フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

ゲーテ

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−9.幸福なワイマール時代(3)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは執筆活動も行い、「モーツァルト回想録」、「自伝」、「ピアノ奏法の理論と実践詳論」等を執筆したが、そうした活動と絶え間のない弟子へのレッスン等に非常に多くの時間を取られるようになり、徐々に自作の作品の創造は減っていくことになる。
 もう一つは先にも触れた音楽家の著作権の保護の運動である。ベートーヴェンも頭を悩ましていた問題であるが、海賊版は作家に一銭の収入ももたらさない。それを撲滅するための運動であった。こうした活動を行った重要な音楽家としては史上初となる。

 こうした公務、執筆、著作権の活動があり、1824年は演奏旅行には出かけず、ワイマールに留まった。この年翌年のツアーの為の計画を練っていたフンメルは、長年の経験と知恵を絞り、行く都市に先行して大々的な宣伝活動を行うように広報活動をすることとしました。この役目にフンメルの崇拝者であるパリ音楽院監督だったケルビーニが買って出た。



Moscheles 当時のパリは、モシェレスカルクブレンナーらのようにドイツやイギリスからの若いピアニスト、その他多くの国と地域から演奏会に訪れる人たちで溢れる音楽界の華やかな中心都市となっていた。フンメルはそのパリに妻エリザベートと長男、弟子
Kalkbrenner
のヒラーを伴って、1825年にやってきた。4月にはラサールエラールで4回の公演を成功させた。ここでフンメルは実際には1814年に作曲されたピアノ協奏曲(第4番)ホ長調『告別』,Op110を新作として発表した。ただし、オーケストラは手直しし、トロンボーンの追加など改定した。ピアノパートもより華やかに、テクニカルに改定された。また、現在の原曲の構成を拡大し、最終版では1/5程がこの時期に追加された部分である。

 この年のパリでの演奏会は大きな賞賛を生み、コンサートのチケットの争奪戦は記録的なものだった。こうした功績から、翌1826年には現在でもフランスの最も名誉ある賞とされる『レジオンドヌール勲章』の対象者として、若いリストと争われました。聴衆はフンメルに充分な資格があるという意見が多かったため、受賞となった。
 こうした演奏旅行で得た実績と名声は各国で賞賛され、彼の肩書には、ワイマール白隼勲章、フランス学士院、ソシエテ・デザンフォン・ダポロン、ジュネーヴ音楽協会、オランダ音楽振興協会、ウィーン楽友協会の会員、という文字が並ぶ。またロンドンのフィルハーモニー協会の最初期の名誉会員にもなっている。
■ピアノ協奏曲第4番ホ長調,Op110『告別』より
 


 ワイマールでも様々な交流を行っている。ゲーテとは定期的に会い、ゲーテの家に呼ばれることも多かった。彼の家で私的な演奏会もしばしば行われており、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈している。
 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては、下記があげられる。
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB) 
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声) 
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失 
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失 
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum 

 1825年、旅に出なかった年、ワイマールに友人でもあるモシェレスを呼び寄せて、演奏会を企画した。その後、フンメルはわざわざ訪問してくれたモシェレスのために壮大な晩餐会を主催し、大公妃の前で二人で連弾も披露した。
 
 こうして、フンメルのワイマールでの活動は、劇場の監督のほかに、年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなしたことは前回述べた)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に演奏に、と活躍して町中から愛される存在であった。

 ゲーテと共にワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となっていった。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」

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ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−7.幸福なワイマール時代(1)

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

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 フンメルは1817年の年末、1756年以来、ワイマールで楽長してきたバッハの名づけ子でもあるのミュラーが亡くなって以来、同職は空席のままとなっていた事を知った。当時のワイマール公国は、芸術的分野の保護・推進に手厚く、評判が高かった。かのヨハン・セバスチャン・バッハも18世紀の前半にはここで活躍していた。そして、エルンスト・アウグスト2世がこの宮廷を納めていた。

220px-Karl_august_von_sachsen-weimar 夫の死後、公爵夫人アンナ・アマーリア(エルンストの未亡人)が彼女の幼い息子カール・アウグストに代わって統治をするようになる。アンナは、作家で哲学者のクリストフ・マルティン・ヴィーラントの『黄金の鏡』を気に入り、1772年に2人の息子の教育係としてヴィーラントを招いた。教育係としての役職は1775年まで続いたが、それ以降も彼はヴァイマルの宮廷に仕えることになった。そうした教育のおかげで息子カールも教育・文化・芸術の発展に熱心に取り組んだのである。

250px-Christoph_Martin_Wieland_by_Jagemann_1805 カールの統治が始まって最初に行った事の一つに、二年前から面識があり、非常に尊敬していたヨハン・ヴォルフガング・ゲーテを、ワイマール公国の宮廷顧問(その後枢密顧問官・政務長官つまり宰相も勤めた)に任命したことだ。1775年にゲーテがワイマールに来て以来、シラー(1787年にはワイマールに定住)やヘルダーといった、後の世にも名を残すことになるドイツ文学の巨人がワイマールを訪れるようになり、ドイツ古典主義文学の牙城になり一大黄金期を迎えたのである。 
 そしてカールの長男カール・フリードリヒはサンクトペテルブルクでロシア皇帝パーヴェル1世の娘マリヤ・パヴロヴナと結婚した。彼女は音楽を愛しており、音楽の分野でも著名な音楽家を集めたり劇場が充実していくなど、さらに文化芸術都市の発展に貢献したのである。


 フンメルが赴任してくるのは、この時代である。知名度、実績、作曲家・演奏家としての能力、そしてモーツァルトの直弟子で後継者....。1819年の初頭、フンメルにとっては成るべくしてなったワイマール宮廷の音楽監督である。ここでの契約はフンメルにとってもエステールハージ時代やシュトゥットガルト時代とは大きく異なり、かなりの報酬と自由を与えられたもので、彼の演奏旅行も自由にとれる環境となった。もちろんここで彼がしなければならない事は、演奏会、行事の運営、書類の整理、文化人、音楽家の招聘と接待、作曲、ゲーテとの交流等、盛りだくさんであったが、彼は大きな庭付きの家を与えられ、快適な家庭生活を満喫できる環境も与えられた。彼は生産的な音楽活動と、家族を守こと、という大きな希望を叶えることができたのであった。

 音楽愛好家の皇妃マリヤ・パヴロヴナは真っ先にフンメルに弟子入りしピアノを習った。その後、ゲーテと共にフンメルを訪れる音楽家が増えていくようになる。ツェルターやその弟子のメンデルスゾーン姉弟は、何度も訪れている。弟子入りしてきた本格的な音楽家は、ルイーズ・ファランク、フェルディナント・ヒラー、アドルフ・フォン・ヘンゼルトらがいた。シューマンなどもフンメルに師事するか悩んだらしい。

*余談*ウイーン時代にも多くの弟子を育てているが、モーツァルトの末子フランツ・クサーヴァーは未亡人コンスタンツェ(幼少期の第二の母でもある)に押し込まれたみのであったが、面白いエピソードとしては、エステルハージ時代に同僚であったアダム・リストが才能ある息子を連れてきたが、あまりにフンメルのレッスン料が高くてあきらめたという。結局フランツ・リストはカール・ツェルニーの門をたたくことになった。しかし、リストは自分の演奏会などでフンメルのピアノ曲、協奏曲を何度も取り上げている。特にイ短調Op.85とロ短調Op.89は、リストのテクニックを存分に見せつけられる主要なレパートリーとなっていた。リストのウィーン、パリ、ロンドンでのデビューコンサートはすべてロ短調Op.89であったという。リストは後年になってもモーツァルト、ベートーヴェン、フンメル、ツェルニー等の曲を弟子たちに学ばせていたという。

 彼の主な職務は宮廷劇場で指揮することであったが、ここでも契約は有利なものであって「くだらない」オペラに付き合う必要はなく、絶えず紛糾の種となっていたテンポの決定権も彼に与えられた。レパートリーは変わり、過去の重要な作曲家の作品、及びロッシーニ、オベール、マイヤーベーア、アレヴィ、シュポーア、ベッリーニらのより新しいオペラなども含まれるようになった。フンメルは演奏旅行中に才能ある外国人歌手と出会って、雇い、そのことがこれらのオペラの上演にかなりの好結果をもたらした。1821年には自身の『ギース家のマティルデ』Op.100を改作して演奏している記録がある。

 ■フンメル 歌劇『ギース家のマティルダ』Op.100より二重唱

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11月4日 165年前の本日、F.メンデルスゾーンが亡くなった日

Mendelssohn(13)
フェリックス・メンデルスゾーン(ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809年2月3日 ハンブルク - 1847年11月4日 ライプツィヒ)は、ドイツロマン派の作曲家、指揮者。


私の理解するメンデルスゾーンとは、
  •  ユダヤ人で、
  •  浪漫派の中にあって古典主義、
  •  皮肉屋、
  •  ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの指揮者、
  •  J.S.バッハとシューベルトの復興に尽力、
  •  『夏の夜の夢』序曲は17歳で作曲したという天才、
  •  ヴァイオリン協奏曲は超有名、
  •  結婚行進曲はワーグナーのものと並んで超有名、
  •  ライプツィヒ音楽院の創設者、
  •  本当の理解者は姉・ファニーだけで、彼女が亡くなったら後を追うように亡くなった、
というの人物。
 
 フンメルとのかかわりは12,3歳の時にワイマールのゲーテ訪問の時に紹介された、ということと、フンメルのピアノ演奏に感動し、その場での演奏を進められたが泣きながら断った、というエピソードのみ。

 ただ、未出版の習作品、特にピアノ協奏曲やピアノ曲にフンメルの影響は大きい。


例えば、
  • ピアノと弦楽のためのレチタティーヴォ(ラルゴとアレグロ)MWV.O 1(1820年)
  • ピアノと弦楽のための協奏曲 イ短調 MWV.O 2(1822年)
  • 2曲の2台のピアノと管弦楽のための協奏曲 ホ長調 MWV.O 5(1823年)、変イ長調 MWV.O 6
  • ヴァイオリン、ピアノと弦楽のための協奏曲 ニ短調 MWV.O 4(1823年) 
  • 3つのピアノ・ソナタ ヘ短調、イ短調、ホ短調(1820年)ほか、この時期の多くのピアノ小品
・・・あたりには、1810〜1819年代のフンメル協奏曲やピアノ曲に類似した主題やパッセージが多く見受けられます。

 
メンデルスゾーンの最期について、wikiではこんな説明されていますね。
「1847年(38歳) 5月訪英の途上、姉ファニーの死の報に接し、悲嘆の余り神経障害を起こす。一時回復したが11月3日には意識を失い、翌日ライプツィヒにて没した。彼は生前には特に病弱という事もなく、登山などもしていた事、フェリックスの父アブラハムも姉ファニーも似たように若くして突然亡くなっている事等から、何か遺伝的な要因があったのではないかとする説もある」


 さて、今日は一日かけてフェリックス坊やの音楽を堪能しましょう。
 
 では、私の大好きな初期の作品【2台のピアノと管弦楽のための協奏曲変イ長調 MWV.O 6】を紹介。
どことなく、同じ変イ長調のフンメルのピアノ協奏曲(Op.113)に雰囲気が似ています。

 

関連追記
荒井千裕*ピアノの音の綴り方 も是非。

メンデルスゾーン、アンデルセンとその時代 というタイトルでの記事です。
貴重で面白い内容ですよ。是非。音楽史は「退屈なものではなく、人間ドラマ何ですよ」ということを理解できます・

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本日はゲーテの誕生日

486px-Goethe_%28Stieler_1828%29ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)
(1749年8月28日 - 1832年3月22日)

ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。

フンメルとはワイマールで交流し、共にこの地方都市を芸術の都としての地位にまで高めるべく活動をした。


 フンメルのワイマール時代は快適で実り豊かなものでありました。生活面の不安もなく、演奏旅行の機会も与えられ、比較的自由に休暇も取れたのです。

 
 何しろこの街にはゲーテがいました。彼を通じて知識階級の代表的な人物たちと知り合い、まもなくワイマールを訪れる人々の「目的そのもの」となりました。

「ゲーテと会い、フンメルの演奏を聴かずには、この町の訪問は完全なものにならない」


と言われていたそうです。

 フンメルの主な職務は宮廷劇場で指揮することでしたが、その他の職務は極めて多忙であったようです。年ごとの年金募金演奏会、祝賀会、公爵家の人々やゲーテなどの地元の名士敬意を表した特別演奏会、来訪音楽家の演奏会(1829年のパガニーニがその例の代表で、招聘・準備、演奏会運営までこなした)、さらに内輪のパーティーなどを主催し、指揮に当たったといいます。


 ゲーテのワイマールでの活動は、エッカーマンが生前のゲーテとの対話を記した『ゲーテとの対話』(邦訳では 岩波文庫 より山下 肇 の翻訳で上下巻にて手に入れることができます)がよく判ります。ゲーテの格言も沢山含まれていて、読み物としても大変面白く、また当時のゲーテの活動も良く理解できます。




 以前もこのブログで紹介しましたが、フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈しています。

 それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては〜
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB)
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声)
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum
などでしょうか。

 また、ゲーテのリクエストに応えて、モーツァルトの交響曲を室内楽用に編曲したり、ピアノソロ用に編曲して演奏もしたそうです。


 フンメルの歌曲において、ゲーテの詩を使用している曲もあります。
「Zur Logenfeier  Lasst fahren hin das Allzufluchtige」は、ゲーテの詩によるフンメルのリートです。


 ゲーテはフンメルの事を、「現代における最高のピアニスト」と称し、当時数多く現れたピアニストや、ゲーテの前で演奏したピアニストを評する時に、フンメルと比較して論じたりしています。


 ゲーテにとっての最高の芸術家(作曲家)は生涯通してモーツァルトではありましたが....


  祝 ゲーテ生誕263年!

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1月31日はシューベルトの誕生日

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875本日はフランツ・ペーター・シューベルト(Franz Peter Schubert, 1797年1月31日 - 1828年11月19日)の生誕215年です。
区切りの良いようなそうでもないような...

シューベルトも大好きな作曲家です。初めて聞いたのは、小学校2年生の時に買ってもらったLP盤でベートーヴェンの第5のカップリングとして収録さ

れていた「未完成交響曲」。小澤 征爾/ボストン響だった記憶が...
その後、岩城宏之/札幌交響楽団の演奏を函館で聞きました。初のクラシックコンサートだったかな?
音楽の授業で聞いた「魔王」にはハマりませんでした(笑)

シューベルトで好きなのは初期の交響曲第1〜3番、未完成とグレート。ピアノ五重奏「鱒」や八重奏曲。歌曲の王とか言われていますが、彼のメロディ

ーは「人間の歌声」を楽器やオーケストラに反映させているかのようで、美しく歌わせるメロディーが多く、自然に流れるものが多いです。この辺りは

ベートーヴェンよりモーツァルトに近い気がしますね。


さて、ではフンメルとはどういう関わりがあるのでしょうか?

まず、シューベルトの歌曲というとゲーテ(Goethe)を思い浮かべます。ゲーテとフンメルは同時期にワイマールで活動しており、ともに巨匠としてこの街を訪れる人の目的ともなっていたほど。
「ワイマールではゲーテとフンメルに会わずしては帰れない」と言われていたそうです。
フンメルは、ゲーテとの交流の中で多くの未出版作品(プライベート楽曲)をゲーテに聞かせ、また献呈しています。それらの多くはカンタータで、代表的なものとしては〜
S.158 ◇ゲーテの誕生日用合唱曲「今日、気高き仲間に」 1822 Heute lasst in edlen Kreis (T, B, SATB)
S.173 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「陽気な日は」 1827 Kehrt der frohe Tag (独唱、声)
S.177 ◇ゲーテの誕生日用歌曲 変ロ長調 1829 歌詞欠
S.180 ◇ゲーテの誕生日用独唱曲「私たちは陽気に登る」 1829 Wir steigen frohlich (独唱、声) *消失
S.187 ◇ゲーテの在ワイマール50年祭用独唱曲「歌声をあげよ」 1825 Herauf Gesang (独唱、声) *消失
S.195 ◇ゲーテの誕生日用歌曲「夢は快く甘かった」 1831 *未完 Lieblich war der Traum
などでしょうか。

また、ゲーテのリクエストに応えて、モーツァルトの交響曲を室内楽用に編曲したり、ピアノソロ用に編曲して演奏もしたそうです。

また、フンメルの歌曲において、ゲーテの詩を使用している曲もあります。
「Zur Logenfeier  Lasst fahren hin das Allzufluchtige」



あれ? 長くなったので、シューベルトとの話は次回ということで...


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フンメル研究ノートというサイトは、クラシック音楽鑑賞を趣味とする一個人が、ヨハン・ネポムク・フンメルの音楽の魅力に取り付かれ、永年かけて収集した情報・データをメモ代わりに掲載している「フンメル研究ノート」のレビューページにあたります。フンメル研究ノートは、あくまでもCD解説、書籍、辞書などから集めた情報を盛り込んだ継ぎはぎの情報を集めたものですので、事実とは違っていたり、解釈が違っている箇所も多いと感じていますが、もっと多くの日本人にフンメルの音楽の魅力を知ってもらいたいと思い公開しています。もっとフンメルの情報が知りたい。またはご興味がある方は、本サイト「フンメル研究ノート」を覗いてみてください。よろしくお願いいたします。

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