フンメル研究ノート〜Review〜

ヨハン・ネポムク・フンメル(Johann Nepomuk Hummel)の個人研究サイトのレビューページ。CD紹介をはじめ、フンメル関連ニュース等を紹介していきます。 ●フンメル研究ノート●http://hummelnote.wix.com/hummelnote

ベートーヴェン

Happy Birthday Dear Ludwig

本日周辺はベートーヴェンの誕生日かもしれません(笑)


20070923_354692
 かもしれないというのは、正確な誕生日が不明で、1770年12月16日頃とされているからです。
 本日この記事を出したのは、12月17日に受洗 という事実に即しただけです。産まれ出た日、では有りません。

 それにしても、同じ時期、同じ町でハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという古典派3大巨匠が活躍し、それぞれ交流があったこと(モーツァルトとベートーヴェンは<弟子入りを希望している>ベートーヴェンがウイーン滞在中におそらく数回しかあっていないと思われるが)は、音楽史ならず人類史上の軌跡だと思っています。




ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン( Ludwig van Beethoven)
1770年12月16日 - 1827年3月26日)は、ドイツ作曲家
 


★フンメルとの関わりを記載した当サイトの記事

Naxos Japan ベートーヴェン&リース師弟の4コマ漫画「運命と呼ばないで」

運命と呼ばないで

Naxos Japanさんの
【ベートーヴェン&リース師弟の4コマ漫画「運命と呼ばないで」!】クレメンティがやってキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!の回をご紹介。

 http://naxos.jp/special/no_unmei
220px-FerdinandRies

フェルディナント・リース(Ferdinand Ries, 1784年11月28日 - 1838年1月13日)はドイツのボン出身の作曲家。

ベートーヴェンの弟子であり、師の回想録を出版した。主な作品には8つの交響曲、ヴァイオリン協奏曲、8つのピアノ協奏曲、室内楽曲などがある。

2008年1月 執筆者:実方 康介ドイツ、ボン生まれのピアニスト、作曲家。父はヴァイオリニストで、一時期ベートーヴェンの師でもあった。

フェルディナントは父のもとで研鑽を積むなどしたのち、1801年にベートーヴェンを訪れ、秘書や写譜の仕事などをするようになった。

1838年にF.G.ヴェーゲラーとともに著した《ベートーヴェンに関する伝記的覚え書き》はベートーヴェンに関する最も古く、重要な資料の一つであり、

音楽史上では「ベートーヴェンの弟子」として認識されることが多い。NAXOS JAPANでの連載は、このリースの回想録に基づいている。


 

【新譜紹介】F.リース/ピアノ協奏曲集第5集'第2番、第9番他)-ヒンターフーバー(ピアノ)他

クリストファー・ヒンターフーバー(ピアノ)/ウーヴェ・グロッド(指揮)のコンビが足かけ7年に渡って発表してきた唯一のリース(1784-1838)のピアノと管弦楽のための作品集もこの第5集で完結となります。

572742 第5集の収録曲は、

ピアノ協奏曲第2番変ホ長調 Op.42
序奏と華麗なるロンドOp.144
ピアノ協奏曲第9番ト短調 Op.177
 リース:ピアノ協奏曲集

 1806年に書かれた第2番はわずか22歳の頃に書かれた作品で、ベートーヴェンから独り立ちして5年後の作品。
 古典派ソナタ形式のしっかりした構成で書かれ、オーケストレーションはベートーヴェンの影響が大きいものの、その作風はフンメルなどと同様にヴァルトーゾピアノが活躍するブリリアント協奏曲です。第三楽章はどこかの民族舞踊のメロディーといろんなメロディーが交差する楽しい作品です。
 1832年に書かれた第9番の協奏曲は、よりピアノ独奏者の技量が問われる内容で、既にこの後のヒラー、タールベルク、リストといった世代の雰囲気があります。古典派というよりもロマン派の作曲家の協奏曲と言えます。もうベートーヴェンの影はなく、長く巨匠として活躍し、作品も多く出版してきた実績からくる自信に充ち溢れたリースの世界が広がっていきます。その分、初期の作品にみられた集中力というか構成力のメリハリというものが薄れ、より自由な流れと展開を繰り広げていきます。口ずさむつもりでの覚えやすさは初期の作品の方があります。また非常にワクワクする部分も沢山あるのですが、全編聞き終えた感想は「フンメルやウェーバーよりも地味かな」です。*あくまでも個人的感想です。ただし同じような感想をもっている方もいらっしゃいました。
 

 さて、これで全8曲のピアノ協奏曲とピアノと管弦楽の作品がすべて聴けることとなりました。今回の作品が第9番なのに8曲?と気付いた方、素晴らしい。

 実はtwitterで情報頂いている方からの指摘で初めて知り調べたのですが、フェルディナント・リースについてのwikiの記載には誤りというか、誤記があります。(kiriさんありがとうございます)
フェルディナント・リースFerdinand Ries1784年11月28日 - 1838年1月13日)はドイツボン出身の作曲家ベートーヴェンの弟子であり、師の回想録を出版した。主な作品には8つの交響曲ヴァイオリン協奏曲、9つのピアノ協奏曲、室内楽曲などがある。一部は録音されており、古典派と初期ロマン派の間の様式を示している。
 この9つのピアノ協奏曲というのが間違い。で実際このNAXOSのシリーズでも今回のピアノ協奏曲第9番と表記されていますが、過去のシリーズを拾うと第1番がないことに気付くはずです。

 実はリースの協奏曲の番号付けは下記のようになっています。
Concerto for 2 Horns in E flat major WoO 19 (1811)
Concerto No. 1 for Violin and Orchestra in E minor op. 24 (1810)
Concerto No. 2 for Piano and Orchestra in E flat major op. 42 (1808)
Concerto No. 3 for Piano and Orchestra in C sharp minor, op. 55 (1812, pub. 1826)
Concerto No. 4 for Piano and Orchestra in C minor, op. 115 (1809, pub. 1823)
Concerto No. 5 for Piano and Orchestra in D major, op. 120 'Concerto Pastoral' (c.1816, pub. 1823)
Concerto No. 6 for Piano and Orchestra in C major, op. 123 (1806, pub. 1824)
Concerto No. 7 for Piano and Orchestra in A minor, op. 132 'Abschieds-Concert von England' (1823)
Concerto No. 8 for Piano and Orchestra in A flat major, op. 151 'Gruss an den Rhein' (1826)
Concerto No. 9 for Piano and Orchestra in G minor , op. 177 (1832/33)
  そう、協奏曲第1番はヴァイオリン協奏曲なんです。珍しい番号付けですね。
 
 今、NAXOSでは「運命と呼ばないで」というリースのベートーヴェンに弟子入りしていた頃の回想録を元にした漫画を連載しています。ついでなのでリースについても説明を加えておきます。

220px-FerdinandRies
1784年11月28日(受洗日)、ボン生まれ。1838年1月13日、フランクフルトにて没。音楽一家の出身で、父親はヴァイオリン奏者のフランツ・アントン・リース。幼時からピアノ、弦楽器などを巧みに演奏し、音楽の才能を発揮するが、良い教師に恵まれず、 1801年、ウィーンに渡ることを決意。同地で、父親のかつての弟子であった同郷の音楽家、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンに師事。1804年には同地でデビューを果たす。
師のもとを離れてからは、ロシア、スウェーデンなどで研鑽を積んだのち、イギリスに渡り、この地でブレイク。ロンドンに居を構え、ピアニスト・作曲家・指揮者として活躍しつつ、ベートーヴェンの作品のロンドン普及にも貢献する。1824年に引退し、故郷ボンに戻ったのち、フランクフルトへ移る。音楽祭やオーケストラの運営などに携わりつつ、家族とともに平和な余生を過ごす。作品は交響曲8曲を初め、室内楽、器楽曲、協奏曲、声楽曲、オペラなどあらゆるジャンルに200曲程の作品を残した。

 
これを機会に、是非、フェルディナント・リース、聴いてみてください。
音楽ブログランキング にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ 

【打込音源紹介】ベートーヴェン(フンメル編)「プロメテウスの創造物」序曲による四重奏編曲版,S.107

【打込音源紹介】
今回は、フンメル「選びぬかれた序曲の四重奏曲編曲集」から、
ートーヴェン:「プロメテウスの創造物」序曲による四重奏編曲版,S.107


Arrangement from Beethoven's Opera"Prometheus Overture",S.107
Select Overture arranged for Piano, Flute, Violin and Cello
Sequenced by Mikio Tao
Sequencer:SONAR4
Score creation:Music Pro Windows Plus
Sound:Roland HQ Synthesizer Orchestral

音楽ブログランキング にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−10.ベートーヴェンとの別れ

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

=============================
Portrait-of-Beethoven-by-Arthur-Paunzen
  フンメルは1826年にウィーンで楽友協会会員に選出された。また、長年の友人でもあり、若い時にはライバルでもあったベートーヴェンの体調が優れず、翌年早々には危ないのでないかという噂を聞いていたため、1827年にベートーヴェンとも旧知の仲である妻・エリザベートと一番弟子のヒラーを連れてウイーンに行き、ベートーヴェンを見舞った。
 
この時の様子は、ヒラーの自伝・回想録に描かれている。それによると、1827年3月8日から23日までの間に4回ベートーヴェンの家に訪れている。過去の25年に渡る間には、様々な諍いがあった。生き方の違い、作曲法の違い、弟子たちの争い、誤解による絶交... しかし、この最後の会談ですべてを忘れる厚い抱擁があったという。妻・エリザベートは、ベートーヴェンを着替えさせ、体を拭いてあげたりするなど献身的な看病をした。筆談ではあったが、ベートーヴェンはフンメルに伝えた。
 
「ヨハン、君は幸せ者だね。成功して立派な弟子もいる。
そして何よりこんな美しい素晴らしい奥さんがいるんだから」
 
ベートーヴェンはフンメルの楽友教会の主催する慈善演奏会の自分の席を確保するように頼み、自分が死んだら記念演奏会にフンメルが出演して欲しいとも述べた。さらにエリザベートには、自分の髪を切って持っていて欲しいと伝えた。そして、フンメルには是非とも著作権の活動を頑張ってほしい、言い残した。
余談【ベートーヴェンの遺髪】
「鉛中毒説」の根拠となったベートーヴェン毛髪の研究は、1994年、ベートーヴェン研究家アイラ・ブリリアント氏とアルフレッド・ゲバラ氏がロンドンのサザビーズで毛髪を落札したのが始まりです。その後DNA鑑定の末、彼の病気に関してさまざまなことが判明したのですが、この毛髪を巡る歴史的な展開は「ベートーヴェンの遺髪」(白水社)という本にまとめられています。2人が遺髪を落札して、鑑定を依頼する話とは別に、170年の間、遺髪がどういう経路を辿って競売に付されたのかを探っています。
かいつまんで紹介しますと、1827年、ベートーヴェンが他界した時、弔問に訪れた音楽家のフンメルと弟子のヒラーが、遺髪を切り取りロケットに収めたのが「運命」の始まりです。ヒラーが死の前に息子のパウルに譲り、1911年、パウルが形見のロケットを修理に出した後、遺髪は数奇な運命を辿っていきます。その後遺髪が確認されたのは、ナチのユダヤ人迫害が強まった時代、デンマークの港町ギレライエの町医師のところでした。ユダヤ人であったヒラー家とナチ時代の迫害、そしてデンマークへの移動と、ベートーヴェンの意思とは関係なく、遺髪は歴史の流れに翻弄されました。最後に、ベートーヴェンが生前弟子に託した中で、自分の病気の解明というのがありましたが、この遺髪のおかげで、少なくとも彼を終生悩ませた下痢や腹痛に関して大方の原因が解明されました。(「作曲家の病歴2. ベートーヴェン」より)

23日の最後の訪問後の3日後、ベートーヴェンは息を引き取った。

フンメルは葬儀で柩の担い役を務め、またシンドラーとベートーヴェン友人たちが主催した追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行った。
フンメルは第七交響曲のアレグレットからの変奏曲とオペラ『フィデリオ』のなかの囚人の合唱に基づく幻想曲を演奏したが、これは非常に多くの人感動を与えた、とヒラーは書き残している。
■ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番より第二楽章 

Franz_Schubert_by_Wilhelm_August_Rieder_1875 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−5.ウイーンでの活躍と結婚

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。
 

=============================

 1811年に再びウィーンに戻った後フンメルはピアノの公演は行わず、ピアノ曲、室内楽曲、劇音楽の作曲家として大いに活躍した。当時の人気と知名度はベートーヴェンを凌いでいた。フンメルは音楽家としての本来の演奏や作曲といった活動を柱とすべくウイーンに戻ってから4年もの間こうした多忙な生活を続けていくことになる。

 1806年にベートーヴェンのオペラ『レオノーレ』の上演の際、フローレスタン役を担った有名な歌手:ジョセフ・レッケェルの妹:エリザベート・レッケェルと出会ったのは1812年、エリザベートが19歳の時であった。美しい歌声と美貌を持つこの若き歌手にフンメルは求婚し、結局翌年の1813年、エリザベートが二十歳になって結婚した。

 この事は再びベートーヴェンとの間に軋轢を生む結果となってしまった。ベートーヴェンはもっと以前からこのエリザベスの才能を高く評価し、また恋心を抱いていたと言われている。ベートーヴェンの遺品にあった宛先不明の「不滅の恋人へ」の手紙は、このエリザベートへ宛てたものだという説もある。
 *この辺りについては、以前にも記事を書いたので参照ください。

 ベートーヴェンも彼女に求婚したとする伝記作者もいる。ともかく、彼も彼女に思いを寄せていたことだけは間違いないであろう。しかしベートーヴェンにはブレンターノ嬢の存在もあったし、結局エリザベートはベートーヴェンではなく、フンメルを選んだのだ。当時はどちらが偉大という感じでなく、むしろフンメルの方が高く評価され、ベートーヴェンは異質の天才、と評価されていた。そのため「幸福な人生」を送るための選択として正しかったかどうかを見ると、この選択は決して間違いではなく、むしろ正しい選択だったと思えてくる。もちろんエリザベートがベートーヴェンを嫌いであったはずもなく、その才能も含めて大変に敬愛していたことは間違いない。

 とはいえ、ベートーヴェンとの接触がなくなったわけではなく、例えば1813年にフンメルはベートーヴェンの指揮による「戦争交響曲」の演奏の祭に打楽器奏者を務め(*)、またその後のベートーヴェンのメモも、両者の友情が続いていたことが示している。
 (*)1813年にナポレオンの敗北に伴い、ベートーヴェンのウェリントンの勝利の祝典曲が演奏されることとなった。フンメルは1813年12月の初演のために結成されたオーケストラの一員として、友情参加していた。他にはサリエリ、シュポア、マイアベーアとモシェレスらも参加していた。

 しかし、フンメルが行った<フィデリオ>序曲のピアノ4手用編曲はベートーヴェンを満足させず、彼はそれを破り捨て、ピアノ譜を完成させるというその仕事をモシェレスにゆだねた。このウィーンの二大寵児の書法の隔たりは、今や極めて大きくなっていった。

Hummel3 エリザベートとの結婚生活と共にフンメルの作曲家としての名声も活動も充実の一途をたどっていた。この頃にフンメルは二人の息子を授かった。長男の後にエードゥアルトはピアニストに、カールは画家となった。カールは後にショパンのスケッチを書くことにもなる。しかし、この「職業作曲家」としてのピークを迎えようとしている時期に、若い妻は歴史に影響する助言をフンメルに与えることとなる。
 
elisabeth1 エリザベートは、フンメルのピアノ演奏を高く評価しており、またそんな才能ある彼が作曲やレッスンだけに追われている日々を憂いでいた。ある日夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、
「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」
と助言したのだった。
 
 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
 そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べている。

「彼の演奏は、規律正しく優雅できらびやかで、素晴らしいものであった。特に先ほど演奏されたばかりのワルツの主題をとって、即興的に変奏を繰り返し、最後は華やかなコーダで締めくくった演奏は、驚くべきものだった」

 ベートーヴェンの方は耳の病気のため演奏活動から遠ざかることとなり、より作曲活動へ集中していくこととなった。逆にフンメルはピアノの巨匠として音楽界に返り咲くことになったのである。この時期からフンメルの作曲活動は、自身の演奏会用のピアノ作品が中心になっていったのである。
 
 早速、フンメルと彼の妻はトリエステ、プレスブルク、プラハを含むコンサートツアーに出かけた。1816年1月にはウイーンに戻り、代表作の一つ「七重奏曲 ニ短調、Op.74」を初演し、大好評となった。

七重奏曲 ニ短調、Op.74」(第1楽章アレグロ・コン・スピリート打込音源紹介)


  プラハでは、カール・マリア・フォン・ウエーバーと会い、ピアノリサイタルを聴いたウエーバーに大きな衝撃をもたらしている。ウエーバー自身もピアノのヴァルトーゾであったが、彼は劇音楽の分野で有名になる。フンメルもウエーバーの才能を高く評価し、彼の作品の編曲や、主題を利用した幻想曲やオーケストラ作品を作曲し、最後まで敬意を表していた。

 
 エリザベートの助言に従って行ったこのツアーでフンメルは確信した。演奏家の大家としての自分の立ち位置、と自分らしさを表現する活動の方法を。
 
 こうして、ベートーヴェンと同じ土俵での競争に終止符を打つこととなったのである。


 
a8cb8b1d288c4910238bbbd99108d50e_sにほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−4.ハイドンの後継者として

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

=============================
 
 フンメルの作曲の才能は、エステルハージ邸に在籍していた8年間の間に、宮廷で求められた新作の要求ら応える形で、合唱音楽や宗教楽曲の分野で革新的な発展を遂げた。 
 ここの楽団には優秀なミュージシャンが集められており、100人規模のオーケストラと歌手を抱えていたのである。ハイドンによる鍛え上げもあって、レベルの高い演奏する楽団としてウイーンでも名が通っていた。
 興味深いこととして、フンメルが楽長を務めていた当時、このオーケストラの第二チェロ奏者にアダム・リストが在籍していたことである。彼は1812年に生まれるフランツ・リストの父親である。

 フンメルの最初の仕事は、1803年にウィーンの宮殿で開かれたコンサートを取り仕切る事であった。当時こうした演奏会で披露された曲の一曲に、有名なトランペット協奏曲(ホ長調)がある。当時の巨匠アントン・ワイディンガーの技巧を活かすために書かれ、この曲はワインディンガーによって1804年の元旦にウイーンで初演されることとなった。
 フンメルの音楽は、モーツァルトの影響を前面に出した構成とメロディーで、軽快なアレグロでウイーン古典派最盛期の音を轟かせたのである。さらに、第三楽章では聴衆の受けを狙ってか、当時ヒットしていたケルビーニのオペラから人気のある現代的な行進曲のテーマを取り上げて、フィナーレを盛り上げた。
 この曲はエステルハージやウイーンの聴衆に賞賛をもって受け入れられた。

 フンメルには1200グルデンの年俸とアイゼンシュタットに宿舎が与えられた。作曲することと約100人から成る礼拝堂楽団を指揮することのほかに、義務として少年聖歌隊員にピアノ、ヴァイオリン、チェロを教えること、ハイドン関係の書類の整理があった。
 しかし順調という訳ではなかった。フンメルのエステルハージ邸での仕事は全てが分担制になっており、権限がない部分も多く、この楽団を上手く一つにまとめ上げることができないでいた。特に1766年からここで働き、先代から愛されていたハイドンは、謙虚で外交的で後身的で几帳面だったため、比較されるとフンメルの仕事はあまり評価されなかったようである。責任分担でいうと合唱団はフックスに権限が与えられていたり、ハイドンに比べると50歳も若く、機転の利かない点や新しい役割に対する不満も態度に表れていたという。
 
 一方では演奏家としては人気者だっただけに、ヨーロッパ各地から声がかかり、休暇を取って演奏旅行に出かけたいと思っていたが、なかなか許可が出ない事にも不満を漏らしていた。
 余談であるが、彼は若い割には太っていて、それなのに見た目とは違う見事な演奏をする者として、話題を呼び、彼のカフェでの演奏会などでは人が溢れんばかりの人気を博していたという。エステルハージ王子ニコラスは、自分が雇い主でもあるのにもかかわらず、フンメルのこうした活動に不満を持っていた。このフンメルの態度は明らかにハンドンの従順さとは違っていたのである。

 
 ニコラス王子は一方で、フンメルの一連の仕事には満足していた。それは彼の作曲したミサ曲であった。ミサの新曲の披露は王子の妻の命名日の記念行事としてハンドンによって始められた伝統の一つ。この伝統行事の為にフンメルは5曲のミサ曲を残したが、いずれもハイドンやモーツァルトの伝統を継承した対位法も含まれる厳格な大ミサ曲で、ニコラス王子はこの仕事に対して大いに満足だったという。
ミサ 変ロ長調,Op77 より第一章『キリエ』
 
a6ca5f337bf8f655c9eef68e74c97f17 ニコラス王子は、フンメルと同様に有名なベートーヴェンにもミサ曲の作曲依頼をして、1807年に初演された(ミサ曲ハ長調,Op.80)。それを聞いたニコラス王子はベートーヴェンの作品には好感が持てなかったらしく、「親愛なるベートーヴェン、貴方のこの作品は一体なんですか?」と言ったらしい。隣にいたフンメルはこの発言に「苦笑い」をしていたのだが、ベートーヴェンは猛烈に怒り狂い、フンメルの態度を罵倒した。これはベートーヴェンの勘違いで、フンメルが王子に同調して作品を嘲笑ったと思ったのだった。

「ヨハン、君には失望したよ。君の雇い主はたいそうな音楽趣味を持っているそうだが、僕には悪趣味としか言えない。それに君も同調するのか?」

 
 あるとき職務の一つであるハイドンの作品を整理する関係の仕事に絡み、候が秘蔵するハイドンの42曲のカノンの出版権をフンメルが売却したと中傷された。この非難は、後に事実無根であることがはっきりするが、非常に敬愛されたハイドンの後継者としてのフンメルに対する不満やねたみの一つの表れに過ぎなかったと思われる。

 そんなこともあって、彼は次第にウィーンのために作品を書くことに熱中するようになっていった。フンメルはウイーンの劇場の為にオペラや劇作品、バレエ音楽等を依頼されては提供していた。彼は人気作曲家であったのである。また父ヨハネスはこの頃ウイーンの有名なアポロ・ザールでの音楽監督を務めており、息子にせっせと舞曲の作曲依頼をしていたのである。アポロザールの為の舞曲集は6曲にも及び、その他のメヌエットなど多数の舞曲が作曲された時期でもある。こうした事実は、彼の本来のエステルハージ楽団での職務を怠っていると受け取られることとなった。当然であろう。
 
 そしてとうとう1808年のクリスマスのコンサートの後、ニコラス王子はフンメルを「準備不足」として更迭し解雇を言い渡した。しかし直ぐにハイドンの仲裁によって解雇は取り下げられ、再びこの職に就くこととなった。しかし、彼は自分の求める仕事や音楽を書くことを規制された状態で、自分を押し殺すように仕事をしていたが、長く続くはずもなく、やがては同じ道をたどることになる。1811年5月に再び解雇を言い渡され、フンメルは取り下げの懇願もしてみたが、今回は覆ることはなかった。
 
 この時代は彼に宗教音楽と劇音楽において貴重な経験を与え、彼はオーケストラと歌劇場を運営し、大きな音楽団体の雑事を一手に引き受けた。またウィーンに近いことも幸いし、この楽都に揺るぎのない足掛かりを築いた。そのウイーンに戻り、作曲と演奏活動に戻ることとなったのである。

a8cb8b1d288c4910238bbbd99108d50e_sにほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ 

ヨハン・ネポムク・フンメルの生涯−3.ウィーン帰還とベートーヴェン

以後の記述は、The Hummel Projectの記事をメインに加筆・改定しております。

=============================

 フンメル家は、 1793年の春にウィーンで生活に戻って定住し始めた。ヨハンはアントニオ・サリエリアルブレヒツベルガーに合唱、和声法、対位法など、作曲家として必要な知識、理論を学んだ。サリエリやアルブレヒツベルガーは、この時期一足早くウイーンに住んでいたベートーヴェンも教えており、フンメルと全く同じであり、この時期にお互いを知る機会を得たものと思われる。ハイドンはオルガンについての多くを教えたが、しかしハイドンはフンメルに「君はピアノ演奏家として素晴らしい才能に恵まれているんだ。それはオルガンの奏法とは全く別のもので、このままオルガン演奏に必要な訓練は、君のピアノ演奏に悪い影響を与えることがあるから控えなさい」と助言したのだった。
 
 フンメルにとって作曲はますます重要な活動となっていったが、モーツァルトの死後、ピアノ演奏の文化が盛んになり、ピアノの巨匠の演奏を聴くことは、この時期のウイーンの大きなブームとなっていた。

 

20070923_354692
 ベートーヴェンとフンメルは、ウィーンのピアノ演奏家の最高の地位を争い、お互いが定期的に演奏会を開催した。また、お互いが相手の演奏会に出かけ、意見の交換や批評をやり取りしたのである。フンメルはまだ10代であったが、ベートーヴェンンはフンメルより8歳年上である。既にモーツァルトの未亡人の為の慈善演奏会や多くのブルジョア階級と付き合い、多くのパトロンを得ていたのだ。しかも就職という事に固執せず、芸術家の地位を高めようとしていた。
■フンメル/ピアノソナタ第3番嬰へ短調,Op.20(1803年)

 一方フンメルは、ウイーンへ戻ってきてからの10年間は作曲家として成長し、成熟していった時期でもあるが、収入が極めて不安定であり、1日に9、10人にレッスンをして、朝の4時まで作曲に取り組み、大規模な弟子の会を組織した。時にはコンサート・リサイタルを開催し、時には個人の家に行って演奏し、評判もあってウィーンのピアニストの第一人者として、忙しくなっていった。そしてスポンサーとなる人物には好き嫌い関係なく積極的に演奏し、自分の才能を惜しげもなく提供したのだった。
 これがベートーヴェンの理想とする芸術家と全く異なる生き方だったため、ベートーヴェンはフンメルに対して苛立ちを覚えている。ベートーヴェンもフンメルの才能を認めており、お互いに切磋琢磨して「芸術家」を目指して欲しかったのだろうか?
 
196800_340431202711578_1217203016_n それでも、二人は共にウイーンの中では最も有名で、最も優れたピアノの巨匠として君臨していくことになる。  双方の弟子たちの間では、ベートーヴェン派とフンメル派に分かれて対抗的な批判合戦にまで発展していったようだが、当の本人たちは、良きライヴァルとしてお互いが切磋琢磨している充実した時代でもあった。ベートーヴェンが弦楽四重奏を出版するとすぐにフンメルも出版する等、常に意識する関係となって行った。当時のウイーンでは演奏だけではなく、出版作品においてもこの二人が頂点となっていて、ピアノ三重奏曲等はもっとも人気の高い作品であった。作曲家としての評価はむしろフンメルの方が上だったともいえる時代である。こうした刺激し合う良きライヴァル、良き親友の関係は、途中に何回も喧嘩(殆どがベートーヴェン側からの一方的な絶交宣言)で疎遠になった時期もあるが、ベートーヴェンの死まで続いたことは確かな事実であり、音楽史上の奇跡である。
フンメル/弦楽四重奏曲 第2番 ト長調 第4楽章(1804年)
(3つの弦楽四重奏曲集、Op.30より)
 


 フンメルは早い段階でベートーヴェンの才能が巨大であることに気付いていた。そしてその才能に尊敬の念を抱いていたが、やがて自信喪失になっていった。ベートーヴェンの生み出す新作作品には、新しさと才能に溢れる、他の作曲家には見られない独自性があった。特に彼の交響曲は他の追随を許すものではなく、巨大な芸術として君臨した。
 フンメルは後の弟子:フェルディナント・ヒラーに次のように語っていた。
「ベートーヴェンのような才能と同じ道を歩くべきなのかどうか自信が持てなかった。自分には何ができるか判らなかったのだ。時がたつにつれ、ある考えに至った。“ベートーヴェンを追う必要はない。私は私らしく、自分に忠実で素直にあり続ければ良いのだ”と。」(ヒラーの回想録より)。
 
 自分らしく...
 結局、フンメルは交響曲を一曲も書くことはなかった。

 

 フンメルは1803年、ハイドンの推薦によって、若干24歳にしてシュトゥットガルト管弦楽団の楽長となった。しかし、この職は双方にとって満足のいくものではなかったため、わずか1年で契約を終了してしまった。ハイドンは今度は直ちに彼自身の雇い主であるニコラスエステルハージ伯爵に彼をコンサートマスターとして推薦した。
 ウィーン宮廷劇場の監督からも仕事の誘いもあったりしたが、結局1804年4月1日にエステルハージ候の楽士長として契約書に署名した。これは事実上、楽長の地位であってハイドンは、職位こそ以前のまま楽長であったが、体力的な問題もあり、名誉職として在籍しているに過ぎない状態であった。

 このウイーンから南に50kmほどの壮大な宮殿では、楽団の統制、整備、訓練、楽譜の整理、そして新作の発表と演奏会など、やるべきことは山積みであったが、ハイドンはこの宮廷での職務を全うできずにいたため、自分の代わりとなる優秀な音楽家を探していた。ハイドンのこれらの仕事に就いたのは、フンメルの他に、副学長のフックス、第二コンサートマスターのトマシーニらであった。
 
a8cb8b1d288c4910238bbbd99108d50e_sにほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

今日はフンメルの没年175年

196800_340431202711578_1217203016_n

 フンメル最後の10年。

 フンメルの晩年、最後の10年間は、新しい世代の音楽・演奏家に押されはじめていましたが、演奏者としては絶頂期であった。教師、楽長、音楽家としての名声はヨーロッパ中に知れ渡っており、多くの音楽家が集まり、弟子入りを希望した。

 1827年にフンメルは、妻と弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。

 生前、幾度となく対立・和解を繰り返してきたこの時代の二人の巨匠は、この機会で最後の和解となった。
ベートーヴェンが亡くなるとフンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた、とヒラーは書き残している。

 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

 1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。
この演奏旅行は彼の成功を最後に、以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。

 1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、モシェレスやカルクプレンナーら、フンメルのブレーンもチケットを売ることに遁走したが、苦労したらしい。作風が新しく台頭したピアニストたちに比べて「古臭い」(リスト)と思われたのだった。

 一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務め、自作のほか、ウェーバー、モーツァルトを取り上げたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。そして1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。

 残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。

 でも彼は膨大な遺産を妻子に残している。才能ありながら、安定を求め、宮使いになったフンメルをベートーヴェンは気に入らなかったという。もっと音楽家、芸術家として自分の魂を!  というタイプではなく、最後まで職業作曲家であった彼は、音楽が持つ雰囲気とは別に、あくまでも「古典派」の域を出なかった作曲家であった。

 没年 175年。

a8cb8b1d288c4910238bbbd99108d50e_sにほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

4月5日は、シュポーアの誕生日!

6763495473_8ea6f0e06e今日は、大好きな作曲家 ルイ・シュポア(Louis Spohr, 1784年4月5日 ブラウンシュヴァイク生 - 1859年10月22日 カッセルにて死亡)の誕生日です。

シュポア Wiki

シュポーアは、ほぼフンメルと同時代人であり、交流もありました。特にシュポーアが1813年から1815年までウィーンのアン・デア・ウィーン劇場の指揮者を務めている間は、ベートーヴェンやフンメルらと交流したようで、特に「ワン・ドゥカーデン・コンサート」とでは、幾度となく共演しています。



シュポーアは、モーツァルトを敬愛し、後継者として自認していたようですが、比較的長い生涯において「モーツァルトっぽい」のは数が少ないですね。例えば、交響曲第1番や第2番などは、モーツァルトの三大交響曲や「魔笛」の序曲からの楽想がたくさん出てきますし、半音階メロディーを多用したのは、後期のモーツァルトから感化されたものに違いありません。



彼の曲は、「強い主張」もなく、「ここで盛り上がったら最高だぁ」というところで盛り上がらない感じで、短調の作品などは「陰々鬱々」とした主題が永遠と繰り返されるような雰囲気を持っています。


これがたまらなく好きなんですが...


好きな曲は、交響曲の3番と4番「音の浄化」、ヴァイオリン協奏曲第7番(一番有名なのは第8番「劇唱の形式で」でしょうけど)、複合弦楽四重奏曲、ヴァイオリンとハープのための協奏曲 ホ短調、ピアノ三重奏曲第1番...といったところです。


かなり改革・革新的な音楽を作り続けていますが、ヒットメーカーの同時代人(ベートーヴェン、ウェーバーやメンデルスゾーン)に比べると、大衆的なヒット曲がないのがマイナーな理由でしょうか。そこはフンメルと似ているとも言えますね。

 





音楽ブログランキング にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

フンメルと関係のあったピアニスト−3 モシェレス

イグナーツ・モシェレス(Ignaz Moscheles, 1794523 - 1870310)はチェコの作曲家、ピアノ奏者。プラハに生まれ、ライプツィヒに没す。

 

Moschelesモシェレスは、べートーヴェン時代のウィーンで、もっとも人気のあるピアニストの一人であった。チェコのプラハの生れで、1804年から4年間、折からプラハにいて音楽学校でも教えていたヴェーバーにピアノを学んだ。その後1808年にウィーンへ戻り、対位法や作曲法を勉強し、べートーヴェンとも親交を結んだ。1814年、ウィーン会議の年には、フンメルと並んでピアニストとして声望があり、翌年からは演奏旅行に出て、1812年のロンドンでは、クレメンティやクラーマーと並ぶ名演奏家として賞讃された。1824年にはベルリンで15歳のメンデルスゾーンを教え、これが機縁で、二人は生涯を通じて親交を結ぶことになった。


 1825
年からロンドンに定住し、王立音楽学校のピアノ教授となった。タールベルクを教えたのはこの時期である。1846年にメンデルスゾーンに招かれて、彼が創立したライプツィッヒ音楽院のピアノ科の主任教授となり、終生この地にとどまって、多くの弟子を育てた。

 

結果的には、モシェレスによってウィーン奏法とイギリス奏法の伝統が、ドイツのライプツィッヒに根をおろした、とする論文もある。ウィーンの音楽批評家ハンスリックはモシェレスを評して、

 

「ピアノの古典楽派の最後の代表者であると同時に、新時代の開拓者」

 

と述べている。

 

 モシェレスは、モーツァルト、ベートーヴェン、フンメルを大変尊敬し、特に2回に渡るフンメルのパリ公演の際には様々な手伝いをしている。

音楽ブログランキング にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

人生を変えた妻の助言-2

elisabeth1 フンメルの妻・エリザベートについては、

「エリーゼのために」本当は「エリザベートのために」?

 でも触れたが、ウイーンでベートーヴェンとも交友ががあった当時著名なソプラノ歌手だった。
 フンメルと結婚したのは1813年。エステールハージ家から離れてウイーンで「作曲家」「ピアノ教師」として引く手あまただったころのことである。

 エリザベートは、ピアノ演奏家の大家である夫がステージ活動から離れていることに懸念を示し、「あなたほど弾ける人がもったいない。是非ステージに復帰すべき」と助言したのだった。

 その助言を受けてフンメルはステージ活動に復帰したのだが、折りしも1814年から1815年にかけてウイーン会議が開催され、世界各国の要人、貴族がウイーンに集まっていたため、フンメルの演奏は評判に評判を呼び、ひとつの名物となっていた。
そのウイーン会議のパーティーにも招待され、物凄い衝撃と喝采を浴びたという。この時の演奏ぶりを作曲家シュポーア(Luis Spohr)が回想録の中で述べられているが、その内容はまたいずれ...

 この時の妻エリザベートの助言が無かったら、音楽史が変わっていたかも知れないし、フンメルという名を聞くことも無かったかもしれない。また、有名なピアノ協奏曲の数々やソナタ、ピアノ奏法の著作も生まれなかったかもしれない。

 とても重要な助言であった。

音楽ブログランキング にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ

フンメルとピアノ奏法について-4 ツェルニーの証言その2

 カール・ツェルニー(Carl Czerny)は、自叙伝(1842年執筆)の中でピアノ音楽史の中では有名なベートーヴェンとフンメルのピアノの演奏についての言及があり、これは以前、「フンメルとベートーヴェンという記事で紹介した。

 

 ここで述べておきたいのは、下記のツェルニーの証言である。

 

「〜私はといえば、私がいっそうの清澄さと明確さを目指すようになったという意味では、私もフンメルに影響されたことになる」

 

 事実、ツェルニーのピアノ曲、ピアノ室内楽、ピアノとオーケストラの協奏曲らを聞くと、ベートーヴェンというよりフンメルと聞き間違えるほどの書法、奏法を駆使した楽曲が多いのがわかる。この点については、同じくベートーヴェンの弟子であるフェルディナント・リース(Ferdinad Ries 1784-1838)の作品と聞き比べるとその違いが顕著で、リースは明らかにベートーヴェン的であるといえよう。


-------
リースの作品

Ferdinand Ries: Piano Concertos Op. 123 (1806) &amp; Op. 151 (1826)
Ferdinand Ries: Piano Concertos Op. 123 (1806) &amp; Op. 151 (1826)
販売元:Naxos
発売日:2005-11-15

Ferdinand Ries: Piano Concerto; Swedish National Airs with Variations; etc.Ferdinand Ries: Piano Concerto; Swedish National Airs with Variations; etc.
販売元:Naxos
発売日:2007-09-25

Ferdinand Ries: Piano Concertos, Vol. 3Ferdinand Ries: Piano Concertos, Vol. 3
販売元:Naxos
発売日:2009-03-31



ツェルニーの作品
Czerny - Piano works for four handsCzerny - Piano works for four hands
販売元:Sony Classical


Czerny: Chamber MusicCzerny: Chamber Music
販売元:Meridian
発売日:1998-06-23

Rondo Brillante: Early Romantic Works for Piano and OrchestraRondo Brillante: Early Romantic Works for Piano and Orchestra
販売元:MSR
発売日:2006-08-22

フンメルとピアノ奏法について-3 ツェルニーの証言その1

 フンメルの演奏については、ベートーヴェンの弟子でもありリストの師匠ともなったカール・ツェルニー(Carl Czerny)の自伝の中に次のように記載されている。

 

−−−−−−−−−−−large_124

 およそ1802年から04年までの数年間、私は父と一緒にモーツァルト未亡人(*コンスタンツェ・モーツァルト)の家を訪れていた。そこでは土曜日ごとに音楽の夕べが催されていたからである。そこでは、シュトライヒャーの弟子でもあるモーツァルトの息子(*フランツ・クサーヴァー・モーツァルト=1791年生まれのモーツァルトの末子)がきわめて巧みに演奏していた。

 

 そんな音楽の夕べのひとつのことである。いつもよりずっと多くの人々が集まっていた。ところが私はそうした多くの優雅な紳士淑女の中に、随分と奇異な感じのする風貌の青年がいるのに気がついた。

 

・いつもピクピク動かしている下品で不快な顔面

・きわめて趣味の悪い服装

・薄ねずみ色のフロックコート

・深紅色の長いベストと青色のズボン

 

以上の姿からは、どこかの田舎村の学校教師ではないかと思われたが、そんな感じとは裏腹に、彼の指という指には高価な指輪がはめこまれていて、それらが一緒になって光り輝いていた。

 

 音楽会はいつものようにすすめられたが、最後になって例の青年(20歳をいくらか超えたであろうと思われる)が弾くように勧められた。

 

 私はそこでなんとすばらしい巨匠の演奏を聞いたことか!

 

 当時の私はすでに、ゲネリック、リパフスキー、ヴェルフル、そしてベートーヴェンでさえも聞く機会をしばしば持っていたのに、この貧相な男の演奏は、私にはまるで新世界のように思われた。私はそれまで、
これほど新しくて輝かしい技法を、
これほど清澄で典雅で繊細な演奏表現を、
これほど豊かな趣味を持ってまとめあげられたファンタジーを
聞いた事は一度もなかった彼がその後、モーツァルトのソナタを数曲、クロンマーの弾くヴァイオリンと一緒に演奏したとき、以前から知っていたそれらの曲も、私には新世界に移ったのである。


 演奏が終わってすぐ、この青年がフンメルという名で、かつてはモーツァルトの弟子であり、今はロンドンから戻ってきている(ロンドンではクレメンティに師事していた)ということを知った。
 

−−−−−−−−−−−

ツェルニーの自叙伝(1842年執筆)より
*注釈:フンメルノート

 

 

(つづく)

フンメルとピアノ奏法について-1

 音楽の歴史を全体像として完成させるためには、ある様式の発展の頂点に立つ作曲家のみではなく、その様式の発展の過程において不可欠であった作曲家の存在を見逃すわけにはいかないであろう。
 例えば、ショパンの音楽が如何にして「ベートーヴェン時代」のすぐ後に続いたかを説明するのは難しいが、ある範囲においてフンメルがそのギャップを埋めている。

 ショパンがフンメルを非常に尊敬していたことは、1840年に知人のピアニストに宛てた手紙の中に

「モーツァルト、ベートーヴェン、フンメルなどの偉大な巨匠たち」

と記されていることからも知ることができるが、ショパンの音楽の特徴である繊細なパッセージ・ワークと音符の構成は、フンメルの音楽の中にも多く見られるものである。
---------------------
*注
フンメルの24の練習曲,Op.125
ショパンの二組の12の練習曲(Op.12、Op.25)

フンメルのOp.89をはじめとするピアノとオーケストラの作品群
ショパンのピアノ協奏曲やその他の作品群

これらの楽曲を聴くと、ショパンがフンメルの影響を受け、かつ触発されていたことは明らかである。
---------------------

 一方、フンメルはベートーヴェンを友人として、ライヴァルとしての関係を超えたところで偉大な作曲家として尊敬していたが、その影響=ベートーヴェンの音楽の影をフンメルの音楽の中に見出すことは容易ではない。フンメルは主題と装飾、陰影というモーツァルトの音楽の世界をショパンに伝え、ベートーヴェンは、モチーフを発展させていくハイドンの世界をブラームスにつなげたという考え方もできる。

ジェフリー・ゴヴィエ 注釈:フンメルノート

「エリーゼのために」本当は「エリザベートのために」?

ベートーヴェンの名曲小品「エリーゼのために」のエリーゼって誰だ?
という議論は昔から行われているのだが、面白い見解の記事を。
フンメルの妻・エリザベートは、ベートーヴェンが恋心を寄せる一人であり、フンメルと結婚してしまったがためにフンメルとの仲違いがあった、というような文献もありました。

---------------------------------
今回は、asahi.comの記事より
http://www.asahi.com/culture/update/0728/TKY200907270454.html

ベートーベン(1770〜1827)の名曲「エリーゼのために」は知人の妹に贈った可能性があると、ドイツの音楽研究者がこのほど明らかにした。これまではハンガリーの伯爵令嬢「テレーゼ」に贈られ、判読しにくい文字を読み間違えて「エリーゼ」になったとの説が有力で、独研究者の調査は「エリーゼ」論争に一石を投じそうだ。

 ベルリン在住の音楽研究者クラウス・マルティン・コピッツ氏によると、「エリーゼ」は、ベートーベン作曲のオペラにも出演したテノール歌手ヨーゼフ・アウグスト・レッケルの妹で、独南部レーゲンスブルク出身のソプラノ歌手エリザベート(1793〜1883)の可能性が高いという。

 コピッツ氏は5月中旬、彼女が住んだウィーンの教会の書庫で、彼女の第1子の洗礼記録(1814年)を発見。母親の欄には「マリア・エバ・エリーゼ」とあり、当時、彼女がエリーゼと呼ばれていたことがわかったという。

 エリザベートは1807年、兄を追ってウィーンに住み、兄を通じてベートーベンと親交があった。10代後半の彼女の美しさは有名だった。1810年に作曲された同曲の正式名には「4月27日の思い出に」という記述があり、同年に彼女が一時、ウィーンを離れていたことから、コピッツ氏は「曲はエリザベートとの別れにちなんで作られた」との可能性を指摘する。

 彼女は1811年にウィーンに戻った後、ベートーベンの友人でライバル関係にあった作曲家のヨハン・ネポムク・フンメルと結婚。エリザベートは夫とともに、死の床にあったベートーベンを訪問。彼女に自らの髪の一部と羽根ペンを手渡したという記録も残っているという。

 「エリーゼが誰かという謎が解けて感激だ」と話すコピッツ氏は来年、今回の発見を論文として発表する予定だ。(ベルリン=金井和之)

フンメル/幻想曲集 乾まどか

フンメル:幻想曲集(乾まどか)フンメル:幻想曲集(乾まどか)
アーティスト:乾まどか
販売元:Naxos
発売日:2006-01-01
クチコミを見る

当時のウイーンでは、ベートーヴェンとフンメルが争うように作品を発表し、互いに意識してきた。現代では考えられないほど差がついているが、当時の人気はフンメルのほうが上だったという。
そうした若い時代のピアノ曲の代表でもある幻想曲変ホ長調Op.18を含む、幻想曲集。
それにして、Op.18は休むことなく一人で30分近くも演奏しなければならない。それも楽譜を見ると真っ黒なくらい音符が多く、高度なテクニックも要求される。
昔から知られている曲だが、録音は少なく2000年代の録音ではこれが最初。
1998年にジュリアーナ・コルニの演奏で(伊)DYNAMICからリリースされた 
ピアノ曲集以来の新録である。

乾さんの演奏するピアノは、使用楽器そのものが重い音を発しているが、演奏は文句なし。落ち着いたテンポ、微妙なニュアンスをしっかり表現している。
他の作品も同様だが、楽曲的には面白みに欠け、Op.18に勝るものはない。

パガニーニの楽想であふれる幻想曲(WoO.8)に至っては、2つの録音しか見当たらないので貴重。

「幻想曲」という括りでの企画にも拍手。彼女には是非フンメルの「ピアノ曲集」の録音を今後も続けてもらいたい。

フンメルとベートーヴェンについて

 ベートーヴェンの演奏が、その驚くべき力、品位、前代未聞の妙技と達者さによって目立っているとすれば、フンメルの演奏はこれに反して極めて清麗で明確な演奏の模範であり、最も人を魅了する優雅さと繊細さとのモデルであって、フンメルがモーツァルトの奏法とクレメンティ派のそれとを楽器に適するように巧みに合わせて以来最も困難とするところは、いつも最高の、そして最も驚くべき効果を狙う点にあった・・・。

 フンメルの追随者たちは、ベートーヴェンのことを「彼はピアノを虐待し、ただ混乱した雑音を作るに過ぎない」と悪口を言い、また「彼の作品は不自然で、わざとらしく、非旋律的で、変則的だ」と貶した。
 一方ベートーヴェンの信望者は、「フンメルにはすべてにおいて真のファンタジーがかけている。その演奏はクラヴィコードのように単調で、彼の指は蜘蛛のようにしがみつく。そして彼の作品はモーツァルトとハイドンのモティーフの単なる焼き直しにすぎない」と主張した。

ツェルニー回想録より

音楽家の自叙伝―クヴァンツ/ベンダ/E・バッハ/ツェルニー

音楽家の自叙伝―クヴァンツ/ベンダ/E・バッハ/ツェルニー音楽家の自叙伝―クヴァンツ/ベンダ/E・バッハ/ツェルニー
著者:東川 清一
販売元:春秋社
発売日:2003-04-01
クチコミを見る

今回ご紹介するのは、4人の作曲家たちの自叙伝の邦訳。
今も昔も有名人は自叙伝(もしくは自伝)がお好きなようで、特にロマン派以降は多いですね。また、身近にいた者の回想録なども多いです。

モーツァルトはこの手のものは書きませんでしたが、死後すぐに多くの人が証言したものをノヴェロ夫妻が記し、今では邦訳でも手に入れることができます。

シュポアの回想録などは、当時の音楽事情や音楽家ならではの観点から見た批評などが豊富らしく、是非手に入れたいと思っていますが、実現には至っていません。

フンメルもモーツァルトとの回想録や自叙伝があるようですが、現物を読んだことがないため、是非この本の訳者と出版社にお願いしたいと思っています(他力本願...)

さて、同書においてツェルニーはベートーヴェンともフンメルとも近い人物で、ベートーヴェンの直弟子でありながら、フンメルのピアノ奏法に陶酔し、フンメルからも学んでいます。それを裏付ける証言がこの自叙伝に記載されていて、フンメルをはじめて見たときの感想から、演奏を聴いたときの感動まで綴っています。

クヴァンツは、フルートの大家で作曲家、ベンダはモーツァルトにも影響与えた作曲家です。内容はここでは触れませんが、当時の生活ぶり、仕事ぶりがわかって大変楽しく読めました。値段も手ごろなので是非一読を。

フンメル:荘厳ミサ曲/テ・デウム

フンメルのミサ曲は全部で5曲。

◆ミサ 変ロ長調Op.77
◆ミサ 変ホ長調Op.80
◆ミサ ニ長調Op.111
◆荘厳ミサ ハ長調WoO.12(S.74)
◆ミサ ニ短調WoO.13(S.67)

今のところこのMissa Solemnis(荘厳ミサ ハ長調WoO.12(S.74)は、今回紹介するグロッド盤が唯一のもの(2009.1月現在)

フンメルのミサ曲はハイドン、モーツァルトからシューベルトへと受け継がれていくオーストリアの古典派ミサ曲の典型で、華麗かつ大編成、対位法を駆使した楽曲も含まれる大作ぞろい。フンメルの宗教作品はその殆どが、若い時代、ハイドンの後継者としてエステルハージ宮廷時代のもの。
モーツァルトのミサよりもハイドンの後期の作品に類似しており、この分野では明らかにベートーヴェンの同時期の作品(Op.86)よりも手馴れた作品に仕上がっている。
アニュス・ディの終結部は2種類残されており、静かに終わるものと、大規模で華やかなコーダがあるものがあり、後者はロンドン公演用に書き換えられたものと思われる。
楽器編成は、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット2、トロンボーン1、ティンパニー、弦5部、ソロ、コーラス。


Te Deumは、このジャンルの彼の最高傑作。華々しいファンファーレで幕を開ける祝典雰囲気のあふれる楽曲だ。
レコーディングも珍しく3種類あるが、この盤の演奏が一番オーソドックスで奇をてらうことも無く、堂々とした演奏を聞かせてくれる。
楽器編成は、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン2、トランペット4、ティンパニー、弦5部、コーラスで、ボーカルのソロはない。


フンメル:荘厳ミサ曲/テ・デウムフンメル:荘厳ミサ曲/テ・デウム
アーティスト:グロット
販売元:Naxos
発売日:2004-05-01
クチコミを見る


フンメル 3つの弦楽四重奏曲Op.30

_SL500_AA300_
Johann Nepomuk Hummel: Three String Quartets, Op 30
販売元:Hyperion
発売日:1993-03-04
クチコミを見る





 フンメルは弦楽器のみ室内楽は、弦楽三重奏を2曲とここに収められた3曲の弦楽四重奏しか書いてません。
いずれもCDでリリースされているので手に入れられますが、弦楽四重奏の録音はこれが唯一。
師であるモーツァルトやハイドンの研究の結果生まれた作品ではありますが、どうも当時ライヴァルとして意識していたベートーヴェンの四重奏曲の出版に触発されて書いたようです。この二人は、着かず離れずの関係を死ぬまで続けましたが、それはお互いがそれぞれを評価していたということです。

 作品は、モーツァルトのハイドンセットや、ベートーヴェンの中期以降の作品には及びませんが、典型的な古典派ソナタ形式のお手本のような作品で、ボッケリーニをはじめとする同時代人の作品に劣るようなことは無く、楽しめます。
演奏も録音も優秀。

オルフェウス・バッカス フェスティヴァル

 ドイツのYahooコミュニティーのメンバーより、オルフェウス・バッカス フェスティヴァルの情報が届きました。

 今回のテーマは「フンメルとその友人たち」。
ベートーヴェンをはじめ、師匠のハイドンとモーツァルト、シューベルト、ショパンらの作品と今回の主役であるフンメルの作品が演目リストに並んでいます。

 フンメルの録音に積極的なシャンドスレコードでフンメルの演奏で評価を受けている、シュテファン・ハフやハワード・シェリーらピアニストに加え、初の総合的なフンメル伝記を書いたマーク・クロルらが講演したり、メッセージを伝えるそうです。

 詳細は、英語の案内チラシをご覧ください。

PDFチラシ
hummelFes
フンメル研究ノート

フンメル研究ノート トップページ

フンメル研究ノートというサイトは、クラシック音楽鑑賞を趣味とする一個人が、ヨハン・ネポムク・フンメルの音楽の魅力に取り付かれ、永年かけて収集した情報・データをメモ代わりに掲載している「フンメル研究ノート」のレビューページにあたります。フンメル研究ノートは、あくまでもCD解説、書籍、辞書などから集めた情報を盛り込んだ継ぎはぎの情報を集めたものですので、事実とは違っていたり、解釈が違っている箇所も多いと感じていますが、もっと多くの日本人にフンメルの音楽の魅力を知ってもらいたいと思い公開しています。もっとフンメルの情報が知りたい。またはご興味がある方は、本サイト「フンメル研究ノート」を覗いてみてください。よろしくお願いいたします。

音楽ブログランキング
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック作曲家へ
livedoor プロフィール

フンメルの商品
記事検索
QRコード
QRコード