フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

エステルハージ

フンメルの生涯(旧掲載文) 2.ウィーン及びエステルハージ家時代

20070923_354692●フンメルの次の10年間は勉強、作曲、教授活動の期間で、公開演奏はごくまれにしか行われなかった。アルブレヒツベルガーに対位法を、サリエリに声楽作曲法、美学、和声法、音楽哲学を学んだ。ロンドンで知遇を得たハイドンが1795年に第2回ロンドン旅行から帰国すると、彼にオルガンのレッスンを受けたが、ハイドンはオルガンを弾きすぎるとピアノ演奏の手に支障が出ると彼に忠告した。フンメルはこのころ収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。この時期のもっとも重要な出来事はベートーヴェンがウィーンに登場したことであり、それによってフンメルは自信喪失寸前にまで追い込まれた。とはいえ、ベートーヴェンとフンメルは、相互の弟子たちの間に党派的な争いがありながらも、長く波乱に満ちた友人関係を開始することになった。(先述のアルブレヒツベルガー、サリエリ、ハイドンの3人の師は、ベートーヴェンのそれと全く同じであり、その関係から出会いがあったものと思われる)


交響曲(プロローグ)●1803年にハイドンはフンメルをシュトゥットガルトの楽長に推薦したが、この地位にはワイマールの楽長であったヨハン・フリードリヒ・クランツが就いた。ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いを受けたが、結局1804年4月1日にアイゼンシュタットでニコラウス・エステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であって、ハイドンは名目上その肩書きを保持していたにすぎない。フンメルが採用されたのは候の宗教音楽への関心のためであったという説は、彼がこの分野で何の経験もなく、オーケストラ作曲家としてもほとんど実績がないことから、反論されてきた。彼が選任された一因としては、ウィーンの劇場と長くかかわっていたことが考えられるかもしれない。それにもかかかわらずフンメルはエステルハージ家の礼拝堂に仕え、この職務にあった期間に、知られているかぎりすべての宗教作品と劇作品の多くを書いた。



●フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。このハイドン関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対するねたみの一つの表れに過ぎなかった。そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。そこでの宗教曲および劇作品の上演のほかに、当時アポロザール・ホールの監督であった父を通して、毎年まとまった数のメヌエットやドイツ舞曲を発表した。つまり彼はエステルハージ宮廷との専属契約を全うしていないと思われた。1808年の降誕祭にいったん職を解かれたが、ハイドンの仲裁によると思われる再契約がなされ、1811年5月の契約の任期満了までこの職務に就いた。この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。

●1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。1813年には当時の有名なソプラノ歌手であったエリーザベト・レッケルと結婚し、2人の息子を得て、後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。このころベートーヴェンとの関係は不安定なものとなっていた。両者の不和は早くも1807年に起こり、ベートーヴェンのハ長調のミサ曲の上演の後、ニコラウス候の批判的見解にフンメルが暗黙のうちに同意したと思われた。また、エリーザベト・レッケルにベートーヴェンが関心を抱いていたかもしれないことが、結婚後に両者の亀裂を生じさせた可能性がある。とはいえ、接触がなくなったわけではなく、例えば1814年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きかった。

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*2008年 リニューアル前のフンメル研究ノートで掲載していた文章です  

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−4.ハイドンの後継者として

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

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 フンメルの作曲の才能は、エステルハージ邸に在籍していた8年間の間に、宮廷で求められた新作の要求ら応える形で、合唱音楽や宗教楽曲の分野で革新的な発展を遂げた。 
 ここの楽団には優秀なミュージシャンが集められており、100人規模のオーケストラと歌手を抱えていたのである。ハイドンによる鍛え上げもあって、レベルの高い演奏する楽団としてウイーンでも名が通っていた。
 興味深いこととして、フンメルが楽長を務めていた当時、このオーケストラの第二チェロ奏者にアダム・リストが在籍していたことである。彼は1812年に生まれるフランツ・リストの父親である。

 フンメルの最初の仕事は、1803年にウィーンの宮殿で開かれたコンサートを取り仕切る事であった。当時こうした演奏会で披露された曲の一曲に、有名なトランペット協奏曲(ホ長調)がある。当時の巨匠アントン・ワイディンガーの技巧を活かすために書かれ、この曲はワインディンガーによって1804年の元旦にウイーンで初演されることとなった。
 フンメルの音楽は、モーツァルトの影響を前面に出した構成とメロディーで、軽快なアレグロでウイーン古典派最盛期の音を轟かせたのである。さらに、第三楽章では聴衆の受けを狙ってか、当時ヒットしていたケルビーニのオペラから人気のある現代的な行進曲のテーマを取り上げて、フィナーレを盛り上げた。
 この曲はエステルハージやウイーンの聴衆に賞賛をもって受け入れられた。

 フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。
 しかし順調という訳ではなかった。フンメルのエステルハージ邸での仕事は全てが分担制になっており、権限がない部分も多く、この楽団を上手く一つにまとめ上げることができないでいた。特に1766年からここで働き、先代から愛されていたハイドンは、謙虚で外交的で後身的で几帳面だったため、比較されるとフンメルの仕事はあまり評価されなかったようである。責任分担でいうと合唱団はフックスに権限が与えられていたり、ハイドンに比べると50歳も若く、機転の利かない点や新しい役割に対する不満も態度に表れていたという。
 
 一方では演奏家としては人気者だっただけに、ヨーロッパ各地から声がかかり、休暇を取って演奏旅行に出かけたいと思っていたが、なかなか許可が出ない事にも不満を漏らしていた。
 余談であるが、彼は若い割には太っていて、それなのに見た目とは違う見事な演奏をする者として、話題を呼び、彼のカフェでの演奏会などでは人が溢れんばかりの人気を博していたという。エステルハージ王子ニコラスは、自分が雇い主でもあるのにもかかわらず、フンメルのこうした活動に不満を持っていた。このフンメルの態度は明らかにハンドンの従順さとは違っていたのである。

 
 ニコラス王子は一方で、フンメルの一連の仕事には満足していた。それは彼の作曲したミサ曲であった。ミサの新曲の披露は王子の妻の命名日の記念行事としてハンドンによって始められた伝統の一つ。この伝統行事の為にフンメルは5曲のミサ曲を残したが、いずれもハイドンやモーツァルトの伝統を継承した対位法も含まれる厳格な大ミサ曲で、ニコラス王子はこの仕事に対して大いに満足だったという。
ミサ 変ロ長調,Op77 より第一章『キリエ』
 
a6ca5f337bf8f655c9eef68e74c97f17 ニコラス王子は、フンメルと同様に有名なベートーヴェンにもミサ曲の作曲依頼をして、1807年に初演された(ミサ曲ハ長調,Op.80)。それを聞いたニコラス王子はベートーヴェンの作品には好感が持てなかったらしく、「親愛なるベートーヴェン、貴方のこの作品は一体なんですか?」と言ったらしい。隣にいたフンメルはこの発言に「苦笑い」をしていたのだが、ベートーヴェンは猛烈に怒り狂い、フンメルの態度を罵倒した。これはベートーヴェンの勘違いで、フンメルが王子に同調して作品を嘲笑ったと思ったのだった。

「ヨハン、君には失望したよ。君の雇い主はたいそうな音楽趣味を持っているそうだが、僕には悪趣味としか言えない。それに君も同調するのか?」

 
 あるとき職務の一つであるハイドンの作品を整理する関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対する不満やねたみの一つの表れに過ぎなかったと思われる。

 そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。フンメルはウイーンの劇場の為にオペラや劇作品、バレエ音楽等を依頼されては提供していた。彼は人気作曲家であったのである。また父ヨハネスはこの頃ウイーンの有名なアポロ・ザールでの音楽監督を務めており、息子にせっせと舞曲の作曲依頼をしていたのである。アポロザールの為の舞曲集は6曲にも及び、その他のメヌエットなど多数の舞曲が作曲された時期でもある。こうした事実は、彼の本来のエステルハージ楽団での職務を怠っていると受け取られることとなった。当然であろう。
 
 そしてとうとう1808年のクリスマスのコンサートの後、ニコラス王子はフンメルを「準備不足」として更迭し解雇を言い渡した。しかし直ぐにハイドンの仲裁によって解雇は取り下げられ、再びこの職に就くこととなった。しかし、彼は自分の求める仕事や音楽を書くことを規制された状態で、自分を押し殺すように仕事をしていたが、長く続くはずもなく、やがては同じ道をたどることになる。1811年5月に再び解雇を言い渡され、フンメルは取り下げの懇願もしてみたが、今回は覆ることはなかった。
 
 この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。そのウイーンに戻り、作曲と演奏活動に戻ることとなったのである。

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人生を変えた妻の助言-1

 ツェルニーの証言を紹介したが、彼はフンメルのことを「20歳をいくらか過ぎた年齢」としていたが、ちょうどその証言に出てくる1804年はフンメルの就職の年に当たり、歳は26歳である。
 
 大規模なツアーを終え、いくつかの作品も出版し、将来有望...というよりピアニストとしては既にかなり有名になっていたフンメルは、1804年にハンガリーの大貴族エステルハージ公爵家の楽長に就任し、ウイーンから同公爵家本拠地のアイゼンシュタットに移った。ここの楽団はかつてJ.ハイドンが長年手塩にかけて育ててきたのであるが、先代の当主が亡くなったときに一旦解散し、その後に縮小された形で再建されたのである。
 
 もちろん、ハイドンからオルガンや作曲を学んでいたフンメルがその才能を認められ、ハイドンの推薦を受けての就任だったという文献がある。また、この時に作曲されたフンメルの有名なトランペット協奏曲が公爵にいたく気に入られたのが採用の決め手だったといわれている。

 ここでフンメルは7年間にわたって活動し、室内楽、管や弦の協奏曲、大規模ミサ曲などの宗教曲を多数作曲したが、フンメルがハイドンの残した楽譜や財産を散逸させたとの疑いが掛けられ、当主と喧嘩別れの形で一旦辞めている。後にハイドン自らが「事実無根」だとして仲裁に入り、再びその職に就くが、父親の仕事やウイーンの貴族からの仕事に精を出しすぎているとかなんとか文句を言われ、結局は永くは続かなかった。

 フンメルはウイーンに戻ってフリーのピアノ教師、舞台作品や室内楽の作曲家として大いにもてはやされていたが、30歳代であるのにもかかわらずピアニストとしては舞台に立つことは控えめだった。これは、一説にはベートーヴェンの存在が関係するであろうと言われているが真偽の程が不明である。


(つづく)
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多くの録音があるためどれを紹介するか迷いましたが
手に入りやすい盤を掲載します。
この曲はホ長調だが、現在の多くの録音は演奏しやすい変ホ長調に移調されたものが多く、古くはモーリス・アンドレの名盤も移調版です。 このCDも同じ。原典版は、Chadosのシェリー/ロンドン・モーツァルトプレイヤーズ盤で聞けます。
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