヨハンにとっては、変えることのできない体験であり、肥やしとなったことであろう。ディッタースドルフヴァンハル、そして後に大恩師となるハイドンの知遇を得たのも、彼らがモーツァルト家に出入りしていたからこそである。

 モーツァルトがボーリング(九柱戯)やビリヤードをしながら、音楽談義をしたり、音楽界の出来事、音楽批評をしていたらしく、ヨハンもそこに同席させていたらしい。そこから学ぶことも多い事をモーツァルトは教えたかったのである。

 そしてそんな間に次々と名作を生み出していくモーツァルトの全盛期を目の当たりにしていたのである。

 ヨハンにとっては無くてはならない、貴重な体験でした。ここまでモーツァルトの精神を浸透させた人は、他にはいないのである。


 こうして慌ただしいモーツァルト家での生活が2年が経った。モーツァルトを取り巻く状況は一変しており、政治的不安も重なって、彼の財政的状況は逼迫していった。またモーツァルトの父:レオポルトが無くなり、モーツァルトの息子の誕生など、混乱した状況に陥って行った時期、モーツァルトはヨハンの独り立ちを提案することとなる。

 1788年、モーツァルトはヨハネスとヨハンに成功を約束し、そして自分が経験した成功事例や失敗事例を教示しながら、ヨーロッパへの大演奏ツアーを提案したのだった。


 ヨハネスは、その指示・提案に従い、ヨハンを伴ってヨーロッパ旅行の計画を立てた。そして実行していくのである。この旅は4年に渡って続き、ウイーンに戻ってきたヨハンは著名人となっていたのである。

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11月14日は、フンメルの生誕234年です。

01今日はフンメルの誕生日。

234年前の本日、ブラチクラヴァで生まれました。
フンメル研究ノート も 5年目に入りました。
そこで次回よりしばらくの間、改めてフンメルの生涯をたどっていきたいと思います。

宜しくお願い致します。


写真は、ワイマールのフンメルの墓です。







今日のおすすめ。
24の練習曲,Op.125より 第8番


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11月4日 165年前の本日、F.メンデルスゾーンが亡くなった日

Mendelssohn(13)
フェリックス・メンデルスゾーン(ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日 ライプツィヒ)は、ドイツロマン派の作曲家、指揮者。


私の理解するメンデルスゾーンとは、
  •  ユダヤ人で、
  •  浪漫派の中にあって古典主義、
  •  皮肉屋、
  •  ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者、
  •  J.S.バッハとシューベルトの復興に尽力、
  •  『夏の夜の夢』序曲は17歳で作曲したという天才、
  •  ヴァイオリン協奏曲は超有名、
  •  結婚行進曲はワーグナーのものと並んで超有名、
  •  ライプツィヒ音楽院の創設者、
  •  本当の理解者は姉・ファニーだけで、彼女が亡くなったら後を追うように亡くなった、
というの人物。
 
 フンメルとのかかわりは12,3歳の時にワイマールのゲーテ訪問の時に紹介された、ということと、フンメルのピアノ演奏に感動し、その場での演奏を進められたが泣きながら断った、というエピソードのみ。

 ただ、未出版の習作品、特にピアノ協奏曲やピアノ曲にフンメルの影響は大きい。


例えば、
  • ピアノと弦楽のためのレチタティーヴォ(ラルゴとアレグロ)MWV.O 1(1820年)
  • ピアノと弦楽のための協奏曲 イ短調 MWV.O 2(1822年)
  • 2曲の2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ホ長調 MWV.O 5(1823年)、変イ長調 MWV.O 6
  • ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲 ニ短調 MWV.O 4(1823年) 
  • 3つのピアノ・ソナタ ヘ短調、イ短調、ホ短調(1820年)ほか、この時期の多くのピアノ小品
・・・あたりには、1810〜1819年代のフンメル協奏曲やピアノ曲に類似した主題やパッセージが多く見受けられます。

 
メンデルスゾーンの最期について、wikiではこんな説明されていますね。
「1847年(38歳) 5月訪英の途上、姉ファニーの死の報に接し、悲嘆の余り神経障害を起こす。一時回復したが11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて没した。彼は生前には特に病弱という事もなく、登山などもしていた事、フェリックスの父アブラハムも姉ファニーも似たように若くして突然亡くなっている事等から、何か遺伝的な要因があったのではないかとする説もある」


 さて、今日は一日かけてフェリックス坊やの音楽を堪能しましょう。
 
 では、私の大好きな初期の作品【2台のピアノと管弦楽のための協奏曲変イ長調 MWV.O 6】を紹介。
どことなく、同じ変イ長調のフンメルのピアノ協奏曲(Op.113)に雰囲気が似ています。

 

関連追記
荒井千裕*ピアノの音の綴り方 も是非。

メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代 というタイトルでの記事です。
貴重で面白い内容ですよ。是非。音楽史は「退屈なものではなく、人間ドラマ何ですよ」ということを理解できます・

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今日はルイ・シュポーアの命日です。

LouisSpohr今日はルイ・シュポーアの命日です。没後153年。

ルイ・シュポーア(Louis Spohr, 1784年4月5日 ブラウンシュヴァイク - 1859年10月22 日 カッセル)

本来の氏名はドイツ語でルートヴィヒ・シュポーア(Ludwig Spohr)というそうです。


没後150年の年に向けて多くの録音がなされましたので、最近ではあらゆるジャンルの彼の作品を聞くことができるようになりました。作風などの感想は過去に記載しました(珍味なソナタ シュポア唯一の「ピアノソナタ」)が、陰々鬱々としてなかなか盛り上がらない、

我慢の美学? 的音楽。

もしくは

言いたいことがはっきり言えない音楽? 

を書く人だという認識が、個人的に持っています。

ヴァイオリンのヴァルトォーゾですから、ヴァイオリンの為の作品が多いですが、彼はほぼすべてのジャンルに作品を残し、さらに「複合弦楽五重奏」とか、弦楽四重奏のための協奏曲とか、珍しい作品も残しています。

モーツァルトの生前に誕生し、オペラ界ではワーグナーが「タンホイザー」「ローエングリーン」「トリスタンとイゾルデ」を発表した時代も生き抜いていました。

個人的に好きな曲を紹介。
陰々鬱々なテーマが、混とんとしていって、ずっと霧がかかったような音楽....
後期の名作です。

ピアノ三重奏曲第1番ホ短調,Op.119(1841)


また、アマゾンで検索したら珍しいものもありました。こんなのもあるんですね。

1859 のルイ・シュポーア肖像画の博士の人の骨董品の印刷物
 

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今日はフンメルの没年175年

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 フンメル最後の10年。

 フンメルの晩年、最後の10年間は、新しい世代の音楽・演奏家に押されはじめていましたが、演奏者としては絶頂期であった。教師、楽長、音楽家としての名声はヨーロッパ中に知れ渡っており、多くの音楽家が集まり、弟子入りを希望した。

 1827年にフンメルは、妻と弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。

 生前、幾度となく対立・和解を繰り返してきたこの時代の二人の巨匠は、この機会で最後の和解となった。
ベートーヴェンが亡くなるとフンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた、とヒラーは書き残している。

 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

 1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。
この演奏旅行は彼の成功を最後に、以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。

 1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、モシェレスやカルクプレンナーら、フンメルのブレーンもチケットを売ることに遁走したが、苦労したらしい。作風が新しく台頭したピアニストたちに比べて「古臭い」(リスト)と思われたのだった。

 一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務め、自作のほか、ウェーバー、モーツァルトを取り上げたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。そして1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。

 残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。

 でも彼は膨大な遺産を妻子に残している。才能ありながら、安定を求め、宮使いになったフンメルをベートーヴェンは気に入らなかったという。もっと音楽家、芸術家として自分の魂を!  というタイプではなく、最後まで職業作曲家であった彼は、音楽が持つ雰囲気とは別に、あくまでも「古典派」の域を出なかった作曲家であった。

 没年 175年。

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今日はフンメルの弟子のひとり、ヘンゼルトの命日です

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知ってますか?アドルフ・フォン・ヘンゼルト(Adolf von Henselt, 1814年5月12日 - 1889年10月10日)。


ドイツ・ロマン派音楽の作曲家・ピアニストで、バイエルン王国シュヴァーバッハ(ニュルンベルク近郊)出身。ロシア帝国に渡って、今日まで続くロシア・ピアノ楽派の基礎を築いた人です。

Wikiの解説ピティナ・ピアノ曲事典上田氏の解説でよくわかりますが、同じフンメルの弟子のタールベルクやヒラーに比べると、よりフンメルの個性を継承したタイプで、リストとショパンを並べた時に、ショパンに近いような音楽を書いています。

写真だけ見ていると、ドボルジャークのお兄さんか? 想う風貌ですね。


1814年5月9日、バイエルン地方のニュルンベルクの近く、シュヴァバッハに生まれました。小さい時からピアノを習い、奨学金を得てフンメルの弟子となります。後にロシアに行って皇族の音楽教育にあたりました。

美しい音色で弾くピアニストで、その演奏の繊細さ、素晴らしさは同時代のリストやショパンも一目置いていたといいます。リストに匹敵するほどの名手だったのです。

でも彼は極度のあがり症、ステージ恐怖症だったらしく、人前ではなかなか彼の真価を発揮することはできなかったそうです。

ですから、かなりの長寿に恵まれたにもかかわらず、30歳までに作曲活動を止めてしまいます。この「あがり症」はプレシッシャーとなってしまったですかね。

ピアノ協奏曲の演奏会なのに、自分の独奏部分が来るまでステージには上がらず、舞台袖に待機していたといいますから、よっぽどですね。

作曲に続いて33歳で演奏界からも引退している。もったいない。

一人で練習しているところをこっそり聴くと、それは夢のようなカンタービレだったといいます。

写真の風貌からは信じられませんね(笑)



雰囲気わかる曲の紹介ということで、「二つの小さなワルツ」Op.28を!


本日はゲーテの誕生日

486px-Goethe_%28Stieler_1828%29ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
(1749年8月28日 - 1832年3月22日)

ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。

フンメルとはワイマールで交流し、共にこの地方都市を芸術の都としての地位にまで高めるべく活動をした。


 フンメルのワイマール時代は快適で実り豊かなものでありました。生活面の不安もなく、演奏旅行の機会も与えられ、比較的自由に休暇も取れたのです。

 
 何しろこの街にはゲーテがいました。彼を通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合い、まもなくワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となりました。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」


と言われていたそうです。

 フンメルの主な職務は宮廷劇場で指揮することでしたが、その他の職務は極めて多忙であったようです。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなした)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たったといいます。


 ゲーテのワイマールでの活動は、エッカーマンが生前のゲーテとの対話を記した『ゲーテとの対話』(邦訳では 岩波文庫 より山下 肇 の翻訳で上下巻にて手に入れることができます)がよく判ります。ゲーテの格言も沢山含まれていて、読み物としても大変面白く、また当時のゲーテの活動も良く理解できます。




 以前もこのブログで紹介しましたが、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈しています。

 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては〜
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB)
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声)
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum
などでしょうか。

 また、ゲーテのリクエストに応えて、モーツァルトの交響曲を室内楽用に編曲したり、ピアノソロ用に編曲して演奏もしたそうです。


 フンメルの歌曲において、ゲーテの詩を使用している曲もあります。
「Zur Logenfeier  Lasst fahren hin das Allzufluchtige」は、ゲーテの詩によるフンメルのリートです。


 ゲーテはフンメルの事を、「現代における最高のピアニスト」と称し、当時数多く現れたピアニストや、ゲーテの前で演奏したピアニストを評する時に、フンメルと比較して論じたりしています。


 ゲーテにとっての最高の芸術家(作曲家)は生涯通してモーツァルトではありましたが....


  祝 ゲーテ生誕263年!

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珍味なソナタ シュポア唯一の「ピアノソナタ」

LouisSpohrこんな曲が聞けるとは。

ハイペリオンというレーベルは、カルクブレンナー、モシェレス、ヒラー、ヘルツ、クラーマーのピアノ協奏曲の一連の録音など、私個人にとっては最も重要なレーベルの一つですが、今回、とっても珍しい楽曲をリリースしてくれました。

作曲家はマイナーな中ではメジャーな(どっちなんだ?)ルイ・シュポア。何が珍しいかというと、彼の唯一のピアノソナタがリリースされたこと

演奏はフンメルの協奏曲シリーズやハイペリオンの初期ロマン派の協奏曲シリーズでおなじみのハワード・シェリー。シェリーは最近シュボアの録音に力を入れていて、指揮者としてシュポアの交響曲全集を完成させたりもしていたが、本来のピアニストとして、今回の「珍味」ともいえるソナタを録音した。


シュポアといえば、私個人の中では古典派〜ロマン派の時代を長きにわたって活躍したドイツの重要な作曲家で、演奏家としてはヴァイオリンの名手として当時のパガニーニと争うほどの腕前の持ち主。

モーツァルトを尊敬し、ベートーヴェンやウェーバー、フンメルといった当時の大音楽との交流も盛ん、後輩の育成にも寛大かつ積極的に取り組んだ「真面目なお人」という感じです。

曲としては、古典派の形式から出発しているもののその作風やメロディーや展開手法には独自の物があり、非常に個性の強い音楽を書いている印象がある。半音階の駆使(数多くの室内楽や管弦楽曲)、混とんとした無調音楽っぽい雰囲気(交響曲第4番)、新たな形式への挑戦(ヴァイオリン協奏曲第8番)など、私の中では「挑戦者」であり、「前衛的作曲家」なのである。

ただ、何故同時代人のベートーヴェンやウェーバー、シューベルトのように「音楽室の肖像画」に組み込まれるほどに有名ではないのか? というと、それはやはり現代人から見ての大衆性の欠如、つまりは「大ヒット曲がない」という事なのかと思います。

覚えやすいメロディーもあります。美しいメロディーもあります。

でも彼の音楽に感じているのは、「いい曲だなぁ、でも何か足りない」なのです。

私の一番好きな曲は「ヴァイオリン協奏曲第7番」です。これこそシュポア! という混とんとした前奏に始まり、美しい主題の中で技巧的なヴァイオリンソロが歌う第一楽章、優美で映画のバックになりそうにロマンチックな第二楽章、やや民族的雰囲気をもつウイーン風舞曲の第三楽章。。。

この曲に物足りなさは感じていないです。個人的にはパガニーニの1番、チャイコフスキー、メンデルスゾーンと並んで4大ヴァイオリン協奏曲です(ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が入らないのは個人的嗜好です)。

でもこれ以外は、

「おっこれから盛り上がって〜〜

バーン!!!
って..... 


      来ない....」


という感じで、スカされてしまいます(笑)

それでもとても魅力的な楽曲が多いので、ここ20年くらいでかなりの作品が紹介されてきました。

でも、シュポアの当時の位置づけがいまいち解らないのである批評を紹介します。

「メンデルスゾーンが亡くなった今、シュポーアこそが現代最高の作曲家であり、対抗馬として目される存在はない。作曲という何よりステイタスの高い芸術分野を彼ほどに進化させた者はいない。そして彼はあらゆる分野において傑作を次々と生み出している。彼の才能は、世界的に見ても傑出しているというるのではないか!」(ロンドン楽友協会 1848年5月8日)

すごいですよね。ヨーロッパ中で知られた大作曲家だったのです。ブラームスは彼を古典派最後の巨匠として高く評価していました。

さて、そんなシュポアの「ピアノ作品」については、どうでしょう。彼はヴァイオリンの名手ではありましたが、ピアノの技術は「基本はできているが技巧派でも大演奏家でもない」と自負しています。ピアノが含まれる室内楽を作曲する際にはフンメルに多くの助言を求めています。それでも後期になるにつれ、ピアノを含む楽曲は増えていきます。5曲あるピアノ三重奏曲はすべて1840年代以降です。

ピアノソナタは1843年に書かれました。

ここではシュポアによくある「くど過ぎる半音階と主題の繰り返し」は影をひそめ、自由、気まま、流れ、遊びを感じられます。
これはロマン派の音楽であり、フランスの印象派の雰囲気もあり、でもショパンでもメンデルスゾーンでも、モーツァルトでもありません。

口ずさめるような(ヒット曲のような)メジャー感もありません。佳曲なんです。

でも、こうした曲を聴ける時代に生きている自分は恵まれていますね。

ご興味のある方は、ハイペリオンのリリースページに詳細な解説と試聴データがありますので是非。

ちなみにカップリングは、同期生のオンスロウの作品。オンスロウのソナタは初期の作品ですので、時代的な感覚ではより古典に戻った感が感じられます。いずれ詳しく。


034571179476Howard Shelley (piano)
Louis Spohr (1784-1859)
Piano Sonata in A flat major Op 125
Rondoletto in G major Op 149

George Onslow (1784-1853)
Piano Sonata in C minor Op 2
Six Pieces
Toccata in C major Op 6

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4月5日は、シュポーアの誕生日!

6763495473_8ea6f0e06e今日は、大好きな作曲家 ルイ・シュポア(Louis Spohr, 1784年4月5日 ブラウンシュヴァイク生 - 1859年10月22日 カッセルにて死亡)の誕生日です。

シュポア Wiki

シュポーアは、ほぼフンメルと同時代人であり、交流もありました。特にシュポーアが1813年から1815年までウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の指揮者を務めている間は、ベートーヴェンやフンメルらと交流したようで、特に「ワン・ドゥカーデン・コンサート」とでは、幾度となく共演しています。



シュポーアは、モーツァルトを敬愛し、後継者として自認していたようですが、比較的長い生涯において「モーツァルトっぽい」のは数が少ないですね。例えば、交響曲第1番や第2番などは、モーツァルトの三大交響曲や「魔笛」の序曲からの楽想がたくさん出てきますし、半音階メロディーを多用したのは、後期のモーツァルトから感化されたものに違いありません。



彼の曲は、「強い主張」もなく、「ここで盛り上がったら最高だぁ」というところで盛り上がらない感じで、短調の作品などは「陰々鬱々」とした主題が永遠と繰り返されるような雰囲気を持っています。


これがたまらなく好きなんですが...


好きな曲は、交響曲の3番と4番「音の浄化」、ヴァイオリン協奏曲第7番(一番有名なのは第8番「劇唱の形式で」でしょうけど)、複合弦楽四重奏曲、ヴァイオリンとハープのための協奏曲 ホ短調、ピアノ三重奏曲第1番...といったところです。


かなり改革・革新的な音楽を作り続けていますが、ヒットメーカーの同時代人(ベートーヴェン、ウェーバーやメンデルスゾーン)に比べると、大衆的なヒット曲がないのがマイナーな理由でしょうか。そこはフンメルと似ているとも言えますね。

 





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カルクブレンナー ピアノ協奏曲集(ハワード・シェリー)

フリードリヒ・ヴィルヘルム・カルクブレンナー
(Friedrich Wilhelm Kalkbrenner、1785年11月7日 - 1849年6月10日)


Kalkbrennerドイツで生まれ、主にフランスでピアニスト、ピアノ教育者、作曲者として活動した。両親がカッセルからベルリンへ移動する途中で生まれたとされている。パリ音楽院で学んだ後、ウィーンでハイドン、クレメンティ、アルブレヒツベルガーにも学んでいることから、「モーツァルトに学んだ」ということ以外は、フンメルと全く同じである。

パリではピアノの製造会社プレイエルの役員となり、ピアニスト、ピアノ指導者としての名を馳せた。ただ、器具を使っての手首の固定機器の推奨や長時間特訓を特徴とした教育法だったらしい。これらの指導法はフンメルのそれとは全く逆であったのが面白い。


作曲家としてのカルクブレンナーは、ピアノ協奏曲、多くのピアノのための作品や室内楽から宗教曲やオペラなどにも及び、時代的にも、作風的にもフンメルに近いところがある。

パリで大御所として君臨していた時代でも、同郷の先輩・フンメルには敬意を表して接していたらしく、フンメルのパリ演奏旅行の際には、モシェレスらとともに手足となって働いている。

自らをフンメルやベートーヴェンらとともに「古典派」と位置づけていた。次世代のリストやメンデルスゾーンからは、その気取った立ち振る舞いなどを揶揄されたりしていたが、ショパンとは交友を続けていたようである。


さて、今回の第2番と第3番であるが、あくまでもソナタ形式による典型的な古典派協奏曲であるが、そのメロディーはフンメルと遜色ないもの。ショパンが好んだのも理解できるほど繊細な面やロマンティックな雰囲気を持ち、明らかにベートーヴェンの楽派とは違うブラブィーラ演奏を多用しており、装飾やパッセージ等からもフンメルと同様に「ウィーン楽派」の当時の代表的ピアニストだったことも頷ける。

第2番は、トロンボーンを含んだ2管編成オーケストラを持つが、前奏以外は終始伴奏に徹する作風もショパンと同様である。
第3番は、ティンパニーを使用していないが、室内楽的という感じはしない。トランペットのアクセントもある楽曲で、何故ティンパニーを入れなかったのか理解できない。
アダージョ・エ・アレグロ・ディ・ブラヴーラは、当時の流行である演奏会用小協奏曲である。メンデルスゾーンの「華麗なロンド」のような雰囲気で、聞いていてとても楽しい。



同じハワード・シェリーによる演奏で1番と4番に続いてのリリースだが、今回の発売で、全4曲のピアノ協奏曲が聞けるようになったことは嬉しい限り。初期ロマン派が好きな人やフンメルを好きな人、ショパンの協奏曲が好きな人は、是非第1番第4番のCDと合わせて聞いてほしいと思う。


ちなみに、カルクブレンナーのピアノと管弦楽の為の作品は下記の通り(○が付いているのはCD化されて聞けるもの)

○ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調,Op.61
○ピアノ協奏曲 第2番 ホ短調.Op.86
○ピアノ協奏曲 第3番 イ短調,Op.107
○ピアノ協奏曲 第4番 変イ長調,Op.127
 2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ハ長調,Op.125
 友好の誓約、大ロンドー,Op.66
 ベルリンの魅力、華麗な大ロンド,Op.70
 アイルランド民謡「我が家は冷たき土の上」によるファンタジーと大変奏曲,Op.72
 ロッシーニの歌劇「タンクレード」のアリア「こんなに胸さわぎが」によるファンタジーと華麗な変奏曲,Op.83
 「イギリス国歌」、序奏とフィナーレを伴う華麗な変奏曲,Op.99
 フランス民謡「ジャック兄さん、鐘をついてよ」による序奏と華麗なロンド,Op.101
○アダージョ・エ・アレグロ・ディ・ブラヴーラ 変イ長調,Op.102
 大幻想曲「夢」 変イ長調,Op.113
 カールズバードの魅力、華麗なる大ロンド,Op.174




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− クレメンティ −もう一人のピアノ教師

Muzio_Clementi少年フンメルは、1790年からロンドンに滞在している。


ハイドンは1791年から1年間滞在した。例のロンドン交響曲が披露された歴史的滞在である。
この同時期に滞在したモーツァルトの愛弟子であるフンメルとハイドンが交流を持った事は事実であろう。
事実、二人がウィーンに帰ってからは師弟関係になった。


一方、演奏実績と自作出版もあり、既に相当評価が高まっていたフンメルは、クレメンティにピアノを師事している。

クレメンティは、1781年(29歳)の12月24日ウィーンでヨーゼフ2世の前で、当時25歳のモーツァルトとピアノの競演をしているが、モーツァルトの演奏に大変感銘し、その後の作品や演奏法に影響を受けたと本人が語っている。
そのモーツァルトの太鼓判をもらったフンメルにピアノを教えたのだが、そのレッスン内容はどういうものだったであろうか?


おそらく、フンメルの巨匠的演奏は、クレメンティの教えが無くては実現しなかったのではないか?と考えられる。


べートーヴェンはモーツァルトの演奏より、クレメンティの演奏の方を評価したと言われているが、そのモーツァルトのウィーン楽派特有の軽くて華麗な演奏法と、クレメンティから始まるロンドン楽派特有のピアニスティックな力強い演奏法の両方をフンメルは学んだことになる。


フンメルは生涯に渡ってウィーン楽派的な装飾の多い華麗なピアノ楽曲を好んで多く作ったが、同じクレメンティに学んだクラーマー、カレクブレンナー、フィールドといった音楽家が持つファンタジーと演奏技巧は、フンメルにも当然あって、特にピアノ協奏曲では顕著にみられる。

ピアノを習うと出てくるクレメンティ...


ハイドンのブームに押されて日の目を浴びなかった、彼の交響曲なんかは迫力があって、個人的には大好きである。

彼の生涯は、邦訳された「クレメンティ―生涯と音楽」(音楽之友社)に詳しいし、Wikiでもある程度掌握できる。


彼が没してから、ちょうど180年が経った。

1月31日はシューベルトの誕生日 Vol.2

シューベルトが生まれた1797年、フンメルは既にモーツァルトに後押しされたヨーロッパツアーを1793年には終え、ウイーンに戻っていた。
またベートーヴェンもハイドンの手招きにより1792年の末にはウイーンに移住していた。
この二人はピアノの名手・ライヴァルとして活躍しており、新しい世代の幕開けを予感させる時代にシューベルトは幼少期を過ごすこととなる。

さて、話は大きく飛びます。


フンメルとシューベルトが、いつ出合ったのか?


知られている限りでは、1827年にフンメル夫妻は弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞ったそうです。結局、その後すぐにベートーヴェンが亡くなり、そのままウイーンに滞在していました。この滞在中にフンメルはシューベルトに会ったとされています。フンメルはサービス精神旺盛にも、シューベルトの歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、シューベルトは大いに感銘を受けたと言われています。このお返しかどうか不明でありますが、シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼に演奏してもらいたかった、と言っていたそうです。結果的にはこの3つのソナタは、両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えました。

また、作品への影響としては、シューベルトは出版社から「フンメルの五重奏」のような曲を書いてくれ、と言われ、結果として完成したのが「ピアノ五重奏曲“鱒”」とのこと。フンメルの五重奏曲とは、Op.74の七重奏曲ニ短調の五重奏曲編曲版とOp.87のピアノ五重奏曲 変ホ短調だと思われます。

性格的には異なる二人の五重奏曲ですが、雰囲気や美しさでは甲乙付け難い名曲で、CD等でもよくこの二曲はカップリングされています。

Piano Quintet in a Flat Major 'trout'/Piano QuintePiano Quintet in a Flat Major 'trout'/Piano Quinte
アーティスト:Schubert
Hyperion UK(2012-01-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

昔の出来事を想像するだけでワクワクしませんか?



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1月31日はシューベルトの誕生日

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875本日はフランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)の生誕215年です。
区切りの良いようなそうでもないような...

シューベルトも大好きな作曲家です。初めて聞いたのは、小学校2年生の時に買ってもらったLP盤でベートーヴェンの第5のカップリングとして収録さ

れていた「未完成交響曲」。小澤 征爾/ボストン響だった記憶が...
その後、岩城宏之/札幌交響楽団の演奏を函館で聞きました。初のクラシックコンサートだったかな?
音楽の授業で聞いた「魔王」にはハマりませんでした(笑)

シューベルトで好きなのは初期の交響曲第1〜3番、未完成とグレート。ピアノ五重奏「鱒」や八重奏曲。歌曲の王とか言われていますが、彼のメロディ

ーは「人間の歌声」を楽器やオーケストラに反映させているかのようで、美しく歌わせるメロディーが多く、自然に流れるものが多いです。この辺りは

ベートーヴェンよりモーツァルトに近い気がしますね。


さて、ではフンメルとはどういう関わりがあるのでしょうか?

まず、シューベルトの歌曲というとゲーテ(Goethe)を思い浮かべます。ゲーテとフンメルは同時期にワイマールで活動しており、ともに巨匠としてこの街を訪れる人の目的ともなっていたほど。
「ワイマールではゲーテとフンメルに会わずしては帰れない」と言われていたそうです。
フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈しています。それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては〜
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB)
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声)
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum
などでしょうか。

また、ゲーテのリクエストに応えて、モーツァルトの交響曲を室内楽用に編曲したり、ピアノソロ用に編曲して演奏もしたそうです。

また、フンメルの歌曲において、ゲーテの詩を使用している曲もあります。
「Zur Logenfeier  Lasst fahren hin das Allzufluchtige」



あれ? 長くなったので、シューベルトとの話は次回ということで...


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今日は師匠・モーツァルトの誕生日です。

3037793取りあえず、2年間も住み込みでピアノと即興演奏、作曲にかかる基礎を学んだ訳ですから、フンメルの作品にモーツァルトにそっくりな曲が多いのは納得できます。

というより、この時代の様々な作曲家の作品を聞いても、モーツァルトの作風に一番近い人で、その完成度も高かった人はフンメルと思っています。
特に初期のピアノ曲やピアノ三重奏曲、ヴァイオリン、ヴィオラ、フルート等のソナタはそっくりです。真似てもここまで美しい曲を書ける人がいるでしょうか? という程です。

フンメルの残したモーツァルトに関する「回想録」も残っているそうですし、下記の作品は直接モーツァルトの作品を取り上げたり編曲したものです。

Op.94◆ヴィオラとオーケストラの為の幻想曲とポプリ ト短調
 *ドンジョヴァンニとフィガロ、後宮からの誘拐の音楽が使われています。

Op.63◆グランド・セレナーデ第1番 ト長調,Op.63
Op.66◆グランド・セレナーデ第2番変ホ長調,Op.66
  *二曲とも様々な当時のヒットソング(主にオペラ)からのポプリです。ティトース序曲やフィガロのメロディーなどが取り上げられています。
これは、ワン・ドゥッカーテンコンサート(カフェでの庶民向けサロンコンサート)で、ギターのジュリアーニやヴァイオリンのシュポアらと共に演奏されたらしいです。夢のようなサロンコーンサートですね。

Op.34-3◇3つの変奏曲,Op.34の第3番「モーツァルト「後宮からの誘拐」による変奏曲 ハ長調」
S.27◇幻想曲 変イ長調,S.27(1799) 「ハイドンとモーツァルトの主題による」
Op.124◆幻想曲 ハ長調,Op.124 「モーツァルトの"フィガロの結婚"による」


S.112-113◇選び抜かれた24の序曲による四重奏曲編曲(1821) 「魔笛」序曲/「フィガロの結婚」序曲
S.138〜144 ◇モーツァルトの7つのピアノ協奏曲による四重奏曲編曲(K.466、K.503、K316a、K.491、K.537、K.482、K.456)
S.151〜156 ◆モーツァルトの6つの交響曲による四重奏曲編曲(K.504、K.550、K.543、K425、K.385、K.551)
◇モーツァルトのピアノ協奏曲7曲へのカデンツァ集 (1790s) Op.4a=K.414,Op.4b=K.415,Op.4c=K.413,Op.17a=K.595,Op.44a=K.451&K.459,Op.46a=K.537
  *その他にも交響曲のピアノソロ編曲など多数あります。

中期以降は独自のロマン性を伴った作風や、ハンガリーの民族性などが現れ、ピアノの演奏技巧も含めて独自の作曲家、演奏家としてその地位を確立しますが、ベートーヴェンほど革新派ではなく、あくまでも伝統的な古典的な作品に終始しましたし、死ぬまでモーツァルトの影響と尊敬は持ち続けていたようです。

今日1月27日はモーツァルトの誕生日。256歳です。

 
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フンメル生誕233年

074731327367611月14日はフンメルの生誕日です。






今年はめぼしい新譜が少なかったのですが、一番は
Naxosからリリースされたフンメル:フンメル・アット・ザ・オペラ(乾まどか)ですね。
レーベル名:Naxos
カタログ番号:8.572736

・モーツァルトの歌劇「後宮からの誘拐」から「バッカス万歳」による変奏曲Op.34-3
・グルックの「アルミード」からの主題による変奏曲Op.57
・バレエ音楽『ポールとヴァルジニ』のための「5人の黒人の踊り」Op.41(ピアノ編)
・ケルビーニの歌劇「2日間」からの行進曲による変奏曲Op.9
・オーベロンの魔法の角笛幻想曲Op.116(ピアノ編)
・イズアールの歌劇「シンデレラ」からの行進曲による変奏曲Op.40a
・ポプリ第1番ハ短調、自作の『ろばの皮』よりOp.58

乾まどかさんに関しては、以前に幻想曲集をリリースしており、安定した演奏を聞かせていただいていたので、期待しておりましたが、期待を裏切ることのない、整然とした演奏です。テンポは他の演奏家に比べるとゆっくり目ではありますが、逆に曲の内声や構成がしっかりと聞けますので、演奏者にとっては見本として欲しいところ。
珍しい曲も収録されていますので、貴重な1枚。

命日

174年前に亡くなったフンメルの音楽を今でも聞くことができる奇跡と幸福。

祝 ヨハン・ネポムク・フンメル 生誕231年

今日はフンメルの誕生日。HUMMELhause


231年前の本日、ブラチクラヴァで生まれました。

フンメル研究ノート も 開設1周年を迎えました。右はフンメルの生家。


ブログ続けられるか?


−−−−−−−−−−−
Johann Nepomuk Hummel(1778〜1837)
レジオン・ドヌール勲章
ワイマール白隼勲章
フランス学士院会員
ソシエテ・デザンフォン・ダポロン会員
ジュネーヴ音楽協会会員
オランダ音楽振興協会会員
ウィーン楽友協会会員
ロンドン・フィルハーモニー協会の最初期の名誉会員

モーツァルト、ハイドン、クレメンティ、アルブレヒツベルガー、サリエリに師事

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フンメルと関係のあったピアニスト−3 モシェレス

イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles, 1794523 - 1870310)はチェコの作曲家、ピアノ奏者。プラハに生まれ、ライプツィヒに没す。

 

Moschelesモシェレスは、べートーヴェン時代のウィーンで、もっとも人気のあるピアニストの一人であった。チェコのプラハの生れで、1804年から4年間、折からプラハにいて音楽学校でも教えていたヴェーバーにピアノを学んだ。その後1808年にウィーンへ戻り、対位法や作曲法を勉強し、べートーヴェンとも親交を結んだ。1814年、ウィーン会議の年には、フンメルと並んでピアニストとして声望があり、翌年からは演奏旅行に出て、1812年のロンドンでは、クレメンティやクラーマーと並ぶ名演奏家として賞讃された。1824年にはベルリンで15歳のメンデルスゾーンを教え、これが機縁で、二人は生涯を通じて親交を結ぶことになった。


 1825
年からロンドンに定住し、王立音楽学校のピアノ教授となった。タールベルクを教えたのはこの時期である。1846年にメンデルスゾーンに招かれて、彼が創立したライプツィッヒ音楽院のピアノ科の主任教授となり、終生この地にとどまって、多くの弟子を育てた。

 

結果的には、モシェレスによってウィーン奏法とイギリス奏法の伝統が、ドイツのライプツィッヒに根をおろした、とする論文もある。ウィーンの音楽批評家ハンスリックはモシェレスを評して、

 

「ピアノの古典楽派の最後の代表者であると同時に、新時代の開拓者」

 

と述べている。

 

 モシェレスは、モーツァルト、ベートーヴェン、フンメルを大変尊敬し、特に2回に渡るフンメルのパリ公演の際には様々な手伝いをしている。

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フンメルと関係のあったピアニスト−2 タールベルク

フンメルによって集約されたウィーン奏法は、その代表的な著作『ピアノフォルテ奏法の理論的・実践

的な指針詳述』(1828年出版)に示されていることは何度も述べてきたが、フンメルは、ピアノの教育者としても傑出していたらしく、多くの弟子の中では、とくにタールベルクが有名である。

 

 

 

タールベルク Thalberg, Sigismund 18121871tarlb001

 

1.学習・師事歴

 スイス生まれの作曲家。貴族の出だが、私生児として生まれたと考えられている。

 10歳の時に、ウィーンで外交官になるための準備教育と共に音楽を学んだ。音楽の基本的な手ほどきをしたのは、宮廷歌劇場のファゴット奏者ミッタークである。音楽理論はジーモン・ゼヒターに、ピアノはフンメルに師事した。その後、パリにてJ. P. プクシスとフレデリック・カルクブレンナーに、ロンドンにてモシェレスにも師事している。

 

2.作品とその手法

 16歳の時に、最初の作品を出版している。ヴィルトゥオーソの慣習に従い、自ら演奏するために、当時のオペラのアリアに基づくファンタジアを数多く作曲した。その際、メロディーはピアノの中音域に配置し、その上下に対位声部をおいたり和声づけを施す手法が多用されている。「10本の手をもつタールベルク」という戯画が残されているほど技巧に長じていた。しかし、タールベルクは大仰な演奏スタイルに偏重していたわけではなく、「ピアノによるベル・カント」を志向していた。オペラのアリアに基づくピアノ教育のための作品《ピアノによる歌の装飾技法》から、そのようなタールベルクの姿勢がうかがえる。 (以上 PTNAより)

 

3.活動

タールベルクは、フンメルの弟子の中でも最も若いひとりで、フンメルの門に入ったのは14(1826)の時であった。1830年からは早くもピアニストとしての経歴を開始し、ヨーロッパを演奏旅行した。1835年にはパリで、イギリス奏法の流れを引くカルクブレンナーにも学び、パリでも名ピアニストとしての名声を確立した。1837年にはリストと競演し、以後、生涯を通じてのライヴァルとして名声を博した。事実、19世紀の中ごろのヨーロッパで、タールベルクはリストと声価を分けるほどのピアニストだったのである。1855年には、ブラジルとハバナに演奏旅行し、その後の数年をアメリカで暮して、圧倒的な名声を博した。

 

タールベルクは音楽雑誌上でリストと論争したが、一貫してタールベルクを支持したベルギーの音楽学者フェティスは、彼の演奏について、「クレメンティに由来するイギリス奏法の絢燗たるテクニックと、モーツァルトからフンメルに受け継がれたウィーン奏法の歌うスタイルとが結合されて、フレージングや表情が、火花のようなパッセージ・ワークと共存し、融合している」と評した。

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フンメルと関係のあったピアニスト−1 ヒラー

モーツァルトにピアノを学んだフンメルは、すでに少年時代からピアノの神童という声価を得ていたが、とくにピアニストとしての名声の絶頂にあったのは、ヴァイマールの宮廷楽長時代の1820年代から30年代にかけてであった。 

フンメルは、当時もっとも名声を博したピアニストのひとりだった。同時代者で彼の弟子の一人であるフェルディナント・ヒラーによれば、

「タッチの軽いウィーンのピアノをよく歌わせ、大事な声部をくっきり浮き上がらせて、確実な指使いでむらのない明澄な響きを作り出した」

という。


 ヒラーはフンメルに連れられて死の直前のベートーヴェンを見舞っている。




そのフェルディナント・ヒラーについて
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フェルディナント・ヒラー(Ferdinand Hiller, 18111024 - 1885512日)はドイツのロマン派音楽の作曲家。フランクフルト・アム・マイン出身。

 

ユダヤ系の裕福な家庭に生まれる。アロイス・シュミットに師事し、10歳で最初の作曲を手懸ける。その後ヴァイマルに行ってヨハン・ネポムク・フンメルに師事し、ゲーテの知遇を得る。フンメルのもとでヒラーはピアニストとして大成長を遂げ、1827年にはウィーンでベートーヴェンに面会し、最初の弦楽四重奏曲を作曲。1829年にパリを訪れ、1836年まで滞在する。父親の訃報によってフランクフルトに引き返す。183918日にミラノで歌劇《 La Roinilda》が初演される。この頃オラトリオ《エルサレムの崩壊 Die Zerstorung Jerusalems》にも着手する。

 

その後ライプツィヒを訪れ、かねてからの親友フェリックス・メンデルスゾーンと旧交を温め、1843年から1844年までゲヴァントハウス管弦楽団を指揮、自作のオラトリオも初演した。宗教音楽の研究のためにイタリアを隈なく訪ねた後、1845年に歌劇《夢 Ein Traum》を、1847年には歌劇《コンラーディン Conradin》をそれぞれドレスデンで初演した。指揮者として1847年にデュッセルドルフを、1850年にケルンを訪れ、1851年と1852年にはパリのイタリア劇場でも指揮を執った。ケルンでは指揮者として采配を振り、ケルン音楽院の院長に就任。1884年に勇退し、翌年の暮れに他界した。

 

ヒラーは頻繁にイングランドを訪れている。ロイヤル・アルバート・ホール落成式のための作品を作曲したほか、《 Nala》と《 Damayanti》はバーミンガムで演奏された。1871年には、自作による一連のピアノ・リサイタルがハノーヴァー・スクエアルームで催された。

 

ヒラーは完成された演奏技巧を身につけたピアニストであり、作曲家としてはあらゆる楽種を網羅しているが、作品はだいたい無味乾燥である。優秀なピアニストにして音楽教師であり、時には音楽を主題として健筆をふるった。200曲にのぼる作品には、6つのオペラと2つのオラトリオ、いくつかのカンタータや数多くの室内楽、かつては人気を集めたピアノ協奏曲1つがある。ショパンと親交があり、作品を献呈されていることや、ショパンをメンデルスゾーンとともにライン音楽祭に招待したことでも有名。

(以上 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

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フンメルとピアノ奏法について-8 フンメル自身の言葉(アクション別の演奏法)

 ここまで、ウイーン式アクションのピアノとイギリス式アクションのピアノの特徴概要を紹介してきましたが、今回はフンメル自身の言葉でそれぞれの演奏法を紹介してもらいます。

 フンメルが1828年に刊行した当時のピアノ奏法バイブル「ピアノ奏法の理論と実践詳論」から 第三巻第4章「様々なピアノの適切な弾き方−ドイツ式(ウイーン式)アクションとイギリス式アクションについて−」全文を翻訳し紹介します。

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section1
 いかに優れた演奏者でも、慣れないアクションの楽器を弾く時にはしばしば弾きにくい思いをするものである。そのためピアノのアクションについて、少し説明をすることは重要なことと考える。

section2
 一般的にピアノには2種類のアクションが存在する。ひとつはドイツ式(ウイーン式)アクションで弾きやすいもの、もうひとつはイギリス式アクションで弾きにくいものである。

section3
 言うまでもなく、この二つのアクションにはそれぞれ特有の長所がある。ウイーン式アクションはどんな可憐で繊細な手でも扱うことができるであろう。ウイーン式アクションであれば、演奏する者は様々なニュアンスでの演奏が可能で、また敏感に明確に音を出すことができる。そのフルートのような豊かな音色は、特に大きな会場でのオーケストラの伴奏から見事に浮かび上がってくる。さらに演奏に気を取られすぎて、流暢な音の流れを壊してしまう、というようなこともないであろう。しかも、この楽器は耐久性もあり、価格もイギリス式アクションの物より半分の値段で売られている。
 ウイーン式のピアノは、その特性に合わせて扱う必要があり、腕全体の重みで鍵盤を激しく突いたり叩いたりすることは許されず、鈍いタッチも許されない。むしろ音の力強さは指の弾力のみで生み出す必要があるのだ。例えば、厚い和音はすばやく分散して演奏するのが通常であり、それが全ての音を一度に強く打鍵したときよりもはるかに効果的である。男性の手には、浅めでも薄めでもないタッチの楽器を選ぶことを薦める。
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フンメルの愛用していたウイーン式ピアノ(ワイマールフンメル記念館)

section4
 イギリス式のアクションは、音の持続性と豊かさという点ではもちろんその利点を認めざるを得ない。しかしウイーンのピアノほどには完成の域には達していないというべきである。タッチははるかに重く、鍵盤は非常に深く沈むため、連打する時にはハンマーがすばやく動作しないからである。
 このようなピアノにまだ慣れていない人は、深く沈む鍵盤や重いタッチに決して惑わされてはならない。むしろ、無理なテンポで演奏せず、いかに速いフレーズやルラード(装飾的旋律)も、いつもの調子で軽快に弾かなければならない。力強く演奏すべきところやパッセージも、ウイーン式ピアノほど多彩な音のニュアンスが備わっていないため、仮に激しく打鍵したとしても、指にもともと備わっている力強い弾力性から得られる音に比べるとより強い音が出せるという訳ではないのである。
 慣れないうちはイギリス式ピアノに少々違和感を覚えるかもしれない。特にf(フォルテ)でルラードを弾く時には、鍵盤を底まで押さえるのでなく、見かけだけにとどめなければならないからである。そうしなければ、「弾く」という行為にばかり気を取られ、完璧に演奏するための負担は倍になってしまうであろう。しかし、このピアノで「歌わせること」ができれば、その豊かな音色が長所となり、特の魅力と美しい和声を奏でることができる。
 ただし、イギリス式アクションのピアノは、小さい部屋の中では非常に良く響くのにもかかわらず、大きな会場で演奏すると、音の性質が変化し、複雑なオーケストラ伴奏を伴うときにはウイーン式ピアノほどには音が通らなくなる。私の考えでは、太くて豊かな音色がその要因であるように思われる。

(フンメル著「ピアノ奏法の理論と実践詳論」 第三巻 第4章「様々なピアノの適切な弾き方−ドイツ式(ウイーン式)アクションとイギリス式アクションについて−」より)
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 こうしてみると、フンメルはウイーン式アクションのピアノを好んでいたことが判ります。現代のウイーン式ピアノというとベーゼンドルファーがありますが、これとて現在ではイギリス式と変わらないシステムであり、ウイーン式の主流というのはないと思われます。古楽器、オリジナル楽器としての演奏のCDも多いですが、その場合はウイーン式のヴァルター製や初期のベーゼンドルファーやそのレプリカが多いですね。
 当時はもっと事情が違っていたのでしょうか? 今、ホールでの演奏会でこの手のウイーン式ピアノで演奏すると、オーケストラに音が飲み込まれてしまって、聞こえなくなってしまいます。

 ちなみにショパンもウイーン式アクションのピアノを好んでいたようで、プレイエル製、エラール製などの名前が挙がってきますね。
 
 二人の作品の共通点は、装飾が多く、繊細なメロディーが多いことでしょうか...
 

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フンメルとピアノ奏法について-7 イギリス式ピアノ

前回はウイーン式ピアノの特性の一般的なものを紹介したが、今回はイギリス式ピアノについての説明を照会します。

 

イギリス式のピアノはウイーン式のピアノに比べて様々な点で異なる。音域は5オクターブ半(Ffc4)で、ウイーン式より幾分広く、ウナ・コルダとダンパーを操作する2つのペダルをもつ。楽器は一般的に大きくてかつ頑丈に作られ、今日のグランド・ピアノのように高音域の弦にはダンパーがついていない。ダンピングによる一般的効果はウイーン式のピアノに比べてかなり鈍く、音の透明感にも欠ける。イギリス式ピアノはアクションがずっと重かったため、ウイーン式ピアノになれた者からはかなり批判されていた。しかし、イギリス式ピアノはその長所や特殊性(異なるピッチによる音の多様性など)から、イギリスのピアノを知るようになったハイドンやドゥシェックによってその特性が活かされた。

(ジェフリー・ゴヴィエ)

フンメルとピアノ奏法について-6 ウイーン式ピアノ

  さて、フンメルとピアノ奏法について-5で紹介した本で、ピアノという楽器について学ぶと、ピアノが独奏楽器として独立したのは、18世紀も後半に入ってからであることがわかる。この時期から新しい楽器の音に魅せられた音楽家たちの創作活動が活発になり、同時に作曲家たちはまだ不完全である当時のピアノに対して、音量、音色、音域、演奏法などを柔軟に駆使し、可能性を求めていき、またピアノ製作者たちもその改良に努めていった。モーツァルトの文献、特にシュタイン製ピアノについて言及した手紙にはその辺りが良く理解できて面白い。


ウイーン式ピアノ

 フンメルの時代もピアノはま゛進化を続けていた。当時はイギリス式とウイーン式の2つの主流があったようで、フンメルはウイーン式のピアノを愛用していたが、彼の最初期のソナタ(Op.2a-3、1792年)のピアノの音域は5オクターブ(FF-f3)であり、モーツアルトのピアノ曲の音域とと一致している。
 フレームは木製で金属製に比べると強度の問題で弦は細く、ハンマーも小さく、柔らかい皮で覆われていた。一方ダンパーは最高音までつけられていたため、アーティキュレーションが非常に明瞭であった。そのため陰影、変化に富んだメロディー、細部の装飾の表現に優れていた。
 現代で言うペダルはなく、膝レバー(モーツァルトのヴァルター製ピアノも膝レバーがついていた)でダンパーを操作した。アクションも軽く、反応もすばやく、直接的だった。

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フンメルの命日

ヨハン・ネポムク・フンメル
Johann Nepomuk Hummel


師・モーツァルトと同じように演奏旅行で始まった彼の音楽キャリアは、ウイーン時代には売れっ子作曲家として、その後はピアニストの巨匠として多くの尊敬を集め、音楽は後の世代に多大な影響を与えた。

ワイマールの宮廷楽長の地位にあり、ゲーテらと交友を深めながら執筆活動、著作権の確立への運動、後輩の育成に力を注いだ。

晩年は、健康を崩し、闘病しながら自叙伝や自作品の整理、編曲出版などの仕事をしていたが、

1837年10月17日 

フンメルは、妻・エリザベートと2人の息子を残して亡くなった。
モーツァルトとは違い、莫大な遺産を残したといわれている。DVC00536bis













(写真:死の直前の時期のフンメル F.Prellerによる鉛筆画 1837年)
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フンメル研究ノート

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フンメル研究ノートというサイトは、クラシック音楽鑑賞を趣味とする一個人が、ヨハン・ネポムク・フンメルの音楽の魅力に取り付かれ、永年かけて収集した情報・データをメモ代わりに掲載している「フンメル研究ノート」のレビューページにあたります。フンメル研究ノートは、あくまでもCD解説、書籍、辞書などから集めた情報を盛り込んだ継ぎはぎの情報を集めたものですので、事実とは違っていたり、解釈が違っている箇所も多いと感じていますが、もっと多くの日本人にフンメルの音楽の魅力を知ってもらいたいと思い公開しています。もっとフンメルの情報が知りたい。またはご興味がある方は、本サイト「フンメル研究ノート」を覗いてみてください。よろしくお願いいたします。

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