フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

クレメンティ

モーツァルトのライバルと実の息子の協奏曲集

Franz_Xaver_Mozart_(Wolfgang_Jr)_1825フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(1791-1844、以下フランツ)は、父モーツァルトが亡くなる4ヶ月前に末息子(第6子)として誕生。5歳の時、プラハでニーメチェク(父モーツァルトの伝記作家)からピアノの初レッスンを受け、7歳の頃からピアニストを目指して父の簡単な作品を弾くようになり、同時に父のライバルとされたサリエリに歌唱と和声法のレッスンを受けます。また大巨匠のハイドンからも教育を受けたり、さらに父の一番弟子でもあり、当時すでに人気作曲家として活躍していたフンメルを初め、フォーグラーやアルブレヒツベルガーといった父と交流のある音楽家の教育を受け、後に母コンスタンツェの希望でヴォルフガング2世を名乗ってピアニストとして活躍しました。

 実際にフランツがピアニストとして最初に活躍したのは、1805年4月8日、父の友人でもあるハイドンの73回目の誕生日を祝って催された演奏会です。この時、フランツは14歳。彼は父のピアノ協奏曲および自作曲などを演奏しました。聴衆は大喝采でこの若いモーツァルトを迎え入れ、ハイドンも涙を流して拍手したと伝えられています。当時の評論も好評で前途有望かに思えましたが、父の重圧でしょうか? はたまた母コンスタンツェの期待の大きさからくるプレッシャーでしょうか? 17歳にして独立してしまいます。「父モーツァルトの名を汚さないように」と皆から言われたことが、彼にとって一生の重荷となっていったようです。とにかくウイーンから離れたかったのでしょう。とうとうポーランドに家庭教師の職を見つけ出て行ってしまったのです。当時の職業音楽家の生計事情が悪かったため、彼も父同様定職探しに奔放し、ピアノ教師になったり、演奏会を開いたりして各地を転々としています。
 
 1819年には、ウィーンを離れてから11年間会っていなかった母親と再会しましたが、その時フランツは次のように語っています。
 
「彼女は私の愛せる本当の母親になっていた」
 
  再び演奏旅行に出かけ、ドレスデンでは指揮者兼作曲家であったウェ−バーを訪問したり、プラハでは演奏会で成功収めたりしています。さらにイタリアに行った際には、当地で公務員となっていて20年間生き別れになっていた兄カルル・トマスに再会しました。

  さて、フランツはその後も各地を転々としながら定職を見つけるため活動しますが叶わずじまい。31歳に就職活動に終止符をうち、レンベルグでピアノ教師として生きていくこととなります。1841年、ザルツブルグで「モーツァルテウム」というモーツァルト財団と記念館が設立された時も館長職を希望したが叶わず、「名誉楽長」という地位に落ち着いてしまいました。翌1842年には、母コンスタンツェが79歳でザルツブルグで亡くなり、母の長寿とは逆にフランツは翌年1843年7月29日に53歳の生涯を閉じました。


フランツのピアノ協奏曲は意外と多くリリースされており、古くはヘルウィグの演奏でOPUSというレーベルから1970年代にはリリースされていました。
それ以外にも
0044747206226.團▲龍奏曲第2番が父モーツァルトと祖父レオポルドとの曲とカップリングで収録されているCD






0017042BC
▲▲鵐肇襯皀鵑離團▲里派磴梁22番とのカップリングで収録されているCD







FXMozart_1501752_DSピアノ協奏曲2曲とも収録されているNOVALISからリリースされたCD






など数種類が存在し、それらに今回のシェリーのアルバムが加わりました。

演奏はさすが、モーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、モシェレス、カルクブレンナー他多くの作品をリリースしてきただけあって、粒が際立った若々しく華麗なピアノテクニックを聴かせてくれます。

Muzio_Clementiクレメンティの協奏曲も3種ほどリリースされていますが、これはピアノソナタのOp.33-3はもともとピアノ協奏曲であったであろう、ということで復元された曲ですので、オーケストラ部などオリジナルではありませんが、違和感なく聞くことができます。クレメンティに関しては交響曲も重厚で華麗でとっても面白いのですが、このピアノ協奏曲も同世代のモーツァルトとは違って、より現代のピアノにあう楽曲であり、部分的にはベートーヴェン的であり、第一楽章の展開部のピアノパッセージ等はクレメンティの弟子でもあるフィールドのピアノ協奏曲に出で来るようなフレーズがあり聴きごたえあります。


ハワード・シェリーのピアノと指揮での「古典派ピアノ協奏曲シリーズ」の第三弾は、F.X.モーツァルトの2曲のピアノ協奏曲と、F.X.の父 W.アマデウス・モーツァルトのピアニストとしての好敵手、M.クレメンティのピアノ協奏曲という大変面白い組み合わせのアルバムです。

第一弾でドゥシェック、第二弾はシュタイベルトと埋もれた古典派の音楽史シリーズともいえるものですが、どれも聞いていて楽しくなってしまいます。

モーツァルトと同時代の作曲家、そしてその息子の作品、マニアックですが是非多くの人に聞いてほしいなぁと思います。


にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ 音楽ブログランキング

ピアノの大家・クレメンティの交響曲

Muzio_Clementi 「ピアノフォルテの父、演奏家、教師、出版社、ピアノ制作者」として知られるムツィオ・クレメンティ(1752-1832)。しかし彼は晩年に至るまで同時代に国際的な名声を博していたベートーヴェンに交響曲作曲家として肩を並べたいという野心を抱いていたのです。

 とは言え、モシェレスが「クレメンティのシンフォニーは1820年代以降はヨーロッパの演奏会のレパートリーから消えてしまった」と語るように、クレメンティの交響曲は初期の2曲、Op.18を除いては消滅したとまで言われていました(一説によると、クレメンティ自身が「絶望の発作」で全て破棄したとも)。今回のメインとなる4つの交響曲も彼の生前に発表されることはなく、クレメンティ自身も「交響曲のスコアは全て破棄した」と述べていました。

 これらが作曲された時期は1810年代から1820年代初頭まで。とくに1813年、ロンドンにおけるフィルハーモニー協会を創設するにあたって準備していた彼に、交響曲を作曲・演奏のチャンスを与えたものと思われます。そして自作交響曲を大陸の聴衆に紹介すべく、自らフランス、ドイツに出向きオーケストラ団体に働きかけ、1816〜17年はパリのコンセール・スピリチュエルで、22年にはベルリンのゲヴァントハウス管弦楽団で三度自作交響曲を指揮したと言われています。


 さて、紛失したと思われていたクレメンティの交響曲ですが、1921年にモーツァルトの研究でも名の知られたフランスのジョルジュ・ドゥ・サン・フォワが1917年に競売を経て図書館に買い取られた手稿譜の中に、交響曲の断片が含まれているのスコアを見つけ出し、これを復元。4曲の交響曲と序曲、メヌエット・パストラールをピエトロ・スパーダが補作完成して演奏可能な形にしたのです。


 感想は「意外と洗練されていてイケルじゃん」(笑)

 モーツァルトというよりはハイドンの作風に似ていますが、ハイドンのパリ交響曲と比べても結構タイマン張れるのでは?と思えてしまいます。

 補作完成版の管弦楽法が素晴らしいのか、オリジナルがこうであったのかは不明なのですが、2管編成にトロンボーンが2本つく古典派の中での大編成で、木管がしっかり活躍しているし、金管は鳴り響いています。

ピアノ練習曲でクレメンティに出会った方は是非交響曲聞いてみてください。この作曲家への印象が180度変わりますよ。


【音源紹介】
とりあえず触りを聞いてみたいというのであれば、録音も演奏も優れているChandosのモーツァルトと同時代人シリーズで第1番とOp.18の組み合わせでリリースされています。

交響曲4曲すべて聞けるのは現在3種あります。
 
825646276264<1>一番古いのはERATOというレーベルで発売されていたクラウディオ・シモーネが指揮するフィルハーモニア管弦楽団の2枚組で、1978年の録音。第1番から4番までの4曲が聞けます。私が初めて聞いたクレメンティの交響曲もこのLP盤でした。 

 
573071<2>最新の録音ではフランチェスコ・ラ・ヴェッキア指揮/ローマ交響楽団によるNAXOS盤があります。2011年からの録音で1番から4番と序曲、直近では原作が残っているOp.18の2曲が発売されるようです。
でも、録音がいまいち。第3番なんて「逆相じゃない?」と思えるほど変な定位になっています。


_SX355_<3>一番のおすすめが1990年代に英ASVというところから発売されていた
フランチェスカ・ダヴァロス指揮,フィルハーモニア管のクレメンティ:管弦楽作品集。現在は再販復刻でBRILLIANTから3枚組で発売されています。
推薦の理由は、管弦楽曲がほぼすべて収録されている(交響曲6曲、序曲2曲、メヌエット、ピアノ協奏曲)事と、とても勢いがあって溌剌とした演奏で、金管が厚みを帯びて鳴り響いていること。

イタリアの指揮者フランチェスカ・ダヴァロスは,1930年生まれで,イタリア国内,ハンブルク,フランクフルト,コペンハーゲンなどで指揮をしていましたが,1987年にフィルハーモニア管を指揮した演奏が評判になり、それがきっかけでフィルハーモニア管を指揮して英ASVレーベルに録音を行うようになり,当時,その演奏は大きな評判になったものでした。

  1993年以降、国内盤も発売されるようになり、特にブラームスの交響曲の録音は、遅れてきた名指揮者ダヴァロスの代表的名演として国内でもかなりの評判だったとのこと。
 私は個人的にはメンデルスゾーンの若々しい演奏が大好きで、交響曲全集と真夏の夜の夢は今でも愛聴盤のひとつです。
クレメンティ/交響曲第1番ハ長調


にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ
 音楽ブログランキング

Naxos Japan ベートーヴェン&リース師弟の4コマ漫画「運命と呼ばないで」

運命と呼ばないで

Naxos Japanさんの
【ベートーヴェン&リース師弟の4コマ漫画「運命と呼ばないで」!】クレメンティがやってキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!の回をご紹介。

 http://naxos.jp/special/no_unmei
220px-FerdinandRies

フェルディナント・リース(Ferdinand Ries, 1784年11月28日 - 1838年1月13日)はドイツのボン出身の作曲家。

ベートーヴェンの弟子であり、師の回想録を出版した。主な作品には8つの交響曲、ヴァイオリン協奏曲、8つのピアノ協奏曲、室内楽曲などがある。

2008年1月 執筆者:実方 康介ドイツ、ボン生まれのピアニスト、作曲家。父はヴァイオリニストで、一時期ベートーヴェンの師でもあった。

フェルディナントは父のもとで研鑽を積むなどしたのち、1801年にベートーヴェンを訪れ、秘書や写譜の仕事などをするようになった。

1838年にF.G.ヴェーゲラーとともに著した《ベートーヴェンに関する伝記的覚え書き》はベートーヴェンに関する最も古く、重要な資料の一つであり、

音楽史上では「ベートーヴェンの弟子」として認識されることが多い。NAXOS JAPANでの連載は、このリースの回想録に基づいている。


 

1月23日(1752年)は、クレメンティの誕生日

今日はフンメルのピアノ演奏の師であるクレメンティの誕生日。同じ師匠のモーツァルトのライバルと言われた音楽家です。

今回はピアニストで、多数の著作もある久元 祐子(ひさもと ゆうこ)さんのWebページの記事が判り易いので紹介・転用させていただきます。
ちなみにモーツァルトとの関係として書かれています。フンメルとの関わりは過去の記事をご参照ください。

以下、久元 祐子 公式サイトより
「モーツァルト」の項、「同時代の作曲家」〜クレメンティ〜 の記事紹介。

ロンドン楽壇の大御所
ムツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752 - 1832)は、ローマの銀細工師の息子として生まれました。9歳の時には早くもオルガニストとなりましたが、14歳のときイギリスに渡り、ロンドンでチェンバロなどの鍵盤楽器奏者、作曲家としてデビューしました。クレメンティは、ピアノのためのソナタ、交響曲、協奏曲、室内楽を書きましたが、作曲のみならず、楽譜の出版、ピアノの製造など幅広い音楽ビジネスの世界で成功を収めました。
自分が作曲した作品を楽譜として出版し、できるだけ沢山の人に弾いて貰おうと考えたのでしょう。やがてピアノの製作にも乗り出します。ピアノを大いに普及させて、彼自身の作品を彼自身の出版社で出版し、彼自身の会社の楽器で弾いて貰うという、相互に密接に関連した仕事のやり方を作り上げたわけです。できるだけ沢山の人に弾いて貰うためには、初心者にも簡単に弾ける作品も必要でした。
また、ピアノを学ぶ人のためのエチュードの作曲にも熱心でしたが、とりわけ全部で100曲から成る《グラドゥス・アド・パルナッスム》は、近代的なピアノ演奏技術を確立した、いわば彼のピアノ演奏思想を集大成したとも言える作品です。コンサートを定期的に開催する協会も設立し、文字通りロンドン楽壇の大御所として、長い音楽人生を送りました。
 
クレメンティの作品
クレメンティのたくさんのピアノ曲の中でとりわけ有名な作品が、「ソナチネ」です。ソナチネ・アルバムには、1798年に出版された作品36の6曲のソナチネが収められています。とりわけその第1番は、ピアノを学習される人なら誰でも一度は練習すされる曲でしょう。
しかし、クレメンティは、ソナチネだけの作曲家ではありませんでした。クレメンティはチェンバロやピアノのために作品を書いた時期は、半世紀以上にもわたっています。
また、その価値も決して二流ではありません。1784年に作曲されたと思われる、ヘ短調作品13の6のピアノ・ソナタは、ホロヴィッツの名演で知られまするが、ベートーヴェンの世界を先取りしているように思えます。全部の楽章が短調で書かれたこのソナタは、全体を厳しい緊張感が包み、同時に豊かな響きとしみじとした情感に溢れています。ホロヴィッツはクレメンティのピアノ・ソナタが好きだったようで、このほか、作品33の3、作品34の2などの作品を録音しています。
モーツァルトとの出会い
ウィーンの王宮
クレメンティモーツァルトとの出会いはただ1回だけで、それは不幸なものでした。
1781年の12月24日、皇帝ヨーゼフ2世は、王宮(右の絵)宮殿の一室でモーツァルトクレメンティを引き合わせました。モーツァルトがまだウィーンに出てきたばかりの頃でした。モーツァルト自身の手紙によると、クレメンティはソナタを1曲弾き、モーツァルトは何か変奏曲を弾き、その後、かわるがわるそのとき与えられた曲を弾いたりしたようです。
競演が終わった後の二人のお互いの印象は対照的でした。モーツァルトはお父さん宛の手紙の中で、「クレメンティは、素晴らしいチェンバロ弾きだが、単なるいかさま師で、趣味や感情のひとかけらも持っていません。要するに彼は単なる機械的演奏家なのです。」と手厳しく批判しましたが、クレメンティの方は、モーツァルトのこのときの演奏について後に「私は、あのときまであれほど魂のこもった優美な演奏を聴いたことがなかった」と回想しています。
クレメンティがこのときひいたソナタは、 作品47の2 でしたが、モーツァルトはこの曲の第1楽章のテーマを拝借し、オペラ魔笛の序曲を作曲したのでした。この引用について、クレメンティを嘲り、皮肉ったのだという見方もあります。
========
以上 wikiの原稿より面白いですよね。
では、最後に彼の「大交響曲」を聴いてみてください。ピアノ教師だけではない彼の意外な力量をご理解頂けるでしょう。
この交響曲は、ハイドンの来訪時に対抗するかのように別の連続コンサートで演奏されたようです。

Muzio Clementi - Symphony No.3 in G-major "The Great National"

 
 音楽ブログランキング にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−2.実り多きヨーロッパ演奏旅行

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

=============================

 フンメルの演奏旅行のスタートは、12月の氷と雪の凶悪な条件の元でスタートした。こうした当時の旅行は過酷であり、現代のヨーロッパ旅行、ロマンチック街道、古城めぐり等と異なり、ロマンチックとは程遠いものであった。
 
 馬車をはじめ、時にはソリやコーチを利用しての旅は最悪であり、危険であり、大変不快なものであった。それは、モーツァルトの同様な旅行を思い出すと良い。怪我や盗賊、事故、腰の痛みや床ずれ、骨折....など不快の要素を並べつくしたような状態であった。各地での演奏会は、今でいうコンサート・リサイタル等とは程遠いもので、良い時は貴族の邸宅で、最高に洗練された聴衆は宮殿での演奏会であったらろう。しかし最低の場合は、地元の居酒屋での下品な酔ったお客を前に演奏しなければならない事もあった。一行の立ち寄ったおもな都市は、プラハ、ドレスデン、ベルリン(ここでのコンサートではモーツァルトと再会している)、ハノーバーとコペンハーゲンが含まれていた。大都市では数日、長ければ数カ月留まって、ヨハンの神童ぶりを披露していった。見返りは贈り物や金銭であり、これもモーツァルトの時代と変わっていない。

 1790年の春には、ハンブルクの港を経由して、スコットランドの首都エディンバラまで足を延ばした。海峡を渡る際は暴風に巻き込まれるという危機に見舞われたが、幸い全員無事に渡りきることができたのだった。
 
 若いフンメルはその驚くべき演奏技量で、エジンバラでは盛大な歓迎を受けた、引っ張りだことなったため、数カ月にわたって滞在している。その間は、御前演奏や特別計画されたコンサートに出演し、その他ピアノのレッスン依頼が殺到した。
 
 その後、父子はダーラムとケンブリッジ経由で南下し、ロンドンへ向かった。1990年の秋にはロンドンに到着し、そこから2年もの間滞在することとなる。

 
交響曲(プロローグ)
 時を同じくしてJ.ハイドンもロンドンに滞在していた。彼は興行主・ザロモンに招聘されて、あの有名なロンドン交響曲を披露し、熱狂的な歓迎の渦の中に合った。そんなハイドンはロンドンでかなり多くの演奏会を開催していたが、その中の何回かにヨハンに出演させ、ハンドンのピアノ三重奏をヨハンに演奏させたりして交流を深めた。ハイドンの三重奏曲は、王ジョージ三世と王妃シャーロットに献呈されたものもあり、御前でのヨハンの演奏に感動した王妃たちはヨハンを高く評価し、これがきっかけとなってフンメル父子のロンドン滞在が長く、成功したものとなったのだった。

 1791年には、ヨハンの最初の出版作品が世に出ることとなる。Op.1を与えられた「ピアノのための3つの変奏曲」は、ロンドンの民謡とドイツの民謡の旋律を取り上げて作曲された曲集である。この時期に実際にフンメルに会い、その演奏を聴いたロンドンの著名なビジネスマンで音楽愛好家ウィリアム・ガードナーは、次のように書き残している。

 「幼いモーツァルトを除いて、このロンドンを訪問した多くの中で、最も驚くべき演奏だった」

 【打込音源】ピアノのための3つの変奏曲集,Op.1 より
第2番 「ドイツ民謡」による変奏曲ト長調


Muzio_Clementi またこの時期、師匠のモーツァルトと競演した事で有名なクレメンティからピアノ演奏の総仕上げとも言うべき指導を受けている。モーツァルトからウィーン式演奏法を、ロンドン楽派の基礎なるクレメンティからは力強いイギリス式演奏法を習得した最初の演奏家となった。

 この時期のフンメルがいかに注目を集めたかは、Op.2の「3つの変奏曲」の出版予約者名簿にウィーンから92名、ロンドンから159名もの申し込みがあったことが証明している。
 
 

 フンメル父子は、この後の演奏旅行の計画ではフランスを経由してスペインにまで及んでいたが、ロンドンからの帰路、オランダでフランス革命の渦に巻き込まれることとなり、父子が乗っていた船はフランス革命軍の戦艦に攻撃されてしまった。大砲の応酬の中、ヨハンの隣には、重傷を負った水夫がいたという。その他怪我をした人や重症を負った人がたくさん運び込まれてきた。そうした不安の中での船旅は最悪であったことだろうと想像がつく。

 幸い父子はハーグに入ることができ、約2か月間の避難生活を余儀なくされた。しかしフランス革命軍のアムステルダム侵攻によって、再び北方へと非難することとなる。その直前に避難場所の提供などしてくれた当時のオラニエ公の為に演奏会を開催して感謝の気持ちを伝えたのだった。

 そこから、彼らはケルン、ボン、フランクフルトを通って東に移動し、旅立ってから5年後、ウィーンの西100キロにある小都市リンツでフンメルの母親らと再会した。

 この旅行の間にヨハンは作曲家としてデビューし、またハンドとのより親密な関係を築き、多くの有力者たちの知遇を得ることができた。ピアノ演奏家としては、出発した当初とは比較にならない程の技量を身に着け、生涯得意としていた即興演奏は万人を惹きつけ、演奏家としての実績と名声を得ることができたのだった。

 フンメルがウイーンに戻ったのは1793年初頭。師匠のモーツァルトは1年と少し前に他界していた。

a8cb8b1d288c4910238bbbd99108d50e_sにほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ 

− クレメンティ −もう一人のピアノ教師

Muzio_Clementi少年フンメルは、1790年からロンドンに滞在している。


ハイドンは1791年から1年間滞在した。例のロンドン交響曲が披露された歴史的滞在である。
この同時期に滞在したモーツァルトの愛弟子であるフンメルとハイドンが交流を持った事は事実であろう。
事実、二人がウィーンに帰ってからは師弟関係になった。


一方、演奏実績と自作出版もあり、既に相当評価が高まっていたフンメルは、クレメンティにピアノを師事している。

クレメンティは、1781年(29歳)の12月24日ウィーンでヨーゼフ2世の前で、当時25歳のモーツァルトとピアノの競演をしているが、モーツァルトの演奏に大変感銘し、その後の作品や演奏法に影響を受けたと本人が語っている。
そのモーツァルトの太鼓判をもらったフンメルにピアノを教えたのだが、そのレッスン内容はどういうものだったであろうか?


おそらく、フンメルの巨匠的演奏は、クレメンティの教えが無くては実現しなかったのではないか?と考えられる。


べートーヴェンはモーツァルトの演奏より、クレメンティの演奏の方を評価したと言われているが、そのモーツァルトのウィーン楽派特有の軽くて華麗な演奏法と、クレメンティから始まるロンドン楽派特有のピアニスティックな力強い演奏法の両方をフンメルは学んだことになる。


フンメルは生涯に渡ってウィーン楽派的な装飾の多い華麗なピアノ楽曲を好んで多く作ったが、同じクレメンティに学んだクラーマー、カレクブレンナー、フィールドといった音楽家が持つファンタジーと演奏技巧は、フンメルにも当然あって、特にピアノ協奏曲では顕著にみられる。

ピアノを習うと出てくるクレメンティ...


ハイドンのブームに押されて日の目を浴びなかった、彼の交響曲なんかは迫力があって、個人的には大好きである。

彼の生涯は、邦訳された「クレメンティ―生涯と音楽」(音楽之友社)に詳しいし、Wikiでもある程度掌握できる。


彼が没してから、ちょうど180年が経った。

フンメル研究ノート

フンメル研究ノート トップページ

フンメル研究ノートというサイトは、クラシック音楽鑑賞を趣味とする一個人が、ヨハン・ネポムク・フンメルの音楽の魅力に取り付かれ、永年かけて収集した情報・データをメモ代わりに掲載している「フンメル研究ノート」のレビューページにあたります。フンメル研究ノートは、あくまでもCD解説、書籍、辞書などから集めた情報を盛り込んだ継ぎはぎの情報を集めたものですので、事実とは違っていたり、解釈が違っている箇所も多いと感じていますが、もっと多くの日本人にフンメルの音楽の魅力を知ってもらいたいと思い公開しています。もっとフンメルの情報が知りたい。またはご興味がある方は、本サイト「フンメル研究ノート」を覗いてみてください。よろしくお願いいたします。

音楽ブログランキング
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ
livedoor プロフィール

フンメルの商品
記事検索
QRコード
QRコード