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 フンメル最後の10年。

 フンメルの晩年、最後の10年間は、新しい世代の音楽・演奏家に押されはじめていましたが、演奏者としては絶頂期であった。教師、楽長、音楽家としての名声はヨーロッパ中に知れ渡っており、多くの音楽家が集まり、弟子入りを希望した。

 1827年にフンメルは、妻と弟子のフェルディナント・ヒラーを伴い、死の床にあったベートーヴェンをウィーンに見舞った。

 生前、幾度となく対立・和解を繰り返してきたこの時代の二人の巨匠は、この機会で最後の和解となった。
ベートーヴェンが亡くなるとフンメルは葬儀で柩の担い役を務め、また追悼演奏会ではベートーヴェンの意志を受けて故人の作品の主題による即興演奏をいくつか行ったが、<フィデリオ>のなかの囚人の合唱に基づく演奏が最も感動を与えた、とヒラーは書き残している。

 この滞在中にフンメルはシューベルトにも会い、あるとき彼の歌曲<盲目の少年>を基に即興演奏を行って、彼を大いに喜ばせた。シューベルトは最後の3つのピアノ・ソナタをフンメルに献呈しており、彼の演奏を望んだと思われるが、これらは両者の没後に出版されたので、出版業者は献呈先をシューマンに変えた。

 1829年に年次休暇を取らなかったことから、1830年には休暇は6ヶ月となって、パリと約40年ぶりのロンドンに演奏旅行を行った。
この演奏旅行は彼の成功を最後に、以後は陰りが見え始める。その後の31年、33年のロンドン滞在では名声はすでに下降線をたどり始めていた。

 1831年の滞在は事実上パガニーニとの競争に敗れたかたちであり、モシェレスやカルクプレンナーら、フンメルのブレーンもチケットを売ることに遁走したが、苦労したらしい。作風が新しく台頭したピアニストたちに比べて「古臭い」(リスト)と思われたのだった。

 一方、1833年の滞在では主にドイツ・オペラ・シーズンの監督を務め、自作のほか、ウェーバー、モーツァルトを取り上げたが、これも圧倒的な成功には至らなかった。そして1834年のあまり成果の上がらないウィーン訪問が最後の演奏旅行となった。

 残る3年間は闘病の日々で、ほとんど活動できなくなっていた。彼の死は一つの時代の終わりと見なされ、ウィーンではその死をいたむにふさわしくモーツァルトのレクイエムが奏された。

 でも彼は膨大な遺産を妻子に残している。才能ありながら、安定を求め、宮使いになったフンメルをベートーヴェンは気に入らなかったという。もっと音楽家、芸術家として自分の魂を!  というタイプではなく、最後まで職業作曲家であった彼は、音楽が持つ雰囲気とは別に、あくまでも「古典派」の域を出なかった作曲家であった。

 没年 175年。

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