フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

エピソード

【打込音源】フンメル/ファゴット協奏曲 ヘ長調,WoO.23(S.63)

今回はだいぶ前に打込んだデータをGARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 4で鳴らしてみました。

 1996年年末 やっと念願のWindows95を手に入れ、年明けて真っ先に買ったソフトがローランドのミュージック太郎? という入門用音楽ソフトでした。
 そこにはスコアグラファー・ライトという楽譜ソフトとVirtual Sound canvasというソフトシンセが付いていて、ネット上のmidiデータをそれなりにリアルに再生してくれるので感動した覚えが(今聞くとチープ)。
 そこで折角楽譜ソフトもついているからと考えたのが、自分で何かを打込んでみよう(創作ではなく、再現)と思い、当時はまだ日本にはなかったAmazonの米国のサイトを検索して、フンメル関係の売っている書籍、CD、楽譜を片っ端から買い込んでいきました。

 ネットショップの情報自体もいい加減かつ説明不足な面もあり(自分の英語力は棚上げ)、作曲家フンメルの本だと思って買ったものが、ドイツ・フンメル人形の写真集だったり(笑)、余計な勉強代も払いました(笑)

 楽譜もいくつか買って、特に日本では手に入らないCDや楽譜も買いました。その譜面の一つがファゴット協奏曲。当時は1種類だけウイーン旅行の際に手に入れたマイナーレーベルのCDを持っていましたが、素敵な曲なので是非この曲を打込んでみよう、と思い購入に踏み切りました。サイトにもorchestra and Bassoon, solo partと書かれていたので、スコアだと思って買いました。

 届いたのは一段のファゴットパート譜のみ・・・・
あれ? でもオーケストラパートはAmazonのどこを探してもありませんでしたのであきらめて、オーケストラパートは無謀にも「耳コピ」で挑戦しました。

 それで出来上がったのがこれです((+_+))

 今回は久々にこのデータを読み込み、GARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 4で鳴らせてみると、変なところもあるけど、「意外とできてるんでは?」と思いました。

 プロではないので打込みも耳コピも不完全極まりないですが、打込み始めた頃の記念すべきデータということでYouTubeで保管しておこう、と厚かましくもアップしました。

 第3楽章なんかは意外といけてるかな〜なんて思っています。
 第2楽章のカデンツァは僕のオリジナルですが、ヘンテコ極まりないけど、今回あえて手を加えたり直したりはしませんでした。

 YouTubeの映像データにする際の楽譜は、今の楽譜ソフト「Music Pro for Windows 后廚midiデータを読み込んだものなので、見にくい感じになっています。

 そんな曲です(笑)

Sequenced Music
Johann Nepomuk Hummel
Grand Concerto for Bassoon in F WoO.23,(S.63)

This sheet is not in the original.
View from the sequenced data by Daw application created.

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Naxos Japan ベートーヴェン&リース師弟の4コマ漫画「運命と呼ばないで」

運命と呼ばないで

Naxos Japanさんの
【ベートーヴェン&リース師弟の4コマ漫画「運命と呼ばないで」!】クレメンティがやってキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!の回をご紹介。

 http://naxos.jp/special/no_unmei
220px-FerdinandRies

フェルディナント・リース(Ferdinand Ries, 1784年11月28日 - 1838年1月13日)はドイツのボン出身の作曲家。

ベートーヴェンの弟子であり、師の回想録を出版した。主な作品には8つの交響曲、ヴァイオリン協奏曲、8つのピアノ協奏曲、室内楽曲などがある。

2008年1月 執筆者:実方 康介ドイツ、ボン生まれのピアニスト、作曲家。父はヴァイオリニストで、一時期ベートーヴェンの師でもあった。

フェルディナントは父のもとで研鑽を積むなどしたのち、1801年にベートーヴェンを訪れ、秘書や写譜の仕事などをするようになった。

1838年にF.G.ヴェーゲラーとともに著した《ベートーヴェンに関する伝記的覚え書き》はベートーヴェンに関する最も古く、重要な資料の一つであり、

音楽史上では「ベートーヴェンの弟子」として認識されることが多い。NAXOS JAPANでの連載は、このリースの回想録に基づいている。


 

1月23日(1752年)は、クレメンティの誕生日

今日はフンメルのピアノ演奏の師であるクレメンティの誕生日。同じ師匠のモーツァルトのライバルと言われた音楽家です。

今回はピアニストで、多数の著作もある久元 祐子(ひさもと ゆうこ)さんのWebページの記事が判り易いので紹介・転用させていただきます。
ちなみにモーツァルトとの関係として書かれています。フンメルとの関わりは過去の記事をご参照ください。

以下、久元 祐子 公式サイトより
「モーツァルト」の項、「同時代の作曲家」〜クレメンティ〜 の記事紹介。

ロンドン楽壇の大御所
ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752 - 1832)は、ローマの銀細工師の息子として生まれました。9歳の時には早くもオルガニストとなりましたが、14歳のときイギリスに渡り、ロンドンでチェンバロなどの鍵盤楽器奏者、作曲家としてデビューしました。クレメンティは、ピアノのためのソナタ、交響曲、協奏曲、室内楽を書きましたが、作曲のみならず、楽譜の出版、ピアノの製造など幅広い音楽ビジネスの世界で成功を収めました。
自分が作曲した作品を楽譜として出版し、できるだけ沢山の人に弾いて貰おうと考えたのでしょう。やがてピアノの製作にも乗り出します。ピアノを大いに普及させて、彼自身の作品を彼自身の出版社で出版し、彼自身の会社の楽器で弾いて貰うという、相互に密接に関連した仕事のやり方を作り上げたわけです。できるだけ沢山の人に弾いて貰うためには、初心者にも簡単に弾ける作品も必要でした。
また、ピアノを学ぶ人のためのエチュードの作曲にも熱心でしたが、とりわけ全部で100曲から成る《グラドゥス・アド・パルナッスム》は、近代的なピアノ演奏技術を確立した、いわば彼のピアノ演奏思想を集大成したとも言える作品です。コンサートを定期的に開催する協会も設立し、文字通りロンドン楽壇の大御所として、長い音楽人生を送りました。
 
クレメンティの作品
クレメンティのたくさんのピアノ曲の中でとりわけ有名な作品が、「ソナチネ」です。ソナチネ・アルバムには、1798年に出版された作品36の6曲のソナチネが収められています。とりわけその第1番は、ピアノを学習される人なら誰でも一度は練習すされる曲でしょう。
しかし、クレメンティは、ソナチネだけの作曲家ではありませんでした。クレメンティはチェンバロやピアノのために作品を書いた時期は、半世紀以上にもわたっています。
また、その価値も決して二流ではありません。1784年に作曲されたと思われる、ヘ短調作品13の6のピアノ・ソナタは、ホロヴィッツの名演で知られまするが、ベートーヴェンの世界を先取りしているように思えます。全部の楽章が短調で書かれたこのソナタは、全体を厳しい緊張感が包み、同時に豊かな響きとしみじとした情感に溢れています。ホロヴィッツはクレメンティのピアノ・ソナタが好きだったようで、このほか、作品33の3、作品34の2などの作品を録音しています。
モーツァルトとの出会い
ウィーンの王宮
クレメンティモーツァルトとの出会いはただ1回だけで、それは不幸なものでした。
1781年の12月24日、皇帝ヨーゼフ2世は、王宮(右の絵)宮殿の一室でモーツァルトクレメンティを引き合わせました。モーツァルトがまだウィーンに出てきたばかりの頃でした。モーツァルト自身の手紙によると、クレメンティはソナタを1曲弾き、モーツァルトは何か変奏曲を弾き、その後、かわるがわるそのとき与えられた曲を弾いたりしたようです。
競演が終わった後の二人のお互いの印象は対照的でした。モーツァルトはお父さん宛の手紙の中で、「クレメンティは、素晴らしいチェンバロ弾きだが、単なるいかさま師で、趣味や感情のひとかけらも持っていません。要するに彼は単なる機械的演奏家なのです。」と手厳しく批判しましたが、クレメンティの方は、モーツァルトのこのときの演奏について後に「私は、あのときまであれほど魂のこもった優美な演奏を聴いたことがなかった」と回想しています。
クレメンティがこのときひいたソナタは、 作品47の2 でしたが、モーツァルトはこの曲の第1楽章のテーマを拝借し、オペラ魔笛の序曲を作曲したのでした。この引用について、クレメンティを嘲り、皮肉ったのだという見方もあります。
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以上 wikiの原稿より面白いですよね。
では、最後に彼の「大交響曲」を聴いてみてください。ピアノ教師だけではない彼の意外な力量をご理解頂けるでしょう。
この交響曲は、ハイドンの来訪時に対抗するかのように別の連続コンサートで演奏されたようです。

Muzio Clementi - Symphony No.3 in G-major "The Great National"

 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−11.最後の10年と死

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 1828年に大公カール・アウグストが無くなってからは、実質上は新大公としてカール・フリードリッヒが統治していたが、フンメルの崇拝者でピアノも学んでいたフリードリヒの妻マリヤ・パヴロヴナ公妃が、フンメルへの多くの支援を強化されることとなった。フンメルとは何かと馬が合わなかった管理官のシュトロマイヤーが引退を余儀なくされ、先代の愛人的存在でワイマールで長期滞在していたソプラノキャロライン・ヤーゲマンも権力を失っていった。こうした状況かになってもまだフンメルは音楽家たちの生活改善、環境の整備についての提案と要求をし続けていた。

 また、1828年という年は歴史的な出会いもあった。この年の演奏旅行は比較的短期間であったが、ベルリンからワルシャワ方面へ向けてのみのであった。このワルシャワで若い才能豊かな青年・ショパンと出会っているのだ。
chopina ショパンは、自分を評価してくれている地元の人たちの意見と今の自分の音楽が本当に現代の多くの人たちに受け入れられるのかどうかと悩んでもいる時期であった。そしてフンメルの演奏を聴いて確信できた。自分は正しい、と。
 フンメルはこの青年の才能を高く評価し、「今のまま自分を信じて続けなさい」と言った。ショパンのその後のピアノ協奏曲にはフンメルの影響が大いに認められる。フンメルとショパンは後年ウイーンでも再会しているが、この時はフレンドリーなフンメルの態度を友人に綴っている。
「フンメルじいさんはとても人懐っこい良い人です」

 1829年は演奏旅行は行わず、家族でカールスバートのスパで休暇を取って、イギリスへの彼の訪問の翌年に向けた準備をはじめた。イギリスでは1822年を初めてとして何度もフンメルを招待していた。フィルハーモニック協会の会員の間で、フンメルは巨匠としての評価が高く、知名度は高かったのだ。またこの年も招待状が届いていた。1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となったため、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行ったのである。
 
 フンメルはロンドンに行く前にパリに寄って2回ほどコンサートを開催したが大変な成功を収めた。ロンドンでは、公演に先駆けて、同郷の友人たちでもあるモシェレスやカルクブレンナーが事前告知を大々的に行ったため、歓迎ムードに包まれた。様々なゲストが参加したフンメルのコンサートは評論家を唸らせた。また、当時の有名ソプラノ歌手:マリア・マリブランからの依頼を受けて作曲した、ソプラノとオーケストラの為のチロリアンのテーマによる大変奏曲(Op.118)を初演し、大喝采となった。
 フンメルはロンドンに3カ月滞在したが、その間女王のために演奏したり、モシェレスの収益のためにゲスト出演したりと駆け回った。
■「チロリアンのテーマによる変奏曲」Op.118
 

 今回の演奏旅行がフンメルのピークであった。以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。その時はパフォーマンス的にも人気絶頂にあったパガニーニと滞在が重なったこともあるが、既にリストや弟子のタールベルク等の若い世代のピアニストが「ショーマン」的にも成功を納めていたのである。またフンメルの技術が衰えたという指摘もあったり、楽曲が古典的であるため、古臭い古典派の音楽家(リスト談)、という印象が強くなっていったようである。
Hummel009 それでも1833年のロンドンへの訪問は、ドイツのオペラ楽団の指揮者としての訪英となった。ここでは懇意にしてくれていたイギリス国王夫妻の為の記念演奏会でモーツァルトやウエーバーのオペラを指揮した。お礼としてウインザー城にも招待された。
 自分の演奏会は計画していたよりも人が入らないため、多くがキャンセルされてしまった。それでも1回のコンサートとフィルハーモニック協会のために、クラーマーと共にゲスト出演し、新作のピアノ協奏曲(Op.posth.1)を披露したりもした。しかし、モーツァルトの幻想曲を連弾でひく際には、調子が悪くなり、途中で止めてしまうという悲しいハプニングもあった。

■最後の出版作品となった楽曲
ピアノとオーケストラの為のロンド「ロンドンからの帰還」,Op.127
 

 この1833年のツアーが演奏家としての最後のものとなった。しかし、フンメルがワイマールでの職位があり、収入が減るということはなかった。しかし健康はだんだんと蝕まれていって、1834年以降は殆ど療養生活にはいっている。調子のいい時は庭いじりしたり、ピアノを弾いたり、訪問者への記念帳にサインしたり、という生活だった。ただし必要なワイマールでの職務は続けていた。
Hummel3 1837年3月、ピアニストとなっていた長男のエドヴァルトが父のピアノ協奏曲を弾いたコンサートに参加した。これがフンメルの最後の演奏会となった。
 フンメルの健康は夏に入るとさらに悪化していき、寝たきりになってしまう。そして家族に看取られながら1837年10月17日に亡くなった。

 彼の死の三日後に葬儀が執り行われたが、そこではフンメルのカンタータが演奏され、追悼式典ではモーツァルトのレクイエムが演奏された。彼の死のニュースはヨーロッパ中を巡ったが、ベートーヴェンの死と比べると静かなものだった。これは古典派音楽の終わりを告げるものであった。

5f431 ワイマールはフンメルの功績をたたえ、遺族に多額の年金を保証した。またフンメルは家族に膨大な財産を残した。これは師匠のモーツァルトの生活を知る人の反面教師であったのだろうか? その性格とともに質素な生活を好んで無駄遣いせず、計画的な資産管理を行ったためである。おかげで未亡人となった妻:エリザベートは何不自由することなく、夫との楽しかった過去を思い出しながら、フンメルの死後45年も長生きした。

 フンメルの死後、彼の音楽は急速に忘れられていった。19世紀後半、ロマン主義と新しい音楽の波に追いやられ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという偉大過ぎる巨匠の陰に埋もれていったのである。  しかし、近年のフンメルの再評価は、様々な発見をもたらすようになった。彼の残した音楽の大半を聴くことができるようになった我々は、貴重な時代を生きているといえよう。
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−10.ベートーヴェンとの別れ

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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Portrait-of-Beethoven-by-Arthur-Paunzen
  フンメルは1826年にウィーンで楽友協会会員に選出された。また、長年の友人でもあり、若い時にはライバルでもあったベートーヴェンの体調が優れず、翌年早々には危ないのでないかという噂を聞いていたため、1827年にベートーヴェンとも旧知の仲である妻・エリザベートと一番弟子のヒラーを連れてウイーンに行き、ベートーヴェンを見舞った。
 
この時の様子は、ヒラーの自伝・回想録に描かれている。それによると、1827年3月8日から23日までの間に4回ベートーヴェンの家に訪れている。過去の25年に渡る間には、様々な諍いがあった。生き方の違い、作曲法の違い、弟子たちの争い、誤解による絶交... しかし、この最後の会談ですべてを忘れる厚い抱擁があったという。妻・エリザベートは、ベートーヴェンを着替えさせ、体を拭いてあげたりするなど献身的な看病をした。筆談ではあったが、ベートーヴェンはフンメルに伝えた。
 
「ヨハン、君は幸せ者だね。成功して立派な弟子もいる。
そして何よりこんな美しい素晴らしい奥さんがいるんだから」
 
ベートーヴェンはフンメルの楽友教会の主催する慈善演奏会の自分の席を確保するように頼み、自分が死んだら記念演奏会にフンメルが出演して欲しいとも述べた。さらにエリザベートには、自分の髪を切って持っていて欲しいと伝えた。そして、フンメルには是非とも著作権の活動を頑張ってほしい、言い残した。
余談【ベートーヴェンの遺髪】
「鉛中毒説」の根拠となったベートーヴェン毛髪の研究は、1994年、ベートーヴェン研究家アイラ・ブリリアント氏とアルフレッド・ゲバラ氏がロンドンのサザビーズで毛髪を落札したのが始まりです。その後DNA鑑定の末、彼の病気に関してさまざまなことが判明したのですが、この毛髪を巡る歴史的な展開は「ベートーヴェンの遺髪」(白水社)という本にまとめられています。2人が遺髪を落札して、鑑定を依頼する話とは別に、170年の間、遺髪がどういう経路を辿って競売に付されたのかを探っています。
かいつまんで紹介しますと、1827年、ベートーヴェンが他界した時、弔問に訪れた音楽家のフンメルと弟子のヒラーが、遺髪を切り取りロケットに収めたのが「運命」の始まりです。ヒラーが死の前に息子のパウルに譲り、1911年、パウルが形見のロケットを修理に出した後、遺髪は数奇な運命を辿っていきます。その後遺髪が確認されたのは、ナチのユダヤ人迫害が強まった時代、デンマークの港町ギレライエの町医師のところでした。ユダヤ人であったヒラー家とナチ時代の迫害、そしてデンマークへの移動と、ベートーヴェンの意思とは関係なく、遺髪は歴史の流れに翻弄されました。最後に、ベートーヴェンが生前弟子に託した中で、自分の病気の解明というのがありましたが、この遺髪のおかげで、少なくとも彼を終生悩ませた下痢や腹痛に関して大方の原因が解明されました。(「作曲家の病歴2. ベートーヴェン」より)

23日の最後の訪問後の3日後、ベートーヴェンは息を引き取った。

フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、またシンドラーとベートーヴェン友人たちが主催した追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行った。
フンメルは第七交響曲のアレグレットからの変奏曲とオペラ『フィデリオ』のなかの囚人の合唱に基づく幻想曲を演奏したが、これは非常に多くの人感動を与えた、とヒラーは書き残している。
■ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番より第二楽章 

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−9.幸福なワイマール時代(3)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは執筆活動も行い、「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」等を執筆したが、そうした活動と絶え間のない弟子へのレッスン等に非常に多くの時間を取られるようになり、徐々に自作の作品の創造は減っていくことになる。
 もう一つは先にも触れた音楽家の著作権の保護の運動である。ベートーヴェンも頭を悩ましていた問題であるが、海賊版は作家に一銭の収入ももたらさない。それを撲滅するための運動であった。こうした活動を行った重要な音楽家としては史上初となる。

 こうした公務、執筆、著作権の活動があり、1824年は演奏旅行には出かけず、ワイマールに留まった。この年翌年のツアーの為の計画を練っていたフンメルは、長年の経験と知恵を絞り、行く都市に先行して大々的な宣伝活動を行うように広報活動をすることとしました。この役目にフンメルの崇拝者であるパリ音楽院監督だったケルビーニが買って出た。



Moscheles 当時のパリは、モシェレスカルクブレンナーらのようにドイツやイギリスからの若いピアニスト、その他多くの国と地域から演奏会に訪れる人たちで溢れる音楽界の華やかな中心都市となっていた。フンメルはそのパリに妻エリザベートと長男、弟子
Kalkbrenner
のヒラーを伴って、1825年にやってきた。4月にはラサールエラールで4回の公演を成功させた。ここでフンメルは実際には1814年に作曲されたピアノ協奏曲(第4番)ホ長調『告別』,Op110を新作として発表した。ただし、オーケストラは手直しし、トロンボーンの追加など改定した。ピアノパートもより華やかに、テクニカルに改定された。また、現在の原曲の構成を拡大し、最終版では1/5程がこの時期に追加された部分である。

 この年のパリでの演奏会は大きな賞賛を生み、コンサートのチケットの争奪戦は記録的なものだった。こうした功績から、翌1826年には現在でもフランスの最も名誉ある賞とされる『レジオンドヌール勲章』の対象者として、若いリストと争われました。聴衆はフンメルに充分な資格があるという意見が多かったため、受賞となった。
 こうした演奏旅行で得た実績と名声は各国で賞賛され、彼の肩書には、ワイマール白隼勲章、フランス学士院、ソシエテ・デザンフォン・ダポロン、ジュネーヴ音楽協会、オランダ音楽振興協会、ウィーン楽友協会の会員、という文字が並ぶ。またロンドンのフィルハーモニー協会の最初期の名誉会員にもなっている。
■ピアノ協奏曲第4番ホ長調,Op110『告別』より
 


 ワイマールでも様々な交流を行っている。ゲーテとは定期的に会い、ゲーテの家に呼ばれることも多かった。彼の家で私的な演奏会もしばしば行われており、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈している。
 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては、下記があげられる。
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB) 
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声) 
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失 
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失 
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum 

 1825年、旅に出なかった年、ワイマールに友人でもあるモシェレスを呼び寄せて、演奏会を企画した。その後、フンメルはわざわざ訪問してくれたモシェレスのために壮大な晩餐会を主催し、大公妃の前で二人で連弾も披露した。
 
 こうして、フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなしたことは前回述べた)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に演奏に、と活躍して町中から愛される存在であった。

 ゲーテと共にワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となっていった。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−8.幸福なワイマール時代(2)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは、毎年の休暇を利用してヨーロッパ各地への演奏旅行を計画した。
 1820年は、プラハからウイーンへの演奏旅行で、ここではフンメルの以前の作品(未出版で知られていない)作品を演奏した。
 1821年に彼はベルリンへ行き、プロイセン王フリードリヒの前で御前演奏をしている。さらにこの都市では楽長を務めていたオペラ作曲家のスポンティーニと交流を持った。
479px-John_field 1822年、フンメルは彼はロシアへの演奏旅行に出かけ、サンクトペテルブルグとモスクワ等を訪問した。ここではアイルランド出身でクレメンティの弟子でもあったピアノのヴァルトーゾ:ジョン・フィールドと交友を深め、連弾して楽しんだりした。フンメルはフィールドのノクターンに感化され、フィールドはフンメルの華やかな二重トリルやパッセージなどに影響されることとなった。 1823年には、イギリスへ渡り、ロンドン公演ロイヤルコートでのパフォーマンスで大熱狂の嵐となる。

 
 ロンドンからの帰りはオランダ経由となったが、様々な主要都市で自分の作品の海賊版が出回っていることにショックを受け腹を立てた。これがきっかけでフンメルは著作権の確立を目指して活動していくことになった。



 ワイマールのような芸術や音楽に理解のあるところでも問題は起きていた。当時ワイマールの管理官だったカール・シュトロマイヤーには、多くの問題点を提出している。しかし一方で、フンメルは精力的に劇場監督として舞台作品を取り上げ、「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられていた。フンメルによりレパートリーは変わり、モーツァルトをメインとして、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども取り上げられるようになっていった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。
 また、有名な音楽家の招聘にも尽力し、最新の音楽と演奏を聴くことができる環境をワイマールで整えていったのである。 

Niccolo_Paganini01 1829年の世界的ヴァイオリニスト:ニコロ・パガニーニの招待がその代表例であるが、来訪音楽家の演奏会、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たった。彼のオーケストラはそれほど大きくはなくても(弦楽器が各5、5、2、2、2に管楽器が各2の編成)、大きな技量を蓄えていくことができたのである。



 ワイマールは、プロテスタントとカトリックの両方の教会・信者が存在したが、​​フンメルは新たに教会音楽を作曲することはなかった。ただ、エステルハージ時代の多くの教会音楽を出版している。
 作曲活動としては、自らの演奏旅行のための作品に加えて、宮廷や自分が在籍したフリーメイソンロッヂの集会のためのカンタータ、出版業者からの依頼によって様々な作曲家の序曲や交響曲、協奏曲の編曲、エディンバラのジョージ・トムソンのためのスコットランド民謡の編曲などを受注した。この辺りはベートーヴェンとは違い、フンメルはあくまでも職業作家であったと言えよう。
【打込音源紹介】
■フンメル「選び抜かれた序曲の四重奏編曲集,S.107〜130」より
グルック(フンメル編曲) 歌劇『:「トーリードのイフィジェニー」序曲


 1820年代後半からは、大きな仕事に取り組むことで、自作の新作は激減していった。彼が時間と想像力を最も傾けたのはピアノ演奏法に関する著作の執筆であり、パリ・オペラ座からの作曲依頼を断るほどこの仕事に没頭していた。ただし、いずれにしてもその台本はフンメルの興味を引かないものであったようである。「ピアノ奏法の理論と実践詳論」は1828年に出版されるや否やヨーロッパ中でバイブルとして普及していった。

 もう一つは、悪徳出版社や海賊版の徹底排除に関する運動で、これは結果的に音楽の著作権に関する史上初めての運動、ということになるであろう。フンメルは海賊版によって、どれだけ作家たちに入るべき収入が失われていったかを身に染みて知っていたのである。この件はベートーヴェンらとも書簡を通して対話していった。
 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−7.幸福なワイマール時代(1)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは1817年の年末、1756年以来、ワイマールで楽長してきたバッハの名づけ子でもあるのミュラーが亡くなって以来、同職は空席のままとなっていた事を知った。当時のワイマール公国は、芸術的分野の保護・推進に手厚く、評判が高かった。かのヨハン・セバスチャン・バッハも18世紀の前半にはここで活躍していた。そして、エルンスト・アウグスト2世がこの宮廷を納めていた。

220px-Karl_august_von_sachsen-weimar 夫の死後、公爵夫人アンナ・アマーリア(エルンストの未亡人)が彼女の幼い息子カール・アウグストに代わって統治をするようになる。アンナは、作家で哲学者のクリストフ・マルティン・ヴィーラントの『黄金の鏡』を気に入り、1772年に2人の息子の教育係としてヴィーラントを招いた。教育係としての役職は1775年まで続いたが、それ以降も彼はヴァイマルの宮廷に仕えることになった。そうした教育のおかげで息子カールも教育・文化・芸術の発展に熱心に取り組んだのである。

250px-Christoph_Martin_Wieland_by_Jagemann_1805 カールの統治が始まって最初に行った事の一つに、二年前から面識があり、非常に尊敬していたヨハン・ヴォルフガング・ゲーテを、ワイマール公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も勤めた)に任命したことだ。1775年にゲーテがワイマールに来て以来、シラー(1787年にはワイマールに定住)やヘルダーといった、後の世にも名を残すことになるドイツ文学の巨人がワイマールを訪れるようになり、ドイツ古典主義文学の牙城になり一大黄金期を迎えたのである。 
 そしてカールの長男カール・フリードリヒはサンクトペテルブルクでロシア皇帝パーヴェル1世の娘マリヤ・パヴロヴナと結婚した。彼女は音楽を愛しており、音楽の分野でも著名な音楽家を集めたり劇場が充実していくなど、さらに文化芸術都市の発展に貢献したのである。


 フンメルが赴任してくるのは、この時代である。知名度、実績、作曲家・演奏家としての能力、そしてモーツァルトの直弟子で後継者....。1819年の初頭、フンメルにとっては成るべくしてなったワイマール宮廷の音楽監督である。ここでの契約はフンメルにとってもエステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。もちろんここで彼がしなければならない事は、演奏会、行事の運営、書類の整理、文化人、音楽家の招聘と接待、作曲、ゲーテとの交流等、盛りだくさんであったが、彼は大きな庭付きの家を与えられ、快適な家庭生活を満喫できる環境も与えられた。彼は生産的な音楽活動と、家族を守こと、という大きな希望を叶えることができたのであった。

 音楽愛好家の皇妃マリヤ・パヴロヴナは真っ先にフンメルに弟子入りしピアノを習った。その後、ゲーテと共にフンメルを訪れる音楽家が増えていくようになる。ツェルターやその弟子のメンデルスゾーン姉弟は、何度も訪れている。弟子入りしてきた本格的な音楽家は、ルイーズ・ファランク、フェルディナント・ヒラー、アドルフ・フォン・ヘンゼルトらがいた。シューマンなどもフンメルに師事するか悩んだらしい。

*余談*ウイーン時代にも多くの弟子を育てているが、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴァーは未亡人コンスタンツェ(幼少期の第二の母でもある)に押し込まれたみのであったが、面白いエピソードとしては、エステルハージ時代に同僚であったアダム・リストが才能ある息子を連れてきたが、あまりにフンメルのレッスン料が高くてあきらめたという。結局フランツ・リストはカール・ツェルニーの門をたたくことになった。しかし、リストは自分の演奏会などでフンメルのピアノ曲、協奏曲を何度も取り上げている。特にイ短調Op.85とロ短調Op.89は、リストのテクニックを存分に見せつけられる主要なレパートリーとなっていた。リストのウィーン、パリ、ロンドンでのデビューコンサートはすべてロ短調Op.89であったという。リストは後年になってもモーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、ツェルニー等の曲を弟子たちに学ばせていたという。

 彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであったが、ここでも契約は有利なものであって「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。1821年には自身の『ギース家のマティルデ』Op.100を改作して演奏している記録がある。

 ■フンメル 歌劇『ギース家のマティルダ』Op.100より二重唱

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−6.ヴュルテンベルクでの苦難

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 演奏活動に復帰したフンメルであったが、どうしても気がかりなことがあった。それは一家の大黒柱として、妻子を養っていかなければならない事、その為には不安定な演奏活動だけでは心もとない、何とか安定した生活を維持したい、と思うようになった。これは元来の彼の性質であったのであろう。ベートーヴェンとの違いは音楽性だけではなかったのだ。そうしているうちに以前短期間だが従事した事があるシュツットガルトのヴュルテンベルク宮廷楽団の楽長の職を得ることができた。条件は管弦楽団の総監督等の他に、年に2か月間は無休であるが、フンメルが演奏旅行に出かけても良いという条件が付けられていた。一方でフンメルが望んでいた収入よりはだいぶ少ない提示ではあり、迷うところではあった。それでも1816年の10月に新作オペラを上演し、ピアニストとしても新作の協奏曲(有名なイ短調Op.85であろうと思われる)を披露して、その資質をプレゼンテーションしたのである。これを見た王フリードリヒ1世は大いに喜び、直ぐに彼を楽長に任命したのであった。

◆ピアノ協奏曲 第2番 イ短調,Op85より
第三楽章ロンド・アレグロ


 しかし、不幸にもこのフンメルを高く評価してくれたフリードリヒ1世は、フンメルが就任して1週間ほどで急逝してしまったのだ。跡を継いだのは息子のヴィルヘルムであったが、彼は音楽に対する造詣もなく興味もなかった。父の死に対し、シュツットガルト劇場の閉鎖を要求して、2か月の喪の期間を強要したのだ。またフンメルに対しても何の興味を見せず、11月にはフンメルの役職に劇場支配人のバロン・フォン・ヴェヒターを任命してしまった。フンメルに言わせれば、このヴェヒターという人物は、「ベルグ州裁判所へのデンマーク大使の息子で、横柄な貴族だった。何よりも音楽関しては全くの素人だった」という。

 フンメルは、その才能と実績、その名声にもかかわらず、エステルハージ時代と同じ運命となってしまうのであった。
 

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 問題は、次々と現れた。フンメルはもともと自分の演奏旅行の際やオペラの上演でエリザベートを伴って、歌手として出演させる事を希望し、契約上も受け入れられていたはずだった。エリザベートは実際に何度かコンサートで歌ったのであるが、ヴェヒターは彼女に報酬を支払おうとしなかったのである。そこでもしもこのまま支払われないのであれば、彼女の出演は拒否させる事とした。これは明らかにフンメルを快く思っていなかったヴェヒターとその首謀者による政治的陰謀が絡んでいたと言われている。
 こうした扱いにはもう耐えられないとして、フンメルは1818年9月に辞表を提出した。しかしヴィルヘルム王によって却下されてしまう。ここから大変な労力を得てひとつひとつ辞任できる理由を提出、簡易的な裁判にまで及んだのである。こうした苦労を得てやっと6週間後に辞表が受理されることとなった。
 一方、シュトゥットガルトの聴衆は、彼の音楽的功績や才能を失うことを悔やんだ。後の時代になってもその後のフンメルの活躍を見ては、悔やみ続けたという。こうした民意と政治の不一致は、昔から存在していたのである。


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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−5.ウイーンでの活躍と結婚

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 1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。フンメルは音楽家としての本来の演奏や作曲といった活動を柱とすべくウイーンに戻ってから4年もの間こうした多忙な生活を続けていくことになる。

 1806年にベートーヴェンのオペラ『レオノーレ』の上演の際、フローレスタン役を担った有名な歌手:ジョセフ・レッケェルの妹:エリザベート・レッケェルと出会ったのは1812年、エリザベートが19歳の時であった。美しい歌声と美貌を持つこの若き歌手にフンメルは求婚し、結局翌年の1813年、エリザベートが二十歳になって結婚した。

 この事は再びベートーヴェンとの間に軋轢を生む結果となってしまった。ベートーヴェンはもっと以前からこのエリザベスの才能を高く評価し、また恋心を抱いていたと言われている。ベートーヴェンの遺品にあった宛先不明の「不滅の恋人へ」の手紙は、このエリザベートへ宛てたものだという説もある。
 *この辺りについては、以前にも記事を書いたので参照ください。

 ベートーヴェンも彼女に求婚したとする伝記作者もいる。ともかく、彼も彼女に思いを寄せていたことだけは間違いないであろう。しかしベートーヴェンにはブレンターノ嬢の存在もあったし、結局エリザベートはベートーヴェンではなく、フンメルを選んだのだ。当時はどちらが偉大という感じでなく、むしろフンメルの方が高く評価され、ベートーヴェンは異質の天才、と評価されていた。そのため「幸福な人生」を送るための選択として正しかったかどうかを見ると、この選択は決して間違いではなく、むしろ正しい選択だったと思えてくる。もちろんエリザベートがベートーヴェンを嫌いであったはずもなく、その才能も含めて大変に敬愛していたことは間違いない。

 とはいえ、ベートーヴェンとの接触がなくなったわけではなく、例えば1813年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め(*)、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。
 (*)1813年にナポレオンの敗北に伴い、ベートーヴェンのウェリントンの勝利の祝典曲が演奏されることとなった。フンメルは1813年12月の初演のために結成されたオーケストラの一員として、友情参加していた。他にはサリエリ、シュポア、マイアベーアとモシェレスらも参加していた。

 しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きくなっていった。

Hummel3 エリザベートとの結婚生活と共にフンメルの作曲家としての名声も活動も充実の一途をたどっていた。この頃にフンメルは二人の息子を授かった。長男の後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。カールは後にショパンのスケッチを書くことにもなる。しかし、この「職業作曲家」としてのピークを迎えようとしている時期に、若い妻は歴史に影響する助言をフンメルに与えることとなる。
 
elisabeth1 エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、
「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」
と助言したのだった。
 
 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
 そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べている。

「彼の演奏は、規律正しく優雅できらびやかで、素晴らしいものであった。特に先ほど演奏されたばかりのワルツの主題をとって、即興的に変奏を繰り返し、最後は華やかなコーダで締めくくった演奏は、驚くべきものだった」

 ベートーヴェンの方は耳の病気のため演奏活動から遠ざかることとなり、より作曲活動へ集中していくこととなった。逆にフンメルはピアノの巨匠として音楽界に返り咲くことになったのである。この時期からフンメルの作曲活動は、自身の演奏会用のピアノ作品が中心になっていったのである。
 
 早速、フンメルと彼の妻はトリエステ、プレスブルク、プラハを含むコンサートツアーに出かけた。1816年1月にはウイーンに戻り、代表作の一つ「七重奏曲 ニ短調、Op.74」を初演し、大好評となった。

七重奏曲 ニ短調、Op.74」(第1楽章アレグロ・コン・スピリート打込音源紹介)


  プラハでは、カール・マリア・フォン・ウエーバーと会い、ピアノリサイタルを聴いたウエーバーに大きな衝撃をもたらしている。ウエーバー自身もピアノのヴァルトーゾであったが、彼は劇音楽の分野で有名になる。フンメルもウエーバーの才能を高く評価し、彼の作品の編曲や、主題を利用した幻想曲やオーケストラ作品を作曲し、最後まで敬意を表していた。

 
 エリザベートの助言に従って行ったこのツアーでフンメルは確信した。演奏家の大家としての自分の立ち位置、と自分らしさを表現する活動の方法を。
 
 こうして、ベートーヴェンと同じ土俵での競争に終止符を打つこととなったのである。


 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−4.ハイドンの後継者として

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 フンメルの作曲の才能は、エステルハージ邸に在籍していた8年間の間に、宮廷で求められた新作の要求ら応える形で、合唱音楽や宗教楽曲の分野で革新的な発展を遂げた。 
 ここの楽団には優秀なミュージシャンが集められており、100人規模のオーケストラと歌手を抱えていたのである。ハイドンによる鍛え上げもあって、レベルの高い演奏する楽団としてウイーンでも名が通っていた。
 興味深いこととして、フンメルが楽長を務めていた当時、このオーケストラの第二チェロ奏者にアダム・リストが在籍していたことである。彼は1812年に生まれるフランツ・リストの父親である。

 フンメルの最初の仕事は、1803年にウィーンの宮殿で開かれたコンサートを取り仕切る事であった。当時こうした演奏会で披露された曲の一曲に、有名なトランペット協奏曲(ホ長調)がある。当時の巨匠アントン・ワイディンガーの技巧を活かすために書かれ、この曲はワインディンガーによって1804年の元旦にウイーンで初演されることとなった。
 フンメルの音楽は、モーツァルトの影響を前面に出した構成とメロディーで、軽快なアレグロでウイーン古典派最盛期の音を轟かせたのである。さらに、第三楽章では聴衆の受けを狙ってか、当時ヒットしていたケルビーニのオペラから人気のある現代的な行進曲のテーマを取り上げて、フィナーレを盛り上げた。
 この曲はエステルハージやウイーンの聴衆に賞賛をもって受け入れられた。

 フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。
 しかし順調という訳ではなかった。フンメルのエステルハージ邸での仕事は全てが分担制になっており、権限がない部分も多く、この楽団を上手く一つにまとめ上げることができないでいた。特に1766年からここで働き、先代から愛されていたハイドンは、謙虚で外交的で後身的で几帳面だったため、比較されるとフンメルの仕事はあまり評価されなかったようである。責任分担でいうと合唱団はフックスに権限が与えられていたり、ハイドンに比べると50歳も若く、機転の利かない点や新しい役割に対する不満も態度に表れていたという。
 
 一方では演奏家としては人気者だっただけに、ヨーロッパ各地から声がかかり、休暇を取って演奏旅行に出かけたいと思っていたが、なかなか許可が出ない事にも不満を漏らしていた。
 余談であるが、彼は若い割には太っていて、それなのに見た目とは違う見事な演奏をする者として、話題を呼び、彼のカフェでの演奏会などでは人が溢れんばかりの人気を博していたという。エステルハージ王子ニコラスは、自分が雇い主でもあるのにもかかわらず、フンメルのこうした活動に不満を持っていた。このフンメルの態度は明らかにハンドンの従順さとは違っていたのである。

 
 ニコラス王子は一方で、フンメルの一連の仕事には満足していた。それは彼の作曲したミサ曲であった。ミサの新曲の披露は王子の妻の命名日の記念行事としてハンドンによって始められた伝統の一つ。この伝統行事の為にフンメルは5曲のミサ曲を残したが、いずれもハイドンやモーツァルトの伝統を継承した対位法も含まれる厳格な大ミサ曲で、ニコラス王子はこの仕事に対して大いに満足だったという。
ミサ 変ロ長調,Op77 より第一章『キリエ』
 
a6ca5f337bf8f655c9eef68e74c97f17 ニコラス王子は、フンメルと同様に有名なベートーヴェンにもミサ曲の作曲依頼をして、1807年に初演された(ミサ曲ハ長調,Op.80)。それを聞いたニコラス王子はベートーヴェンの作品には好感が持てなかったらしく、「親愛なるベートーヴェン、貴方のこの作品は一体なんですか?」と言ったらしい。隣にいたフンメルはこの発言に「苦笑い」をしていたのだが、ベートーヴェンは猛烈に怒り狂い、フンメルの態度を罵倒した。これはベートーヴェンの勘違いで、フンメルが王子に同調して作品を嘲笑ったと思ったのだった。

「ヨハン、君には失望したよ。君の雇い主はたいそうな音楽趣味を持っているそうだが、僕には悪趣味としか言えない。それに君も同調するのか?」

 
 あるとき職務の一つであるハイドンの作品を整理する関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対する不満やねたみの一つの表れに過ぎなかったと思われる。

 そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。フンメルはウイーンの劇場の為にオペラや劇作品、バレエ音楽等を依頼されては提供していた。彼は人気作曲家であったのである。また父ヨハネスはこの頃ウイーンの有名なアポロ・ザールでの音楽監督を務めており、息子にせっせと舞曲の作曲依頼をしていたのである。アポロザールの為の舞曲集は6曲にも及び、その他のメヌエットなど多数の舞曲が作曲された時期でもある。こうした事実は、彼の本来のエステルハージ楽団での職務を怠っていると受け取られることとなった。当然であろう。
 
 そしてとうとう1808年のクリスマスのコンサートの後、ニコラス王子はフンメルを「準備不足」として更迭し解雇を言い渡した。しかし直ぐにハイドンの仲裁によって解雇は取り下げられ、再びこの職に就くこととなった。しかし、彼は自分の求める仕事や音楽を書くことを規制された状態で、自分を押し殺すように仕事をしていたが、長く続くはずもなく、やがては同じ道をたどることになる。1811年5月に再び解雇を言い渡され、フンメルは取り下げの懇願もしてみたが、今回は覆ることはなかった。
 
 この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。そのウイーンに戻り、作曲と演奏活動に戻ることとなったのである。

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−3.ウィーン帰還とベートーヴェン

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 フンメル家は、 1793年の春にウィーンで生活に戻って定住し始めた。ヨハンはアントニオ・サリエリアルブレヒツベルガーに合唱、和声法、対位法など、作曲家として必要な知識、理論を学んだ。サリエリやアルブレヒツベルガーは、この時期一足早くウイーンに住んでいたベートーヴェンも教えており、フンメルと全く同じであり、この時期にお互いを知る機会を得たものと思われる。ハイドンはオルガンについての多くを教えたが、しかしハイドンはフンメルに「君はピアノ演奏家として素晴らしい才能に恵まれているんだ。それはオルガンの奏法とは全く別のもので、このままオルガン演奏に必要な訓練は、君のピアノ演奏に悪い影響を与えることがあるから控えなさい」と助言したのだった。
 
 フンメルにとって作曲はますます重要な活動となっていったが、モーツァルトの死後、ピアノ演奏の文化が盛んになり、ピアノの巨匠の演奏を聴くことは、この時期のウイーンの大きなブームとなっていた。

 

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 ベートーヴェンとフンメルは、ウィーンのピアノ演奏家の最高の地位を争い、お互いが定期的に演奏会を開催した。また、お互いが相手の演奏会に出かけ、意見の交換や批評をやり取りしたのである。フンメルはまだ10代であったが、ベートーヴェンンはフンメルより8歳年上である。既にモーツァルトの未亡人の為の慈善演奏会や多くのブルジョア階級と付き合い、多くのパトロンを得ていたのだ。しかも就職という事に固執せず、芸術家の地位を高めようとしていた。
■フンメル/ピアノソナタ第3番嬰へ短調,Op.20(1803年)

 一方フンメルは、ウイーンへ戻ってきてからの10年間は作曲家として成長し、成熟していった時期でもあるが、収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。時にはコンサート・リサイタルを開催し、時には個人の家に行って演奏し、評判もあってウィーンのピアニストの第一人者として、忙しくなっていった。そしてスポンサーとなる人物には好き嫌い関係なく積極的に演奏し、自分の才能を惜しげもなく提供したのだった。
 これがベートーヴェンの理想とする芸術家と全く異なる生き方だったため、ベートーヴェンはフンメルに対して苛立ちを覚えている。ベートーヴェンもフンメルの才能を認めており、お互いに切磋琢磨して「芸術家」を目指して欲しかったのだろうか?
 
196800_340431202711578_1217203016_n それでも、二人は共にウイーンの中では最も有名で、最も優れたピアノの巨匠として君臨していくことになる。  双方の弟子たちの間では、ベートーヴェン派とフンメル派に分かれて対抗的な批判合戦にまで発展していったようだが、当の本人たちは、良きライヴァルとしてお互いが切磋琢磨している充実した時代でもあった。ベートーヴェンが弦楽四重奏を出版するとすぐにフンメルも出版する等、常に意識する関係となって行った。当時のウイーンでは演奏だけではなく、出版作品においてもこの二人が頂点となっていて、ピアノ三重奏曲等はもっとも人気の高い作品であった。作曲家としての評価はむしろフンメルの方が上だったともいえる時代である。こうした刺激し合う良きライヴァル、良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩(殆どがベートーヴェン側からの一方的な絶交宣言)で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。
フンメル/弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 第4楽章(1804年)
(3つの弦楽四重奏曲集、Op.30より)
 


 フンメルは早い段階でベートーヴェンの才能が巨大であることに気付いていた。そしてその才能に尊敬の念を抱いていたが、やがて自信喪失になっていった。ベートーヴェンの生み出す新作作品には、新しさと才能に溢れる、他の作曲家には見られない独自性があった。特に彼の交響曲は他の追随を許すものではなく、巨大な芸術として君臨した。
 フンメルは後の弟子:フェルディナント・ヒラーに次のように語っていた。
「ベートーヴェンのような才能と同じ道を歩くべきなのかどうか自信が持てなかった。自分には何ができるか判らなかったのだ。時がたつにつれ、ある考えに至った。“ベートーヴェンを追う必要はない。私は私らしく、自分に忠実で素直にあり続ければ良いのだ”と。」(ヒラーの回想録より)。
 
 自分らしく...
 結局、フンメルは交響曲を一曲も書くことはなかった。

 

 フンメルは1803年、ハイドンの推薦によって、若干24歳にしてシュトゥットガルト管弦楽団の楽長となった。しかし、この職は双方にとって満足のいくものではなかったため、わずか1年で契約を終了してしまった。ハイドンは今度は直ちに彼自身の雇い主であるニコラスエステルハージ伯爵に彼をコンサートマスターとして推薦した。
 ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いもあったりしたが、結局1804年4月1日にエステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であってハイドンは、職位こそ以前のまま楽長であったが、体力的な問題もあり、名誉職として在籍しているに過ぎない状態であった。

 このウイーンから南に50kmほどの壮大な宮殿では、楽団の統制、整備、訓練、楽譜の整理、そして新作の発表と演奏会など、やるべきことは山積みであったが、ハイドンはこの宮廷での職務を全うできずにいたため、自分の代わりとなる優秀な音楽家を探していた。ハイドンのこれらの仕事に就いたのは、フンメルの他に、副学長のフックス、第二コンサートマスターのトマシーニらであった。
 
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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−2.実り多きヨーロッパ演奏旅行

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 フンメルの演奏旅行のスタートは、12月の氷と雪の凶悪な条件の元でスタートした。こうした当時の旅行は過酷であり、現代のヨーロッパ旅行、ロマンチック街道、古城めぐり等と異なり、ロマンチックとは程遠いものであった。
 
 馬車をはじめ、時にはソリやコーチを利用しての旅は最悪であり、危険であり、大変不快なものであった。それは、モーツァルトの同様な旅行を思い出すと良い。怪我や盗賊、事故、腰の痛みや床ずれ、骨折....など不快の要素を並べつくしたような状態であった。各地での演奏会は、今でいうコンサート・リサイタル等とは程遠いもので、良い時は貴族の邸宅で、最高に洗練された聴衆は宮殿での演奏会であったらろう。しかし最低の場合は、地元の居酒屋での下品な酔ったお客を前に演奏しなければならない事もあった。一行の立ち寄ったおもな都市は、プラハ、ドレスデン、ベルリン(ここでのコンサートではモーツァルトと再会している)、ハノーバーとコペンハーゲンが含まれていた。大都市では数日、長ければ数カ月留まって、ヨハンの神童ぶりを披露していった。見返りは贈り物や金銭であり、これもモーツァルトの時代と変わっていない。

 1790年の春には、ハンブルクの港を経由して、スコットランドの首都エディンバラまで足を延ばした。海峡を渡る際は暴風に巻き込まれるという危機に見舞われたが、幸い全員無事に渡りきることができたのだった。
 
 若いフンメルはその驚くべき演奏技量で、エジンバラでは盛大な歓迎を受けた、引っ張りだことなったため、数カ月にわたって滞在している。その間は、御前演奏や特別計画されたコンサートに出演し、その他ピアノのレッスン依頼が殺到した。
 
 その後、父子はダーラムとケンブリッジ経由で南下し、ロンドンへ向かった。1990年の秋にはロンドンに到着し、そこから2年もの間滞在することとなる。

 
交響曲(プロローグ)
 時を同じくしてJ.ハイドンもロンドンに滞在していた。彼は興行主・ザロモンに招聘されて、あの有名なロンドン交響曲を披露し、熱狂的な歓迎の渦の中に合った。そんなハイドンはロンドンでかなり多くの演奏会を開催していたが、その中の何回かにヨハンに出演させ、ハンドンのピアノ三重奏をヨハンに演奏させたりして交流を深めた。ハイドンの三重奏曲は、王ジョージ三世と王妃シャーロットに献呈されたものもあり、御前でのヨハンの演奏に感動した王妃たちはヨハンを高く評価し、これがきっかけとなってフンメル父子のロンドン滞在が長く、成功したものとなったのだった。

 1791年には、ヨハンの最初の出版作品が世に出ることとなる。Op.1を与えられた「ピアノのための3つの変奏曲」は、ロンドンの民謡とドイツの民謡の旋律を取り上げて作曲された曲集である。この時期に実際にフンメルに会い、その演奏を聴いたロンドンの著名なビジネスマンで音楽愛好家ウィリアム・ガードナーは、次のように書き残している。

 「幼いモーツァルトを除いて、このロンドンを訪問した多くの中で、最も驚くべき演奏だった」

 【打込音源】ピアノのための3つの変奏曲集,Op.1 より
第2番 「ドイツ民謡」による変奏曲ト長調


Muzio_Clementi またこの時期、師匠のモーツァルトと競演した事で有名なクレメンティからピアノ演奏の総仕上げとも言うべき指導を受けている。モーツァルトからウィーン式演奏法を、ロンドン楽派の基礎なるクレメンティからは力強いイギリス式演奏法を習得した最初の演奏家となった。

 この時期のフンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の「3つの変奏曲」の出版予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。
 
 

 フンメル父子は、この後の演奏旅行の計画ではフランスを経由してスペインにまで及んでいたが、ロンドンからの帰路、オランダでフランス革命の渦に巻き込まれることとなり、父子が乗っていた船はフランス革命軍の戦艦に攻撃されてしまった。大砲の応酬の中、ヨハンの隣には、重傷を負った水夫がいたという。その他怪我をした人や重症を負った人がたくさん運び込まれてきた。そうした不安の中での船旅は最悪であったことだろうと想像がつく。

 幸い父子はハーグに入ることができ、約2か月間の避難生活を余儀なくされた。しかしフランス革命軍のアムステルダム侵攻によって、再び北方へと非難することとなる。その直前に避難場所の提供などしてくれた当時のオラニエ公の為に演奏会を開催して感謝の気持ちを伝えたのだった。

 そこから、彼らはケルン、ボン、フランクフルトを通って東に移動し、旅立ってから5年後、ウィーンの西100キロにある小都市リンツでフンメルの母親らと再会した。

 この旅行の間にヨハンは作曲家としてデビューし、またハンドとのより親密な関係を築き、多くの有力者たちの知遇を得ることができた。ピアノ演奏家としては、出発した当初とは比較にならない程の技量を身に着け、生涯得意としていた即興演奏は万人を惹きつけ、演奏家としての実績と名声を得ることができたのだった。

 フンメルがウイーンに戻ったのは1793年初頭。師匠のモーツァルトは1年と少し前に他界していた。

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−1.幼少期とモーツァルトとの生活

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 ヨハン・ネポムク・フンメル(以下ヨハン)はウイーンから東へ80kmほどの距離に位置するハンガリーの都市:プレスブルク(現在のスロバキア共和国の首都:ブラチスラヴァ)で、1778年11月14日に生まれた。

 彼の父親はヨハネス・フンメルという音楽家で、ヨハンが生まれる4か月前に三歳年上の妻:マルガレーテと結婚したばかりであった。

 父ヨハネスは、実業家の父(ヨハンの祖父):カスパルにウイーン留学へ送り出され、音楽の勉学を始めた。その後ヨハネスは優れたヴァイオリニストとなり、さらに24歳の時には新劇場の音楽監督を務めるほどになった。

 ヨハネスは当時ヴァルトブルク(プレスブルクの隣町)で音楽監督の職を得ていたが、より良い職場と環境を目指そうと思い、ヨハンの誕生の1年後には、家族でプラハへ移動した。

 彼らはすぐに彼らの幼い息子が、音楽のための特別な才能を持っていたと感じていた。4歳の時にはヨハンがバイオリンを習い、その後少しずつピアノのレッスンを開始し、歌のレッスンも直接父親から学んだ。ヨハンの才能は驚異的であり、7歳にして様々な曲を弾きこなすピアニストになっていた。



 1786年に、父ヨハネスは、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウイーンで、後のモーツァルトの『魔笛』でコンビを組むことになるシカネーダーが管理するアウフ・デア・ヴィーデン劇場の仕事に音楽監督として参加する機会があった。

andeawien102s ヨハンは神童と言えた。3歳のとき、その2倍の歳のほとんどの子供より高い能力を示したといわれる。その能力は、自分の教育レベルを超えており、ヨハンの才能をどうにかしたいと思っていた父ヨハネスは、このウイーンでの仕事をチャンスと捉え、家族と共にウイーンに移動した。そこはモーツァルトの天才が花開き、異常な熱狂に包まれていた時期であった。


 おそらくシカネーダーの紹介であると思われるが、ウイーンに来てすぐにモーツァルトとの知遇を得られることとなった。そして父ヨハネスは自分の息子ヨハンのの音楽的才能の事をモーツァルトに伝えたものと思われる。モーツァルトは「そんな子がいるなら是非見てみたいから、今度連れてきなさい」とヨハネスに伝えた。

 彼はすぐにヨハンを連れて、モーツァルトの住むアパートへ赴いた。

 当時はピアノ演奏にオペラの作曲にと多忙を極めていたモーツァルトであったが、ヨハンの演奏をじっくりと聞いた。ヨハンは7曲を披露したらしい。

 モーツァルトは、ヨハンの才能に驚き、感銘した。そして、ヨハネスは思いもしなかった言葉を聞くことになった。
「ヨハネス、君の息子の才能は大したものだ。もう少しで誰にも負けない演奏家になれる。それまでは僕が面倒をみるから。ああ、レッスン料はいらないよ。ヨハンには僕たちと一緒に生活してもらい、常に僕のそばに置いてほしいんだ。いいね?」


 モーツァルトとのレッスンは、単なるピアノの教師と生徒の範囲を大きく超えたものであった。
 モーツァルトは自作を弾いて聞かせ、そしてヨハンにも弾かせた。時には個人の集まりで連弾したり、演奏会の助手的なこともヨハンに経験させている。ヨハンは直にモーツァルトの演奏法をまなび、楽曲の理解、構成、形式の事、作曲の基礎、そしてモーツァルトの精神を浸透させていった。

Wolfgang-amadeus-mozart_1-640x940 特にドン・ジョヴァンニの作曲準備の際には、多くの歌手のレッスンの伴奏に弾かせたりもしたらしい。こうなると弟子というよりは人手が足りないモーツァルトの都合の良い助手である。

 しかし、モーツァルトの家には多くの著名人が集い、多くの音楽家も集まったのはヨハンにとっては、変えることのできない体験であり、肥やしとなったことであろう。ディッタースドルフヴァンハル、そして後に大恩師となるハイドンの知遇を得たのも、彼らがモーツァルト家に出入りしていたからこそである。

 モーツァルトがボーリング(九柱戯)やビリヤードをしながら、音楽談義をしたり、音楽界の出来事、音楽批評をしていたらしく、ヨハンもそこに同席させていたらしい。そこから学ぶことも多い事をモーツァルトは教えたかったのである。

 そしてそんな間に次々と名作を生み出していくモーツァルトの全盛期を目の当たりにしていたのである。

 ヨハンにとっては無くてはならない、貴重な体験でした。ここまでモーツァルトの精神を浸透させた人は、他にはいないのである。


 こうして慌ただしいモーツァルト家での生活が2年が経った。モーツァルトを取り巻く状況は一変しており、政治的不安も重なって、彼の財政的状況は逼迫していった。またモーツァルトの父:レオポルトが無くなり、モーツァルトの息子の誕生など、混乱した状況に陥って行った時期、モーツァルトはヨハンの独り立ちを提案することとなる。

 1788年、モーツァルトはヨハネスとヨハンに成功を約束し、そして自分が経験した成功事例や失敗事例を教示しながら、ヨーロッパへの大演奏ツアーを提案したのだった。


 ヨハネスは、その指示・提案に従い、ヨハンを伴ってヨーロッパ旅行の計画を立てた。そして実行していくのである。この旅は4年に渡って続き、ウイーンに戻ってきたヨハンは著名人となっていたのである。

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11月14日は、フンメルの生誕234年です。

01今日はフンメルの誕生日。

234年前の本日、ブラチクラヴァで生まれました。
フンメル研究ノート も 5年目に入りました。
そこで次回よりしばらくの間、改めてフンメルの生涯をたどっていきたいと思います。

宜しくお願い致します。


写真は、ワイマールのフンメルの墓です。







今日のおすすめ。
24の練習曲,Op.125より 第8番


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今日はフンメルの没年175年

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 フンメル最後の10年。

 フンメルの晩年、最後の10年間は、新しい世代の音楽・演奏家に押されはじめていましたが、演奏者としては絶頂期であった。教師、楽長、音楽家としての名声はヨーロッパ中に知れ渡っており、多くの音楽家が集まり、弟子入りを希望した。

 1827年にフンメルは、妻と弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。

 生前、幾度となく対立・和解を繰り返してきたこの時代の二人の巨匠は、この機会で最後の和解となった。
ベートーヴェンが亡くなるとフンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた、とヒラーは書き残している。

 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

 1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。
この演奏旅行は彼の成功を最後に、以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。

 1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、モシェレスやカルクプレンナーら、フンメルのブレーンもチケットを売ることに遁走したが、苦労したらしい。作風が新しく台頭したピアニストたちに比べて「古臭い」(リスト)と思われたのだった。

 一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務め、自作のほか、ウェーバー、モーツァルトを取り上げたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。そして1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。

 残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。

 でも彼は膨大な遺産を妻子に残している。才能ありながら、安定を求め、宮使いになったフンメルをベートーヴェンは気に入らなかったという。もっと音楽家、芸術家として自分の魂を!  というタイプではなく、最後まで職業作曲家であった彼は、音楽が持つ雰囲気とは別に、あくまでも「古典派」の域を出なかった作曲家であった。

 没年 175年。

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今日はフンメルの弟子のひとり、ヘンゼルトの命日です

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知ってますか?アドルフ・フォン・ヘンゼルト(Adolf von Henselt, 1814年5月12日 - 1889年10月10日)。


ドイツ・ロマン派音楽の作曲家・ピアニストで、バイエルン王国シュヴァーバッハ(ニュルンベルク近郊)出身。ロシア帝国に渡って、今日まで続くロシア・ピアノ楽派の基礎を築いた人です。

Wikiの解説ピティナ・ピアノ曲事典上田氏の解説でよくわかりますが、同じフンメルの弟子のタールベルクやヒラーに比べると、よりフンメルの個性を継承したタイプで、リストとショパンを並べた時に、ショパンに近いような音楽を書いています。

写真だけ見ていると、ドボルジャークのお兄さんか? 想う風貌ですね。


1814年5月9日、バイエルン地方のニュルンベルクの近く、シュヴァバッハに生まれました。小さい時からピアノを習い、奨学金を得てフンメルの弟子となります。後にロシアに行って皇族の音楽教育にあたりました。

美しい音色で弾くピアニストで、その演奏の繊細さ、素晴らしさは同時代のリストやショパンも一目置いていたといいます。リストに匹敵するほどの名手だったのです。

でも彼は極度のあがり症、ステージ恐怖症だったらしく、人前ではなかなか彼の真価を発揮することはできなかったそうです。

ですから、かなりの長寿に恵まれたにもかかわらず、30歳までに作曲活動を止めてしまいます。この「あがり症」はプレシッシャーとなってしまったですかね。

ピアノ協奏曲の演奏会なのに、自分の独奏部分が来るまでステージには上がらず、舞台袖に待機していたといいますから、よっぽどですね。

作曲に続いて33歳で演奏界からも引退している。もったいない。

一人で練習しているところをこっそり聴くと、それは夢のようなカンタービレだったといいます。

写真の風貌からは信じられませんね(笑)



雰囲気わかる曲の紹介ということで、「二つの小さなワルツ」Op.28を!


本日はゲーテの誕生日

486px-Goethe_%28Stieler_1828%29ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
(1749年8月28日 - 1832年3月22日)

ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。

フンメルとはワイマールで交流し、共にこの地方都市を芸術の都としての地位にまで高めるべく活動をした。


 フンメルのワイマール時代は快適で実り豊かなものでありました。生活面の不安もなく、演奏旅行の機会も与えられ、比較的自由に休暇も取れたのです。

 
 何しろこの街にはゲーテがいました。彼を通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合い、まもなくワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となりました。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」


と言われていたそうです。

 フンメルの主な職務は宮廷劇場で指揮することでしたが、その他の職務は極めて多忙であったようです。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなした)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たったといいます。


 ゲーテのワイマールでの活動は、エッカーマンが生前のゲーテとの対話を記した『ゲーテとの対話』(邦訳では 岩波文庫 より山下 肇 の翻訳で上下巻にて手に入れることができます)がよく判ります。ゲーテの格言も沢山含まれていて、読み物としても大変面白く、また当時のゲーテの活動も良く理解できます。




 以前もこのブログで紹介しましたが、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈しています。

 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては〜
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB)
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声)
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum
などでしょうか。

 また、ゲーテのリクエストに応えて、モーツァルトの交響曲を室内楽用に編曲したり、ピアノソロ用に編曲して演奏もしたそうです。


 フンメルの歌曲において、ゲーテの詩を使用している曲もあります。
「Zur Logenfeier  Lasst fahren hin das Allzufluchtige」は、ゲーテの詩によるフンメルのリートです。


 ゲーテはフンメルの事を、「現代における最高のピアニスト」と称し、当時数多く現れたピアニストや、ゲーテの前で演奏したピアニストを評する時に、フンメルと比較して論じたりしています。


 ゲーテにとっての最高の芸術家(作曲家)は生涯通してモーツァルトではありましたが....


  祝 ゲーテ生誕263年!

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1月31日はシューベルトの誕生日 Vol.2

シューベルトが生まれた1797年、フンメルは既にモーツァルトに後押しされたヨーロッパツアーを1793年には終え、ウイーンに戻っていた。
またベートーヴェンもハイドンの手招きにより1792年の末にはウイーンに移住していた。
この二人はピアノの名手・ライヴァルとして活躍しており、新しい世代の幕開けを予感させる時代にシューベルトは幼少期を過ごすこととなる。

さて、話は大きく飛びます。


フンメルとシューベルトが、いつ出合ったのか?


知られている限りでは、1827年にフンメル夫妻は弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞ったそうです。結局、その後すぐにベートーヴェンが亡くなり、そのままウイーンに滞在していました。この滞在中にフンメルはシューベルトに会ったとされています。フンメルはサービス精神旺盛にも、シューベルトの歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、シューベルトは大いに感銘を受けたと言われています。このお返しかどうか不明でありますが、シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼に演奏してもらいたかった、と言っていたそうです。結果的にはこの3つのソナタは、両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えました。

また、作品への影響としては、シューベルトは出版社から「フンメルの五重奏」のような曲を書いてくれ、と言われ、結果として完成したのが「ピアノ五重奏曲“鱒”」とのこと。フンメルの五重奏曲とは、Op.74の七重奏曲ニ短調の五重奏曲編曲版とOp.87のピアノ五重奏曲 変ホ短調だと思われます。

性格的には異なる二人の五重奏曲ですが、雰囲気や美しさでは甲乙付け難い名曲で、CD等でもよくこの二曲はカップリングされています。

Piano Quintet in a Flat Major 'trout'/Piano QuintePiano Quintet in a Flat Major 'trout'/Piano Quinte
アーティスト:Schubert
Hyperion UK(2012-01-10)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

昔の出来事を想像するだけでワクワクしませんか?



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1月31日はシューベルトの誕生日

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875本日はフランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)の生誕215年です。
区切りの良いようなそうでもないような...

シューベルトも大好きな作曲家です。初めて聞いたのは、小学校2年生の時に買ってもらったLP盤でベートーヴェンの第5のカップリングとして収録さ

れていた「未完成交響曲」。小澤 征爾/ボストン響だった記憶が...
その後、岩城宏之/札幌交響楽団の演奏を函館で聞きました。初のクラシックコンサートだったかな?
音楽の授業で聞いた「魔王」にはハマりませんでした(笑)

シューベルトで好きなのは初期の交響曲第1〜3番、未完成とグレート。ピアノ五重奏「鱒」や八重奏曲。歌曲の王とか言われていますが、彼のメロディ

ーは「人間の歌声」を楽器やオーケストラに反映させているかのようで、美しく歌わせるメロディーが多く、自然に流れるものが多いです。この辺りは

ベートーヴェンよりモーツァルトに近い気がしますね。


さて、ではフンメルとはどういう関わりがあるのでしょうか?

まず、シューベルトの歌曲というとゲーテ(Goethe)を思い浮かべます。ゲーテとフンメルは同時期にワイマールで活動しており、ともに巨匠としてこの街を訪れる人の目的ともなっていたほど。
「ワイマールではゲーテとフンメルに会わずしては帰れない」と言われていたそうです。
フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈しています。それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては〜
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB)
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声)
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum
などでしょうか。

また、ゲーテのリクエストに応えて、モーツァルトの交響曲を室内楽用に編曲したり、ピアノソロ用に編曲して演奏もしたそうです。

また、フンメルの歌曲において、ゲーテの詩を使用している曲もあります。
「Zur Logenfeier  Lasst fahren hin das Allzufluchtige」



あれ? 長くなったので、シューベルトとの話は次回ということで...


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フンメルと関係のあったピアニスト−3 モシェレス

イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles, 1794523 - 1870310)はチェコの作曲家、ピアノ奏者。プラハに生まれ、ライプツィヒに没す。

 

Moschelesモシェレスは、べートーヴェン時代のウィーンで、もっとも人気のあるピアニストの一人であった。チェコのプラハの生れで、1804年から4年間、折からプラハにいて音楽学校でも教えていたヴェーバーにピアノを学んだ。その後1808年にウィーンへ戻り、対位法や作曲法を勉強し、べートーヴェンとも親交を結んだ。1814年、ウィーン会議の年には、フンメルと並んでピアニストとして声望があり、翌年からは演奏旅行に出て、1812年のロンドンでは、クレメンティやクラーマーと並ぶ名演奏家として賞讃された。1824年にはベルリンで15歳のメンデルスゾーンを教え、これが機縁で、二人は生涯を通じて親交を結ぶことになった。


 1825
年からロンドンに定住し、王立音楽学校のピアノ教授となった。タールベルクを教えたのはこの時期である。1846年にメンデルスゾーンに招かれて、彼が創立したライプツィッヒ音楽院のピアノ科の主任教授となり、終生この地にとどまって、多くの弟子を育てた。

 

結果的には、モシェレスによってウィーン奏法とイギリス奏法の伝統が、ドイツのライプツィッヒに根をおろした、とする論文もある。ウィーンの音楽批評家ハンスリックはモシェレスを評して、

 

「ピアノの古典楽派の最後の代表者であると同時に、新時代の開拓者」

 

と述べている。

 

 モシェレスは、モーツァルト、ベートーヴェン、フンメルを大変尊敬し、特に2回に渡るフンメルのパリ公演の際には様々な手伝いをしている。

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フンメルと関係のあったピアニスト−2 タールベルク

フンメルによって集約されたウィーン奏法は、その代表的な著作『ピアノフォルテ奏法の理論的・実践

的な指針詳述』(1828年出版)に示されていることは何度も述べてきたが、フンメルは、ピアノの教育者としても傑出していたらしく、多くの弟子の中では、とくにタールベルクが有名である。

 

 

 

タールベルク Thalberg, Sigismund 18121871tarlb001

 

1.学習・師事歴

 スイス生まれの作曲家。貴族の出だが、私生児として生まれたと考えられている。

 10歳の時に、ウィーンで外交官になるための準備教育と共に音楽を学んだ。音楽の基本的な手ほどきをしたのは、宮廷歌劇場のファゴット奏者ミッタークである。音楽理論はジーモン・ゼヒターに、ピアノはフンメルに師事した。その後、パリにてJ. P. プクシスとフレデリック・カルクブレンナーに、ロンドンにてモシェレスにも師事している。

 

2.作品とその手法

 16歳の時に、最初の作品を出版している。ヴィルトゥオーソの慣習に従い、自ら演奏するために、当時のオペラのアリアに基づくファンタジアを数多く作曲した。その際、メロディーはピアノの中音域に配置し、その上下に対位声部をおいたり和声づけを施す手法が多用されている。「10本の手をもつタールベルク」という戯画が残されているほど技巧に長じていた。しかし、タールベルクは大仰な演奏スタイルに偏重していたわけではなく、「ピアノによるベル・カント」を志向していた。オペラのアリアに基づくピアノ教育のための作品《ピアノによる歌の装飾技法》から、そのようなタールベルクの姿勢がうかがえる。 (以上 PTNAより)

 

3.活動

タールベルクは、フンメルの弟子の中でも最も若いひとりで、フンメルの門に入ったのは14(1826)の時であった。1830年からは早くもピアニストとしての経歴を開始し、ヨーロッパを演奏旅行した。1835年にはパリで、イギリス奏法の流れを引くカルクブレンナーにも学び、パリでも名ピアニストとしての名声を確立した。1837年にはリストと競演し、以後、生涯を通じてのライヴァルとして名声を博した。事実、19世紀の中ごろのヨーロッパで、タールベルクはリストと声価を分けるほどのピアニストだったのである。1855年には、ブラジルとハバナに演奏旅行し、その後の数年をアメリカで暮して、圧倒的な名声を博した。

 

タールベルクは音楽雑誌上でリストと論争したが、一貫してタールベルクを支持したベルギーの音楽学者フェティスは、彼の演奏について、「クレメンティに由来するイギリス奏法の絢燗たるテクニックと、モーツァルトからフンメルに受け継がれたウィーン奏法の歌うスタイルとが結合されて、フレージングや表情が、火花のようなパッセージ・ワークと共存し、融合している」と評した。

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フンメルと関係のあったピアニスト−1 ヒラー

モーツァルトにピアノを学んだフンメルは、すでに少年時代からピアノの神童という声価を得ていたが、とくにピアニストとしての名声の絶頂にあったのは、ヴァイマールの宮廷楽長時代の1820年代から30年代にかけてであった。 

フンメルは、当時もっとも名声を博したピアニストのひとりだった。同時代者で彼の弟子の一人であるフェルディナント・ヒラーによれば、

「タッチの軽いウィーンのピアノをよく歌わせ、大事な声部をくっきり浮き上がらせて、確実な指使いでむらのない明澄な響きを作り出した」

という。


 ヒラーはフンメルに連れられて死の直前のベートーヴェンを見舞っている。




そのフェルディナント・ヒラーについて
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フェルディナント・ヒラー(Ferdinand Hiller, 18111024 - 1885512日)はドイツのロマン派音楽の作曲家。フランクフルト・アム・マイン出身。

 

ユダヤ系の裕福な家庭に生まれる。アロイス・シュミットに師事し、10歳で最初の作曲を手懸ける。その後ヴァイマルに行ってヨハン・ネポムク・フンメルに師事し、ゲーテの知遇を得る。フンメルのもとでヒラーはピアニストとして大成長を遂げ、1827年にはウィーンでベートーヴェンに面会し、最初の弦楽四重奏曲を作曲。1829年にパリを訪れ、1836年まで滞在する。父親の訃報によってフランクフルトに引き返す。183918日にミラノで歌劇《 La Roinilda》が初演される。この頃オラトリオ《エルサレムの崩壊 Die Zerstorung Jerusalems》にも着手する。

 

その後ライプツィヒを訪れ、かねてからの親友フェリックス・メンデルスゾーンと旧交を温め、1843年から1844年までゲヴァントハウス管弦楽団を指揮、自作のオラトリオも初演した。宗教音楽の研究のためにイタリアを隈なく訪ねた後、1845年に歌劇《夢 Ein Traum》を、1847年には歌劇《コンラーディン Conradin》をそれぞれドレスデンで初演した。指揮者として1847年にデュッセルドルフを、1850年にケルンを訪れ、1851年と1852年にはパリのイタリア劇場でも指揮を執った。ケルンでは指揮者として采配を振り、ケルン音楽院の院長に就任。1884年に勇退し、翌年の暮れに他界した。

 

ヒラーは頻繁にイングランドを訪れている。ロイヤル・アルバート・ホール落成式のための作品を作曲したほか、《 Nala》と《 Damayanti》はバーミンガムで演奏された。1871年には、自作による一連のピアノ・リサイタルがハノーヴァー・スクエアルームで催された。

 

ヒラーは完成された演奏技巧を身につけたピアニストであり、作曲家としてはあらゆる楽種を網羅しているが、作品はだいたい無味乾燥である。優秀なピアニストにして音楽教師であり、時には音楽を主題として健筆をふるった。200曲にのぼる作品には、6つのオペラと2つのオラトリオ、いくつかのカンタータや数多くの室内楽、かつては人気を集めたピアノ協奏曲1つがある。ショパンと親交があり、作品を献呈されていることや、ショパンをメンデルスゾーンとともにライン音楽祭に招待したことでも有名。

(以上 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

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人生を変えた妻の助言-2

elisabeth1 フンメルの妻・エリザベートについては、

「エリーゼのために」本当は「エリザベートのために」?

 でも触れたが、ウイーンでベートーヴェンとも交友ががあった当時著名なソプラノ歌手だった。
 フンメルと結婚したのは1813年。エステールハージ家から離れてウイーンで「作曲家」「ピアノ教師」として引く手あまただったころのことである。

 エリザベートは、ピアノ演奏家の大家である夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」と助言したのだった。

 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べられているが、その内容はまたいずれ...

 この時の妻エリザベートの助言が無かったら、音楽史が変わっていたかも知れないし、フンメルという名を聞くことも無かったかもしれない。また、有名なピアノ協奏曲の数々やソナタ、ピアノ奏法の著作も生まれなかったかもしれない。

 とても重要な助言であった。

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人生を変えた妻の助言-1

 ツェルニーの証言を紹介したが、彼はフンメルのことを「20歳をいくらか過ぎた年齢」としていたが、ちょうどその証言に出てくる1804年はフンメルの就職の年に当たり、歳は26歳である。
 
 大規模なツアーを終え、いくつかの作品も出版し、将来有望...というよりピアニストとしては既にかなり有名になっていたフンメルは、1804年にハンガリーの大貴族エステルハージ公爵家の楽長に就任し、ウイーンから同公爵家本拠地のアイゼンシュタットに移った。ここの楽団はかつてJ.ハイドンが長年手塩にかけて育ててきたのであるが、先代の当主が亡くなったときに一旦解散し、その後に縮小された形で再建されたのである。
 
 もちろん、ハイドンからオルガンや作曲を学んでいたフンメルがその才能を認められ、ハイドンの推薦を受けての就任だったという文献がある。また、この時に作曲されたフンメルの有名なトランペット協奏曲が公爵にいたく気に入られたのが採用の決め手だったといわれている。

 ここでフンメルは7年間にわたって活動し、室内楽、管や弦の協奏曲、大規模ミサ曲などの宗教曲を多数作曲したが、フンメルがハイドンの残した楽譜や財産を散逸させたとの疑いが掛けられ、当主と喧嘩別れの形で一旦辞めている。後にハイドン自らが「事実無根」だとして仲裁に入り、再びその職に就くが、父親の仕事やウイーンの貴族からの仕事に精を出しすぎているとかなんとか文句を言われ、結局は永くは続かなかった。

 フンメルはウイーンに戻ってフリーのピアノ教師、舞台作品や室内楽の作曲家として大いにもてはやされていたが、30歳代であるのにもかかわらずピアニストとしては舞台に立つことは控えめだった。これは、一説にはベートーヴェンの存在が関係するであろうと言われているが真偽の程が不明である。


(つづく)
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トランペット協奏曲のCDを紹介
Haydn, Hummel: Trumpet ConcertosHaydn, Hummel: Trumpet Concertos
販売元:EMI Classics
発売日:2008-08-06

多くの録音があるためどれを紹介するか迷いましたが
手に入りやすい盤を掲載します。
この曲はホ長調だが、現在の多くの録音は演奏しやすい変ホ長調に移調されたものが多く、古くはモーリス・アンドレの名盤も移調版です。 このCDも同じ。原典版は、Chadosのシェリー/ロンドン・モーツァルトプレイヤーズ盤で聞けます。

フンメルの息子が描いたショパンの肖像画

 ショパンは幼くしてフンメルの練習曲を習い、フンメルの音楽には共感していた。1828年のワルシャワで演奏会を開いたフンメルは、ショパンに紹介されてその演奏に接し、その才能を高く評価している。

 1829年8月11日、ショパンはウィーンでデビューしたが、翌日に家族に宛てた手紙に

「〜ヴェルトハイムが奥さんと一緒に昨日偶々カルルスバードから着きましたが〜略〜カルルスバードでフンメルが僕のことを訪ねていたそうです。彼は今日フンメルに僕のコンサートのことを書くそうです」

と書いている。それを受けて、フンメルは18日に開かれた2度目ののコンサートにモシェレスやヘルツ等と一緒に列席している。

 1830年、ショパンが再び訪れたウィーンで、フンメルは息子のカールを伴ってショパンを訪れている。カールは画才があったようで、ショパンの肖像を描いた。
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 ショパンの家族宛の手紙の中にも

 「〜正装をしてピアノの椅子に掛け、霊感を表した絵です。フンメルお爺さんと息子の親子は大変親切にしてくれます」

と書かれている。




上図が、1830年にウィーンでフンメル親子とショパンが交流を持った際、息子カールが描いたショパンの肖像(鉛筆画)である。

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フンメルとピアノ奏法について-4 ツェルニーの証言その2

 カール・ツェルニー(Carl Czerny)は、自叙伝(1842年執筆)の中でピアノ音楽史の中では有名なベートーヴェンとフンメルのピアノの演奏についての言及があり、これは以前、「フンメルとベートーヴェンという記事で紹介した。

 

 ここで述べておきたいのは、下記のツェルニーの証言である。

 

「〜私はといえば、私がいっそうの清澄さと明確さを目指すようになったという意味では、私もフンメルに影響されたことになる」

 

 事実、ツェルニーのピアノ曲、ピアノ室内楽、ピアノとオーケストラの協奏曲らを聞くと、ベートーヴェンというよりフンメルと聞き間違えるほどの書法、奏法を駆使した楽曲が多いのがわかる。この点については、同じくベートーヴェンの弟子であるフェルディナント・リース(Ferdinad Ries 1784-1838)の作品と聞き比べるとその違いが顕著で、リースは明らかにベートーヴェン的であるといえよう。


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リースの作品

Ferdinand Ries: Piano Concertos Op. 123 (1806) &amp; Op. 151 (1826)
Ferdinand Ries: Piano Concertos Op. 123 (1806) &amp; Op. 151 (1826)
販売元:Naxos
発売日:2005-11-15

Ferdinand Ries: Piano Concerto; Swedish National Airs with Variations; etc.Ferdinand Ries: Piano Concerto; Swedish National Airs with Variations; etc.
販売元:Naxos
発売日:2007-09-25

Ferdinand Ries: Piano Concertos, Vol. 3Ferdinand Ries: Piano Concertos, Vol. 3
販売元:Naxos
発売日:2009-03-31



ツェルニーの作品
Czerny - Piano works for four handsCzerny - Piano works for four hands
販売元:Sony Classical


Czerny: Chamber MusicCzerny: Chamber Music
販売元:Meridian
発売日:1998-06-23

Rondo Brillante: Early Romantic Works for Piano and OrchestraRondo Brillante: Early Romantic Works for Piano and Orchestra
販売元:MSR
発売日:2006-08-22

フンメルとピアノ奏法について-3 ツェルニーの証言その1

 フンメルの演奏については、ベートーヴェンの弟子でもありリストの師匠ともなったカール・ツェルニー(Carl Czerny)の自伝の中に次のように記載されている。

 

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 およそ1802年から04年までの数年間、私は父と一緒にモーツァルト未亡人(*コンスタンツェ・モーツァルト)の家を訪れていた。そこでは土曜日ごとに音楽の夕べが催されていたからである。そこでは、シュトライヒャーの弟子でもあるモーツァルトの息子(*フランツ・クサーヴァー・モーツァルト=1791年生まれのモーツァルトの末子)がきわめて巧みに演奏していた。

 

 そんな音楽の夕べのひとつのことである。いつもよりずっと多くの人々が集まっていた。ところが私はそうした多くの優雅な紳士淑女の中に、随分と奇異な感じのする風貌の青年がいるのに気がついた。

 

・いつもピクピク動かしている下品で不快な顔面

・きわめて趣味の悪い服装

・薄ねずみ色のフロックコート

・深紅色の長いベストと青色のズボン

 

以上の姿からは、どこかの田舎村の学校教師ではないかと思われたが、そんな感じとは裏腹に、彼の指という指には高価な指輪がはめこまれていて、それらが一緒になって光り輝いていた。

 

 音楽会はいつものようにすすめられたが、最後になって例の青年(20歳をいくらか超えたであろうと思われる)が弾くように勧められた。

 

 私はそこでなんとすばらしい巨匠の演奏を聞いたことか!

 

 当時の私はすでに、ゲネリック、リパフスキー、ヴェルフル、そしてベートーヴェンでさえも聞く機会をしばしば持っていたのに、この貧相な男の演奏は、私にはまるで新世界のように思われた。私はそれまで、
これほど新しくて輝かしい技法を、
これほど清澄で典雅で繊細な演奏表現を、
これほど豊かな趣味を持ってまとめあげられたファンタジーを
聞いた事は一度もなかった彼がその後、モーツァルトのソナタを数曲、クロンマーの弾くヴァイオリンと一緒に演奏したとき、以前から知っていたそれらの曲も、私には新世界に移ったのである。


 演奏が終わってすぐ、この青年がフンメルという名で、かつてはモーツァルトの弟子であり、今はロンドンから戻ってきている(ロンドンではクレメンティに師事していた)ということを知った。
 

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ツェルニーの自叙伝(1842年執筆)より
*注釈:フンメルノート

 

 

(つづく)

フンメルとベートーヴェンについて

 ベートーヴェンの演奏が、その驚くべき力、品位、前代未聞の妙技と達者さによって目立っているとすれば、フンメルの演奏はこれに反して極めて清麗で明確な演奏の模範であり、最も人を魅了する優雅さと繊細さとのモデルであって、フンメルがモーツァルトの奏法とクレメンティ派のそれとを楽器に適するように巧みに合わせて以来最も困難とするところは、いつも最高の、そして最も驚くべき効果を狙う点にあった・・・。

 フンメルの追随者たちは、ベートーヴェンのことを「彼はピアノを虐待し、ただ混乱した雑音を作るに過ぎない」と悪口を言い、また「彼の作品は不自然で、わざとらしく、非旋律的で、変則的だ」と貶した。
 一方ベートーヴェンの信望者は、「フンメルにはすべてにおいて真のファンタジーがかけている。その演奏はクラヴィコードのように単調で、彼の指は蜘蛛のようにしがみつく。そして彼の作品はモーツァルトとハイドンのモティーフの単なる焼き直しにすぎない」と主張した。

ツェルニー回想録より

ショパンの運指法

ショパンは独特な運指法を用いていたが、その中でも重要な考え方ひとつを紹介。

ピアノを弾くにあたり、各指の個性を尊重し、それを活かすということで、この考え方は彼の運指法全体のなかに貫かれている。この点についてショパンは次のように述べている。

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 「指の力を均等にするために、今まで無理な練習が随分行われてきた。指の力はそれぞれ違うのだから、その指に固有なタッチの魅力を損なわないほうが良く(損なってはいけないのは当然である)、逆にそれを充分活かすよう心がけるべきだ。指にはそれぞれの造りに応じた力が備わっている。親指は一番大きくて太く力強い、そして一番短くて動きの自由な指である。5の指(小指)は手のちょうど反対側にあり、3の指(中指)は中央にあって全体の支点となる。2の指(判読不能)の次に、4の指(薬指)は一番可憐で、3の指と靭帯で結ばれているが、この指を無理矢理に3の指から離そうとしている人もいる。そんなことは不可能だし、ありがたいことに意味がないのだ。指の数だけ音色も違うものである。すべては運指法の熟達にかかっている。フンメルはこの点について最も精通していた。
 このような考え方に基づいた運指法は難しいものではない。指の造りを利用しなければならないのだから、手の他の部分、つまり手首、前腕、腕もやはり使わなければならない。カルクブレンナーが主張するように、手首だけで演奏しようと思ってはならないのである。」

参考文献:「ショパンのピアニズム」加藤一郎著
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フンメル研究ノートというサイトは、クラシック音楽鑑賞を趣味とする一個人が、ヨハン・ネポムク・フンメルの音楽の魅力に取り付かれ、永年かけて収集した情報・データをメモ代わりに掲載している「フンメル研究ノート」のレビューページにあたります。フンメル研究ノートは、あくまでもCD解説、書籍、辞書などから集めた情報を盛り込んだ継ぎはぎの情報を集めたものですので、事実とは違っていたり、解釈が違っている箇所も多いと感じていますが、もっと多くの日本人にフンメルの音楽の魅力を知ってもらいたいと思い公開しています。もっとフンメルの情報が知りたい。またはご興味がある方は、本サイト「フンメル研究ノート」を覗いてみてください。よろしくお願いいたします。

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