フンメルによって集約されたウィーン奏法は、その代表的な著作『ピアノフォルテ奏法の理論的・実践

的な指針詳述』(1828年出版)に示されていることは何度も述べてきたが、フンメルは、ピアノの教育者としても傑出していたらしく、多くの弟子の中では、とくにタールベルクが有名である。

 

 

 

タールベルク Thalberg, Sigismund 18121871tarlb001

 

1.学習・師事歴

 スイス生まれの作曲家。貴族の出だが、私生児として生まれたと考えられている。

 10歳の時に、ウィーンで外交官になるための準備教育と共に音楽を学んだ。音楽の基本的な手ほどきをしたのは、宮廷歌劇場のファゴット奏者ミッタークである。音楽理論はジーモン・ゼヒターに、ピアノはフンメルに師事した。その後、パリにてJ. P. プクシスとフレデリック・カルクブレンナーに、ロンドンにてモシェレスにも師事している。

 

2.作品とその手法

 16歳の時に、最初の作品を出版している。ヴィルトゥオーソの慣習に従い、自ら演奏するために、当時のオペラのアリアに基づくファンタジアを数多く作曲した。その際、メロディーはピアノの中音域に配置し、その上下に対位声部をおいたり和声づけを施す手法が多用されている。「10本の手をもつタールベルク」という戯画が残されているほど技巧に長じていた。しかし、タールベルクは大仰な演奏スタイルに偏重していたわけではなく、「ピアノによるベル・カント」を志向していた。オペラのアリアに基づくピアノ教育のための作品《ピアノによる歌の装飾技法》から、そのようなタールベルクの姿勢がうかがえる。 (以上 PTNAより)

 

3.活動

タールベルクは、フンメルの弟子の中でも最も若いひとりで、フンメルの門に入ったのは14(1826)の時であった。1830年からは早くもピアニストとしての経歴を開始し、ヨーロッパを演奏旅行した。1835年にはパリで、イギリス奏法の流れを引くカルクブレンナーにも学び、パリでも名ピアニストとしての名声を確立した。1837年にはリストと競演し、以後、生涯を通じてのライヴァルとして名声を博した。事実、19世紀の中ごろのヨーロッパで、タールベルクはリストと声価を分けるほどのピアニストだったのである。1855年には、ブラジルとハバナに演奏旅行し、その後の数年をアメリカで暮して、圧倒的な名声を博した。

 

タールベルクは音楽雑誌上でリストと論争したが、一貫してタールベルクを支持したベルギーの音楽学者フェティスは、彼の演奏について、「クレメンティに由来するイギリス奏法の絢燗たるテクニックと、モーツァルトからフンメルに受け継がれたウィーン奏法の歌うスタイルとが結合されて、フレージングや表情が、火花のようなパッセージ・ワークと共存し、融合している」と評した。

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